古川明さん※に連絡していただき渡辺年夫さんとお会いした。渡辺さんは関西学院大学が1949年(昭和24年)、甲子園ボウルに初出場、初優勝したときのキャプテンである。明快と同時に透徹したユーモアの眼をお持ちの方である。春秋に富んだ人生を客観的に淡々とお話ししてくださった。冷静である。ときに湖面をかすかな風が通り過ぎたように、目に見えるか見えないかのさざなみほどの変化が表情を通りすぎる。
※古川明さんについては#3をご参照ください。
DVD“FIGHT ON, KWANSEI”の台本を書かせていただいたとき、FIGHTERSのCONSISTENCY(堅固さ、持続性)をテーマにさせてもらった。他の大学のさまざまな方から「強さの秘密は何ですか?」と聞かれることがこれまで何度かあった。部のOBではないが母校のことなので面映く、それまでは「さあ、なんなのでしょうね」とのみ応えさせていただいていた。DVDへはその問いかけへの回答の一部を入れさせてもらった。DVD制作時点では渡辺さんのことは仄聞(そくぶん)に留まっていた。一度ご本人にお話をお聞きしたいと思っていたことがかなった。先日も書いたが今回のインタビューも含め終戦後の数年間を時系列に書く予定である。現在その準備をしているので目途がついた時点で書き始めたいと思っている。
今回は「金ぴか時代」のフットボールの展開をまずランキングされたチーム数と各チームの1シーズンのゲーム数から見ていきたい。1869年にラトガーズ大学とプリンストン大学のゲームがあったとき※から大学対抗の対戦記録が残っている。この年は2校、2試合のみである。翌1870年は3校、ラトガーズ大学がプリンストン大学、コロンビア大学と対戦している。1871年は対抗戦の記録がない。1872年は上記にエール大学とスティーブンズ・テックという大学が加わる。前回紹介した大学フットボール連盟が結成された1876年はランキング校が6校になる。エール大学は連盟に加わらなかったが、この年無敗だったので1位になっている。しかし、この時期、一番ゲーム戦数が多いプリンストン大学でも5試合であり、エール大学は3勝0敗でのトップである。2位はハーバード大学だった。
※#1参照
10年後の1886年、最もゲーム数が多かったのはペンシルバニア大学の17ゲーム、ランキングされた14校の平均ゲーム数は約9ゲーム、最も少なかったラトガーズ大学とダートマス大学は4である。そして1896年にはランク校が30校と10年前に比べ倍増する。対戦数は平均すると10ゲーム前後になる。シカゴ大学が19ゲームで抜きん出て多い。
この明らかな数字の増加は1880年代にルールの整備が進んだ結果と見ることができる。1880年代の終わりころウォルター・キャンプによるオール・アメリカンの選出も始まり、同じころフットボールの新聞報道も増えて行った。
まだ時代は荒々しかった。西部開拓時代は1889年まで続いた。1890年の国勢調査の結果がフロンティアの消滅を証明したというのが定説になっている。この時代の空気は西部劇を考えてみると良く理解できる。手がかりとして人物の名前を順不同に列挙する。ワイルド・ビル・ヒコック、ビリー・ザ・キッド、ジェシー・ジェームズ、ワイアット・アープ。このワイアット・アープが登場する「OK牧場の決闘」は1881年のことである。日本でも決闘を禁止する法律が規定されるのは1889年のことであるので同様の猛々しい空気を共有していたことになる。
同時代人であったジョン・D.ロックフェラー,Sr.は1863年にスタンダード・オイルを興し、1870年代の終わり頃、早くもアメリカ国内で90%のシェアを獲得した。しかし、1890年にはシャーマン・反トラスト法が下院において成立した。その結果1892年にスタンダード・オイル・トラストは解散命令を受けている。実際に解体されたのは1911年だがジョン・D.は1895年、韜晦(とうかい)して事業からの引退を声明した。一方1890年、ロックフェラーは2000万ドルの資金を拠出しシカゴ大学を創立した。アメリカンフットボール部もつくられた。コーチとして招聘されたのはのちに「コーチのコーチ」と呼ばれるようになるエイモス・アロンゾ・スタッグである。実質的な体育部長でもあった。スタッグはエール大学でフットボールとベースボールでオール・アメリカンになり卒業したあと、International YMCA Training schoolにいた。ついでながらダニエル・D.ルイスが2度目のアカデミー主演男優賞を獲得した作品である“There Will Be Blood”はスタンダード・オイルに対立する独立系石油会社を描いている。ダニエル・D.ルイスが演じる独立系石油会社を創設し事業のためには徹底して非情な主人公は、ルイスのメイクした風貌とその行動からジョン・D.を容易に連想させ、ロックフェラーに対する強いアイロニーを感じさせる作りになっていて巧みである。
フットボールに話を戻せば、1892年には契約書が残る最初のプロ選手が誕生している。William W. Heffelfingerである。この正確な発音が難しい名前を持つプロ第1号プレーヤーはエール大学出身で1889年から3年連続、オール・アメリカンに選出されたガードの選手だった。このときの契約では当時の金額で1試合500ドルが支払われている。そのあと何人かのプレーヤーが契約をするのだがこの金額は破格だった。また、バックスのプレーヤーではなくラインがスターであったということも興味深いことである。1889年には現在もアリゾナ・カージナルスとして存続するモーガン・アスレティック・クラブが創設された。シカゴにできたセミプロのチームであった。現存する最も古いチームである。1920年、NFLがAPFA※として創設されたとき、シカゴ・カージナルスと改称された。その後もフランチャイズの変更とともにチーム名を変えながら、1988年に現在のアリゾナに本拠を移した。カージナルスというニックネームはシカゴ大学のフットボール・チームのジャージの色に由来している。
※American Professional Football Association
2008年07月25日
#15 「金ぴか時代」とフットボールの展開 その3
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 07:35| 記事
2008年07月17日
#14 「金ぴか時代」とフットボールの展開 その2
ときどき調べものがあって図書館へ行く。これまで夜の7時で閉館だと思っていたが、午後8時まで開いていることが分かった。平日、仕事の後に行けるので便利である。夏季だけのことかも知れないが、確かめないでおく。終って外へ出たら驟雨が来た。駅まで短い距離なのだがいかんともしがたい。激情的な降りなので一時的なものと思い図書館の軒にいてやりすごした。
図書館で古い新聞のマイクロフィルムを見ていた。巻取りがモーターで行えるものもあるが手回し式は風情がある。カラカラと音たててクランクを回していると幻燈機のカタカタという音を思い起こさせ何十年もタイムスリップする仕掛けとして心がなごむ。DVDの“FIGHT ON, KWANSEI”を制作した時、新聞社の方のご好意で読者サービス用に使っておられるマイクロフィルムを見るビューアーを操作させていただいた。新聞を等倍で見ることができ、かつローリングがダイヤルで自動的にできるのまるでスーパー・カーに乗ったようなスピードだった。プリントアウトも非常にきれいだが、いかんせん1枚数百円と高価である。従って調べもので一度に10枚近く頼むには適しない。
調べていたのは1950年の甲子園ボウルのことである。この年は年央に朝鮮戦争がはじまり戦後の日本は転換点にさしかかっていた。甲子園ボウルは前年に引き続き関学と慶応の対戦となり、関学が2連覇して第一期黄金時代を築く第一歩を印した年である。この年を含む終戦直後のフットボールの歴史についてはいずれ詳しく書くつもりである。ゲームは12月10に行われた。社告が2日前の8日に載っている。そこに対戦校名とならんで解説という表示があり、「三隅珠一」という名前が記されている。この頃から場内解説があったようである。三隅先生は#3で紹介したピーター岡田が旧制の池田中学へ指導におもむいたとき池田中学におられた先生である。その後日本のタッチフットボール普及活動の中心となり活躍された。全国高等学校アメリカンフットボール選手権大会、つまりクリスマス・ボウルの最優秀バックス賞に三隅杯としてその名が刻まれている。三隅先生については別に記事をもうける予定なのでここまでとしたい。
前置きが長くなったが、雨宿りの閑話としてお読みいただいていれば幸いである。1869年は前回書いたようにいろいろなことがらの始まりの時期と考えてよい。1870年代にアメリカにおけるメジャーなスポーツのスタートの時期を迎える。1874年、のちにアメリカンフットボールのいしずえとなるハーバード大学とカナダのマギル大学のラグビー・ルールによる対戦が行われた。その翌年、1875年、ケンタッキー・ダービーがスタートする。1876年、メジャー・リーグのナショナル・リーグが早くも設立される。この時のチームのひとつ、シカゴ・ホワイトストッキングス(現在のカブス)に属していたのがアルバート・グッドウイル・スポルディングだった。プレーヤーであり、またスポーツ用品メーカー、スポルディング社の創設者である。スポルディングはスポーツにおけるコミュニケーションの重要性をよく理解していたので関連書籍の出版も熱心に手がけた。のちに大正年間、東京高等師範学校附属中学の生徒たちがフットボールを行った際、丸善の店頭で手にしたのはこのスポルディング社から出されたスポーツ叢書の一冊“How to Play Football”だった。
同年1876年、フットボールにおいてはプリンストン大学がはたらきかけ、大学フットボール連盟※というフットボールにおける最初の競技組織が結成された。招待状が送られたのはその後半世紀にわたりフットボール界でリーダーの役割を果たすハーバード、エール、コロンビアの各大学である。しかし、エール大学はゲームを行うことには同意したが組織には加わらなかった。理由は連盟のルールではラグビーにならい1チームを15人としており、エールはこれに賛同せず11人を主張したからである。このエールのこだわりが結果としてフィールド内の1チームの人数を11人とした。それには「フットボールの父」と呼ばれるウォルター・キャンプに代表されるエール大学の精力的な活動があったからである。
※ Intercollegiate Football Association
1880年代は#2で紹介したようにウォルター・キャンプによるルール整備の時代に入る。日本へのフットボール伝来に大きな役割をはたすYMCAがスポーツ指導者育成のためのInternational YMCA Training School をマサチューセッツのスプリングフィールドに設立するのは1885年のことである。
関大のフットボール部設立にあたり松葉徳三郎とともに働いた石渡俊一は昭和のはじめこの学校に留学した。石渡の先人として大森兵蔵は明治末期にこの学校に学んだ。大森は帰国後、日本が最初に参加したストックホルム・オリンピック(1912年)の監督を務めた。このときの団長は嘉納治五郎である。オリンピック参加のために1911年(明治44年)、日本に体育協会が誕生し、日本のスポーツは黎明期を脱しようとしていた。団とはいいながら代表として送られたのはマラソンの金栗四三と陸上短距離の三島弥彦の2名であった。スプリングフィールドではカリキュラムにフットボールが含まれていたので大森はフットボールを体験した。石渡も授業でフットボールを学んだ。その講義内容は石渡が帰国後、「アサヒスポーツ」という大正年間に発刊された、現在でいえばスポーツ・イラストレイティッドのような雑誌にフットボールの入門記事を書くことができるだけの量とレベルにあった。
図書館で古い新聞のマイクロフィルムを見ていた。巻取りがモーターで行えるものもあるが手回し式は風情がある。カラカラと音たててクランクを回していると幻燈機のカタカタという音を思い起こさせ何十年もタイムスリップする仕掛けとして心がなごむ。DVDの“FIGHT ON, KWANSEI”を制作した時、新聞社の方のご好意で読者サービス用に使っておられるマイクロフィルムを見るビューアーを操作させていただいた。新聞を等倍で見ることができ、かつローリングがダイヤルで自動的にできるのまるでスーパー・カーに乗ったようなスピードだった。プリントアウトも非常にきれいだが、いかんせん1枚数百円と高価である。従って調べもので一度に10枚近く頼むには適しない。
調べていたのは1950年の甲子園ボウルのことである。この年は年央に朝鮮戦争がはじまり戦後の日本は転換点にさしかかっていた。甲子園ボウルは前年に引き続き関学と慶応の対戦となり、関学が2連覇して第一期黄金時代を築く第一歩を印した年である。この年を含む終戦直後のフットボールの歴史についてはいずれ詳しく書くつもりである。ゲームは12月10に行われた。社告が2日前の8日に載っている。そこに対戦校名とならんで解説という表示があり、「三隅珠一」という名前が記されている。この頃から場内解説があったようである。三隅先生は#3で紹介したピーター岡田が旧制の池田中学へ指導におもむいたとき池田中学におられた先生である。その後日本のタッチフットボール普及活動の中心となり活躍された。全国高等学校アメリカンフットボール選手権大会、つまりクリスマス・ボウルの最優秀バックス賞に三隅杯としてその名が刻まれている。三隅先生については別に記事をもうける予定なのでここまでとしたい。
前置きが長くなったが、雨宿りの閑話としてお読みいただいていれば幸いである。1869年は前回書いたようにいろいろなことがらの始まりの時期と考えてよい。1870年代にアメリカにおけるメジャーなスポーツのスタートの時期を迎える。1874年、のちにアメリカンフットボールのいしずえとなるハーバード大学とカナダのマギル大学のラグビー・ルールによる対戦が行われた。その翌年、1875年、ケンタッキー・ダービーがスタートする。1876年、メジャー・リーグのナショナル・リーグが早くも設立される。この時のチームのひとつ、シカゴ・ホワイトストッキングス(現在のカブス)に属していたのがアルバート・グッドウイル・スポルディングだった。プレーヤーであり、またスポーツ用品メーカー、スポルディング社の創設者である。スポルディングはスポーツにおけるコミュニケーションの重要性をよく理解していたので関連書籍の出版も熱心に手がけた。のちに大正年間、東京高等師範学校附属中学の生徒たちがフットボールを行った際、丸善の店頭で手にしたのはこのスポルディング社から出されたスポーツ叢書の一冊“How to Play Football”だった。
同年1876年、フットボールにおいてはプリンストン大学がはたらきかけ、大学フットボール連盟※というフットボールにおける最初の競技組織が結成された。招待状が送られたのはその後半世紀にわたりフットボール界でリーダーの役割を果たすハーバード、エール、コロンビアの各大学である。しかし、エール大学はゲームを行うことには同意したが組織には加わらなかった。理由は連盟のルールではラグビーにならい1チームを15人としており、エールはこれに賛同せず11人を主張したからである。このエールのこだわりが結果としてフィールド内の1チームの人数を11人とした。それには「フットボールの父」と呼ばれるウォルター・キャンプに代表されるエール大学の精力的な活動があったからである。
※ Intercollegiate Football Association
1880年代は#2で紹介したようにウォルター・キャンプによるルール整備の時代に入る。日本へのフットボール伝来に大きな役割をはたすYMCAがスポーツ指導者育成のためのInternational YMCA Training School をマサチューセッツのスプリングフィールドに設立するのは1885年のことである。
関大のフットボール部設立にあたり松葉徳三郎とともに働いた石渡俊一は昭和のはじめこの学校に留学した。石渡の先人として大森兵蔵は明治末期にこの学校に学んだ。大森は帰国後、日本が最初に参加したストックホルム・オリンピック(1912年)の監督を務めた。このときの団長は嘉納治五郎である。オリンピック参加のために1911年(明治44年)、日本に体育協会が誕生し、日本のスポーツは黎明期を脱しようとしていた。団とはいいながら代表として送られたのはマラソンの金栗四三と陸上短距離の三島弥彦の2名であった。スプリングフィールドではカリキュラムにフットボールが含まれていたので大森はフットボールを体験した。石渡も授業でフットボールを学んだ。その講義内容は石渡が帰国後、「アサヒスポーツ」という大正年間に発刊された、現在でいえばスポーツ・イラストレイティッドのような雑誌にフットボールの入門記事を書くことができるだけの量とレベルにあった。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 07:15| 記事
2008年07月10日
#13 「金ぴか時代」とフットボールの展開 その1
まるで真夏のようである。降れば土砂降りから晴れれば蒸し風呂に変わった。セミの声は少し先だが、暑さを好むクマゼミの北限がどんどん北上し、関東平野でも大増殖しているという話だ。大阪でもクマゼミの数が急増しているという。調べるには脱皮した蝉の殻を集め、アブラゼミの数との比率を出すという。ここ20数年にわたり大阪各所の蝉の繁殖地でセミ殻を地道に集めている方々がおられると聞いた。歴史の調査もその作業と似ている。人手が必要で、ひとつのことばに至るまで多くの方の労力を要する。
さて、前回の続きである。南北戦争が終わりアメリカは次第に都市化していった。この頃から19世紀末にかけての約30年間を、ハレー彗星とともに生まれ、彗星とともに去ったマーク・トウェインは「金ぴか時代」と名づけ、同名の小説を残した。「ハックルベリー・フィンの冒険」や「トム・ソーヤの冒険」で知られているこの作家は生まれた年にハレー彗星が観測されたので、かねがね去るときも彗星の年だと半ば得意のユーモアをこめて語っていた。
「金ぴか時代」は急激な経済成長にともなう拝金主義の、いわばバブルの時代だった。ヴィクトリア朝イギリスのちょうど真中、折り返し点に当たる1869年、ラトガーズ大学とプリンストン大学の初の大学対抗フットボール・ゲームが行われたことは#1で述べたとおりである。大英帝国のたそがれへの序章が始まろうとしていた。そして南北戦争を終えたアメリカはパクス・アメリカーナを築く長い道のりのとば口にさしかかっていた。
フォワード・パス採用以前の19世紀原初フットボールは現在から考えれば乱暴で危険な競技であったにもかかわらずなぜ廃止に追い込まれなかったか、という疑問がこれまでにも投げられかけてきた。代表的な回答は以下の2つである。
第一は民俗フットボールから近代フットボールに移行する過程にあったため同時代人には存続の帰趨(きすう)を制するほどの乱暴とは映らなかった、というものである。
第二。19世紀後半は、二度の世界大戦を含む戦争の世紀である20世紀につらなる国際紛争激化の時代であった。普仏(プロシア・フランス)戦争、希土(ギリシア・オスマン)戦争、米西(アメリカ・スペイン)戦争などが起こった。オリンピックを提唱したクーベルタンには普仏戦争に敗れた祖国再興のために青少年間にスポーツを振興させ強国を作るというもくろみもあったといわれている。こうした背景の中で南北戦争が終わり都市化が進み、金ぴか時代の進行とともにアメリカ人の間では国を守るために必要な勇敢さが次第に失われつつあるという危機感があった。したがって勇敢さの確保のためにフットボールは支持された、と考えられている。この考えは20世紀に入ってからもセオドア・ルーズベルト大統領、その後のウィリアム・タフト大統領にも引き継がれた。そして関西大学アメリカンフットボール部の創設者である松葉徳三郎は1932年、ロサンゼルス・オリンピック視察のおり、USC他のフットボール・ゲームを観て、まさにこの勇敢の精神を感得し、創部を決意したという。
当初、東海岸で興ったフットボールは初秋から晩秋にかけての天候の安定しない中で行われた。英語に“sloppy”という単語がある。水っぽい、水浸しの、泥んこの、といった訳語が与えられている。筆者の観戦したハーバード大学とエール大学の対抗戦も霧とも雨ともつかない、大気に多量の水分を含んだ11月の空の下で行われた。戦争は天候を選ばず泥濘の塹壕戦ということもしばしばである。そうした状況下で悪条件をものともせず戦える肉体と精神の涵養が必要と切実に考えられていた時代であった。
さて、前回の続きである。南北戦争が終わりアメリカは次第に都市化していった。この頃から19世紀末にかけての約30年間を、ハレー彗星とともに生まれ、彗星とともに去ったマーク・トウェインは「金ぴか時代」と名づけ、同名の小説を残した。「ハックルベリー・フィンの冒険」や「トム・ソーヤの冒険」で知られているこの作家は生まれた年にハレー彗星が観測されたので、かねがね去るときも彗星の年だと半ば得意のユーモアをこめて語っていた。
「金ぴか時代」は急激な経済成長にともなう拝金主義の、いわばバブルの時代だった。ヴィクトリア朝イギリスのちょうど真中、折り返し点に当たる1869年、ラトガーズ大学とプリンストン大学の初の大学対抗フットボール・ゲームが行われたことは#1で述べたとおりである。大英帝国のたそがれへの序章が始まろうとしていた。そして南北戦争を終えたアメリカはパクス・アメリカーナを築く長い道のりのとば口にさしかかっていた。
フォワード・パス採用以前の19世紀原初フットボールは現在から考えれば乱暴で危険な競技であったにもかかわらずなぜ廃止に追い込まれなかったか、という疑問がこれまでにも投げられかけてきた。代表的な回答は以下の2つである。
第一は民俗フットボールから近代フットボールに移行する過程にあったため同時代人には存続の帰趨(きすう)を制するほどの乱暴とは映らなかった、というものである。
第二。19世紀後半は、二度の世界大戦を含む戦争の世紀である20世紀につらなる国際紛争激化の時代であった。普仏(プロシア・フランス)戦争、希土(ギリシア・オスマン)戦争、米西(アメリカ・スペイン)戦争などが起こった。オリンピックを提唱したクーベルタンには普仏戦争に敗れた祖国再興のために青少年間にスポーツを振興させ強国を作るというもくろみもあったといわれている。こうした背景の中で南北戦争が終わり都市化が進み、金ぴか時代の進行とともにアメリカ人の間では国を守るために必要な勇敢さが次第に失われつつあるという危機感があった。したがって勇敢さの確保のためにフットボールは支持された、と考えられている。この考えは20世紀に入ってからもセオドア・ルーズベルト大統領、その後のウィリアム・タフト大統領にも引き継がれた。そして関西大学アメリカンフットボール部の創設者である松葉徳三郎は1932年、ロサンゼルス・オリンピック視察のおり、USC他のフットボール・ゲームを観て、まさにこの勇敢の精神を感得し、創部を決意したという。
当初、東海岸で興ったフットボールは初秋から晩秋にかけての天候の安定しない中で行われた。英語に“sloppy”という単語がある。水っぽい、水浸しの、泥んこの、といった訳語が与えられている。筆者の観戦したハーバード大学とエール大学の対抗戦も霧とも雨ともつかない、大気に多量の水分を含んだ11月の空の下で行われた。戦争は天候を選ばず泥濘の塹壕戦ということもしばしばである。そうした状況下で悪条件をものともせず戦える肉体と精神の涵養が必要と切実に考えられていた時代であった。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 09:12| 記事
2008年07月02日
#12 雨降りだからフットボールでも勉強しよう
雨のシーズンだ。ただ、昔は梅雨はシトシトと降ったが、最近は昔、学校の英語のリーダーに載っていた「降れば土砂降り」が多くなった。まるでスコールである。温暖化のためミカンの産地が北上し、以前ミカンどころであった愛媛などが苦戦中と聞く。海外でもふらんすのワイン葡萄(ぶどう)の質が落ち、ドーバー海峡を渡ってイギリス南部で葡萄の栽培をするようになったらしい。
「雨降りだからミステリーでも勉強しよう」というエッセイがあった。それにならって今回のタイトルをつけた。本歌の作者は植草甚一(1908〜1979)という評論家である。ジャズ、アメリカ文学、映画に造詣が深く江戸っ子らしい洒脱なエッセイを多くものにした。今どれくらいの人たちの記憶にあるか推測がつかないが、一部の愛好家の間で信仰を集め古書のネット検索でも1,000件以上ヒットするので、限界を超えすべてを表示しない。「植草甚一スクラップブック」というタイトルの全40巻からなる全集原油のように値上がりを続け、以前神田の古書街で見かけたときは全冊揃いで数10万円の値段がついていた。
このブログの#2に書いた米田先生の「アメリカン・フットボールの起源とその発展段階」を再読した。第2章の6に「大学対抗フットボールの創始」という項がある。#1で紹介した1869年のラトガーズ大学とプリンストン大学の大学対抗戦のことが書かれておりこのゲームの詳細が残っている。フットボールにとって幸いなことに同じ年の年初にラトガーズ大学の大学新聞である“The Targum”が創刊され、記念すべきこのゲームの観戦記が残ることになった。このサイトの項目「部史」の中に以前紹介したように上記の論文が掲載されておりそのあらましを読むことができる。
アメリカは1865年に南北戦争が終った。1848年にカリフォルニアで起こったゴールド・ラッシュが引き金となって大西洋側にあった原型としてのアメリカが太平洋側に東進するきっかけとなった。この一連の騒動は1850年代まで続き、1849年にピークに達し、NFLのサンフランシスコのチームに“forty-niners”(49ers)”というニックネームを残した。日本人でも土佐出身で漂流してアメリカにあったジョン万次郎がこれに参加している。また人々が押しかけこの地域の人口爆発が起こったので1852年にカリフォルニアは州になってしまった。
金と戦争という人の本性によってアメリカは徐々にひとつになっていった。象徴的できごととして、1869年にユニオン・パシフィックすなわち大陸横断鉄道が開通した。人の行き来がさらに活発になりスポーツもその影響を受けた。それまで大学校内に留まっていたフットボールが大学対抗になった。つけくわえればアメリカは映画「不都合な真実」のアル・ゴアの父が推進した「インター・ステイツ・ハイウェイ」(州間高速道路)とゴアの提唱した「インターネット」により、この広大な地域をひとつにして行った。
「大学対抗フットボールの創始」には観客がおよそ200名と書かれている。この時,ラトガーズ大学には10数人の日本人留学生がいたのでだれか記念すべきフットボールのオリジナル・ゲームを観戦した可能性がある。このことについてはいずれ触れたいと思っている。
Rutgersの発音は難しい。あえてカタカナ表記すれば「ラッガーズ」らしい。本、論文を見ると「ラトガース」、「ラトガーズ」などさまざまある。この稿は「ニューズウィーク」の日本語版にならい「ラトガーズ」とした。
「雨降りだからミステリーでも勉強しよう」というエッセイがあった。それにならって今回のタイトルをつけた。本歌の作者は植草甚一(1908〜1979)という評論家である。ジャズ、アメリカ文学、映画に造詣が深く江戸っ子らしい洒脱なエッセイを多くものにした。今どれくらいの人たちの記憶にあるか推測がつかないが、一部の愛好家の間で信仰を集め古書のネット検索でも1,000件以上ヒットするので、限界を超えすべてを表示しない。「植草甚一スクラップブック」というタイトルの全40巻からなる全集原油のように値上がりを続け、以前神田の古書街で見かけたときは全冊揃いで数10万円の値段がついていた。
このブログの#2に書いた米田先生の「アメリカン・フットボールの起源とその発展段階」を再読した。第2章の6に「大学対抗フットボールの創始」という項がある。#1で紹介した1869年のラトガーズ大学とプリンストン大学の大学対抗戦のことが書かれておりこのゲームの詳細が残っている。フットボールにとって幸いなことに同じ年の年初にラトガーズ大学の大学新聞である“The Targum”が創刊され、記念すべきこのゲームの観戦記が残ることになった。このサイトの項目「部史」の中に以前紹介したように上記の論文が掲載されておりそのあらましを読むことができる。
アメリカは1865年に南北戦争が終った。1848年にカリフォルニアで起こったゴールド・ラッシュが引き金となって大西洋側にあった原型としてのアメリカが太平洋側に東進するきっかけとなった。この一連の騒動は1850年代まで続き、1849年にピークに達し、NFLのサンフランシスコのチームに“forty-niners”(49ers)”というニックネームを残した。日本人でも土佐出身で漂流してアメリカにあったジョン万次郎がこれに参加している。また人々が押しかけこの地域の人口爆発が起こったので1852年にカリフォルニアは州になってしまった。
金と戦争という人の本性によってアメリカは徐々にひとつになっていった。象徴的できごととして、1869年にユニオン・パシフィックすなわち大陸横断鉄道が開通した。人の行き来がさらに活発になりスポーツもその影響を受けた。それまで大学校内に留まっていたフットボールが大学対抗になった。つけくわえればアメリカは映画「不都合な真実」のアル・ゴアの父が推進した「インター・ステイツ・ハイウェイ」(州間高速道路)とゴアの提唱した「インターネット」により、この広大な地域をひとつにして行った。
「大学対抗フットボールの創始」には観客がおよそ200名と書かれている。この時,ラトガーズ大学には10数人の日本人留学生がいたのでだれか記念すべきフットボールのオリジナル・ゲームを観戦した可能性がある。このことについてはいずれ触れたいと思っている。
Rutgersの発音は難しい。あえてカタカナ表記すれば「ラッガーズ」らしい。本、論文を見ると「ラトガース」、「ラトガーズ」などさまざまある。この稿は「ニューズウィーク」の日本語版にならい「ラトガーズ」とした。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 00:01| 記事
2008年06月25日
#11 神戸ボウル3
前回、星陵高校側から見た神戸ボウルのことを扱った。今回は兵庫高校側からのことがらに触れたい。それにあたってはマキショウ、タック牧田すなわち牧田隆さんが1990年、「アメリカンフットボール・マガジン」に「神戸ボウル物語」というタイトルでA4版2ページの詳しい記事を書かれている。現在この雑誌の入手は難しいのでその記事をダイジェストして掲載させていただく。< >かっこ内は筆者注。
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「皮をむきかけた蜜柑〈みかん〉のようなボール」
昭和20年代は終戦直後で、軍服のアメリカ兵を日本各地で見かけることができた<その一人がピーター岡田やオダノ>。アメリカ軍のキャンプの金網越しにフットボールの練習を見ることができた。京都大学のフットボール・チームのベンチでは軍服姿のアメリカ人将校が英語でコーチしていた。
「おれもあれをやってみたい」と願う少数の高校生が兵庫高校と星陵高校にいた。この2校の幸運は星陵のリーダー米田豊の長兄が米田満であったことである。また、満は兵庫高校の前身の神戸二中の卒業生であった。星陵にはすざましくオンボロのボールがひとつあった。皮をむきかけた蜜柑のようなボールだった。一方兵庫がとぼしい小遣いを集めて買ったボールは玩具の様なもので、蹴るとボコンと鳴った。同校はラグビーの名門だったのでラグビーボールでパスの練習をした。サイドスローでフォワード・パスを投げられる者がパサーになった。これらの仲間4名が関学大に入学した。フットボール部のない大学に進学した者、入試に失敗した者達は彼らをうらやましがった。当時の高校はタッチフットボールであった。両校の連合チームで関学高等部に挑戦したのが唯一の試合経験だった。
「防具調達が試合日決定の根拠だった」
新人のシーズンが終って米田豊と牧田は両校の仲間達のためにゲームを実現したいと願った。防具を借りられるのは関学の練習が休みの正月だけであった。
防具は星陵、グランドは兵庫がそれぞれ担当した。正月は公立高校のグランドが借りられないため、私立の村野工業高校のグランドを借りた。これが第1回神戸ボウルである。大晦日の午後、豪雨の中、牧田、米田、平井の3名は石灰でラインを引いた。
兵庫高校はその前身、神戸二中を含め次のようなフットボールの関係者を生んでいる。三浦清(同志社大学、関西アメリカンフットボール協会会長、故人)、前記の米田満、堂本猛(当時関大主将)、牧田の後輩、井上透(関大主将)、松浦(関学)。星陵は、関学に進学した平岡敏彦(米田豊の次の主将)、米田正勝<米田兄弟の三男>、林武恒(関大主将)が続き、現在も部が存続している。試合は堂本が大学4年生の実力を見せて、泥田を独走しエンド・ゾーンとおぼしきあたりまで到達したが、ボールを高らかに片手で差し上げ、ファンブルしタッチダウンならず。結果は後藤俊明(法政大)がタッチダウンし、全星陵6、全兵庫0のスコアーだった。ゲームが終っても着替えることもできなかったので<当時、高校にシャワーなどなかったし、おそらく水道も勝手には使えなかった>粋人高校生、井上透の案で連れ込み宿でなんとか風呂場を使わせてもらい、入浴料つきご同伴、ご休憩料金をはらわせられた。
「ひと芝居打ってくれたアメリカ領事」
1953年1月4日の第2回は不思議な才能をもった前田秀男という元先輩の同級生が、当時神戸外人クラブが使っていた東遊園地グランド<位置は現在の神戸市役所南側の東遊園地公園だがこのときのグランドはなく、公園になっている>が使用可能となった。正式な許可でなく日本人管理者にひそかに礼金を渡しての使用だった。前田氏と前記三浦先輩の尽力でこの年から神戸新聞社後援になった。三浦清の弟の三浦保の仲介で優勝楯らしきものができたが授賞式が済むと新聞社に持ち帰られたようであった。
この年のゲームは、高校生現役同士と両校OBの2ゲームだった。兵庫高校7−6星陵高校、兵庫OB10−14星陵OB。英語に強い三浦先輩がアメリカ領事を口説き、急遽MVP杯を出してもらうことになった。使いが新聞社に走った。「絶対に返してくれよ」の約束で領事からこのMVP杯が牧田隆に手渡された。領事が握手を求めた。当時外人と握手するのは大変な出来事だった。領事は「オカシイネ、コレハ エイガ コンクールノ ショウ ラシイデスネ」と小声でいった。ありあわせで借りた楯は「なんとか映画コンクール」の賞だった。領事は日本語が読めて、それでも一芝居打ってくれた。牧田が頭を下げ賞を受け取る写真を撮ったあと、楯は前田が返しに行った。
同年、兵庫高校のフットボール部は廃部となった。ラグビー名門校であったため有能選手の分散を避けるためであった。神戸ボウルは歴史の中で関西協会に移管されたが、星陵高校OBは平成元年<この記事が書かれた前年>よりポートボウルと称して懐かしいゲームを復活した。<神戸ボウルは移動祝祭日のように開催日が変わり、再来年、還暦を迎える>
==========================
「皮をむきかけた蜜柑〈みかん〉のようなボール」
昭和20年代は終戦直後で、軍服のアメリカ兵を日本各地で見かけることができた<その一人がピーター岡田やオダノ>。アメリカ軍のキャンプの金網越しにフットボールの練習を見ることができた。京都大学のフットボール・チームのベンチでは軍服姿のアメリカ人将校が英語でコーチしていた。
「おれもあれをやってみたい」と願う少数の高校生が兵庫高校と星陵高校にいた。この2校の幸運は星陵のリーダー米田豊の長兄が米田満であったことである。また、満は兵庫高校の前身の神戸二中の卒業生であった。星陵にはすざましくオンボロのボールがひとつあった。皮をむきかけた蜜柑のようなボールだった。一方兵庫がとぼしい小遣いを集めて買ったボールは玩具の様なもので、蹴るとボコンと鳴った。同校はラグビーの名門だったのでラグビーボールでパスの練習をした。サイドスローでフォワード・パスを投げられる者がパサーになった。これらの仲間4名が関学大に入学した。フットボール部のない大学に進学した者、入試に失敗した者達は彼らをうらやましがった。当時の高校はタッチフットボールであった。両校の連合チームで関学高等部に挑戦したのが唯一の試合経験だった。
「防具調達が試合日決定の根拠だった」
新人のシーズンが終って米田豊と牧田は両校の仲間達のためにゲームを実現したいと願った。防具を借りられるのは関学の練習が休みの正月だけであった。
防具は星陵、グランドは兵庫がそれぞれ担当した。正月は公立高校のグランドが借りられないため、私立の村野工業高校のグランドを借りた。これが第1回神戸ボウルである。大晦日の午後、豪雨の中、牧田、米田、平井の3名は石灰でラインを引いた。
兵庫高校はその前身、神戸二中を含め次のようなフットボールの関係者を生んでいる。三浦清(同志社大学、関西アメリカンフットボール協会会長、故人)、前記の米田満、堂本猛(当時関大主将)、牧田の後輩、井上透(関大主将)、松浦(関学)。星陵は、関学に進学した平岡敏彦(米田豊の次の主将)、米田正勝<米田兄弟の三男>、林武恒(関大主将)が続き、現在も部が存続している。試合は堂本が大学4年生の実力を見せて、泥田を独走しエンド・ゾーンとおぼしきあたりまで到達したが、ボールを高らかに片手で差し上げ、ファンブルしタッチダウンならず。結果は後藤俊明(法政大)がタッチダウンし、全星陵6、全兵庫0のスコアーだった。ゲームが終っても着替えることもできなかったので<当時、高校にシャワーなどなかったし、おそらく水道も勝手には使えなかった>粋人高校生、井上透の案で連れ込み宿でなんとか風呂場を使わせてもらい、入浴料つきご同伴、ご休憩料金をはらわせられた。
「ひと芝居打ってくれたアメリカ領事」
1953年1月4日の第2回は不思議な才能をもった前田秀男という元先輩の同級生が、当時神戸外人クラブが使っていた東遊園地グランド<位置は現在の神戸市役所南側の東遊園地公園だがこのときのグランドはなく、公園になっている>が使用可能となった。正式な許可でなく日本人管理者にひそかに礼金を渡しての使用だった。前田氏と前記三浦先輩の尽力でこの年から神戸新聞社後援になった。三浦清の弟の三浦保の仲介で優勝楯らしきものができたが授賞式が済むと新聞社に持ち帰られたようであった。
この年のゲームは、高校生現役同士と両校OBの2ゲームだった。兵庫高校7−6星陵高校、兵庫OB10−14星陵OB。英語に強い三浦先輩がアメリカ領事を口説き、急遽MVP杯を出してもらうことになった。使いが新聞社に走った。「絶対に返してくれよ」の約束で領事からこのMVP杯が牧田隆に手渡された。領事が握手を求めた。当時外人と握手するのは大変な出来事だった。領事は「オカシイネ、コレハ エイガ コンクールノ ショウ ラシイデスネ」と小声でいった。ありあわせで借りた楯は「なんとか映画コンクール」の賞だった。領事は日本語が読めて、それでも一芝居打ってくれた。牧田が頭を下げ賞を受け取る写真を撮ったあと、楯は前田が返しに行った。
同年、兵庫高校のフットボール部は廃部となった。ラグビー名門校であったため有能選手の分散を避けるためであった。神戸ボウルは歴史の中で関西協会に移管されたが、星陵高校OBは平成元年<この記事が書かれた前年>よりポートボウルと称して懐かしいゲームを復活した。<神戸ボウルは移動祝祭日のように開催日が変わり、再来年、還暦を迎える>
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 01:54| 記事
2008年06月19日
#10 「邂逅」−神戸ボウル2−
米田豊さんが神戸ボウルの調査報告を送ってきて下さった。アパさんこと、島田勘兵衛氏はあくまでも律儀である。遅くなりました、と恐縮されるので、こちらがさらに恐縮の極みにある。
今から18年前にタック牧田(本名、牧田隆)さんが「神戸ボウルことはじめ」を書かれた。アメリカの大学院でマスターをいくつも取られた上、NFLで公式カメラマンをされている。島田勘兵衛氏とご同輩のはずなので少なくとも70歳代後半である。はやりことばに乗ずれば、後期高齢者ということになろうか。ごく最近まで、あるいはまだ現役でおられるかも知れない。以前に読んだ牧田さんの書かれたものによれば、ピッツバーグで撮影し、自分で車を運転、マイアミに翌日に到着、この間の寒暖の差が摂氏50度近くということであった。まさに読むだけでめまいが起こる行動力である。
神戸ボウルは前回書いたように第1回が1952年1月1日に行われた。第1回の優勝楯が残っている可能性についてお聞きしていたが、今回の調査の結果、第1回は神戸新聞社がまだ後援をされておらず、表彰式はなく,従って楯、カップのたぐいはなかったと判明した。豊さんが保存されているものは大会の回数表示が入っていないのだが前後から推測し第3回大会のものと思われる。今回記事に添付したものである。

関学の戦前からの先輩諸氏が早くから米田満先生を自分達の後継者と目し、現役時代からコーチの役割を託しておられた。米田先生は関西学院中学部、高等部の指導もされ、また弟の豊さんが在学されていた星陵高校にタッチフットボール部を作る手助けをされた。今年、関学の2年生クォーターバックで、アンダー19のスターターとして活躍した加藤君は星陵出身なので豊さんの孫の世代の後輩になる。
星陵高校の創部は1950年、同じ頃兵庫高校にもタッチフットボール部が誕生した。星陵、アパッチ、兵庫、マキショウ(タック牧田さんのあだ名)はそれぞれ両校の仲間達のためにアメリカのようにボウル・ゲームをしたいと考えた。タック牧田さんが書かれた記事の表現お借りすれば、「自分でフットボールを探し当てた人達」であった。このアパッチとマキショウが出会い、米田先生が作られた環境の中で「神戸ボウル」を実現した。
まだ創部間もなく部員の少ない両校はOBを含めての、全星陵と全兵庫の対戦となった。結果は6−0。前夜からの豪雨のため「七人の侍」の雨中の戦闘シーンのようであったであろう。
以下島田勘兵衛殿からの参戦記である。
==========================
初期の神戸ボウルについて星陵サイドの思い出話です。昭和26年末、阪急甲東園駅前に10名以上の星陵OB、現役が集結、徒歩約20分かけて関学の部室に両軍の防具を調達に出かけた。全部人海戦術である。荷物車を手配できる優れ者などいない。調達した防具を全員で持てるだけ抱えて持ち帰ったものである。勿論返却の際も同じ動作を繰り返している。如何に防具をつけたアメリカンフットボールをやりたいかの一念あったればこそと想起される。
試合会場を村野工業高校に設定したのはアメリカンフットボールへの熱き思いからである。村野工業の位置は山陽電車長田駅(現在は地下鉄になっている)プラットホームから俯瞰して見下ろせるグランドになっている。すぐ近辺に正月は参拝でごった返す有名な長田神社がある。アメリカンフットボールのような競技など見たことのない人々に格好のPR材料になるとの確信をお互いの共通認識としてもったからに他ならない。
当日は米田満只一人による審判の試合であった。全く草野球ならぬ草フットボールである。しかしあのわくわくした熱い感情はいまだに決して忘れられないものである。
牧田隆の文のうち訂正しておきたいのは第2回東遊園地グランドでの一節である。2回から5〜6回までグランドの借り受けは星陵側で取り仕切っている。神戸市→神戸外人クラブのこの東遊園地グランドの管理責任者は橘さんという気性のすっきりした太っ腹なお方で我々の申し出を快く理解してくださって彼の一存でグランド使用を許可してくださったものである。礼金など一切受け取らないありがたいお方であったと記憶している。
==========================
<私からの注>
牧田さんの文章では管理人に謝礼を渡したことになっている。この件でお二人が喧嘩をなさらぬことを祈っている。のちに無二の親友となる二人はこの第1回神戸ボウルでゲーム中にど派手なケンカをされたということである。現在なら退場かも知れない。
今から18年前にタック牧田(本名、牧田隆)さんが「神戸ボウルことはじめ」を書かれた。アメリカの大学院でマスターをいくつも取られた上、NFLで公式カメラマンをされている。島田勘兵衛氏とご同輩のはずなので少なくとも70歳代後半である。はやりことばに乗ずれば、後期高齢者ということになろうか。ごく最近まで、あるいはまだ現役でおられるかも知れない。以前に読んだ牧田さんの書かれたものによれば、ピッツバーグで撮影し、自分で車を運転、マイアミに翌日に到着、この間の寒暖の差が摂氏50度近くということであった。まさに読むだけでめまいが起こる行動力である。
神戸ボウルは前回書いたように第1回が1952年1月1日に行われた。第1回の優勝楯が残っている可能性についてお聞きしていたが、今回の調査の結果、第1回は神戸新聞社がまだ後援をされておらず、表彰式はなく,従って楯、カップのたぐいはなかったと判明した。豊さんが保存されているものは大会の回数表示が入っていないのだが前後から推測し第3回大会のものと思われる。今回記事に添付したものである。
関学の戦前からの先輩諸氏が早くから米田満先生を自分達の後継者と目し、現役時代からコーチの役割を託しておられた。米田先生は関西学院中学部、高等部の指導もされ、また弟の豊さんが在学されていた星陵高校にタッチフットボール部を作る手助けをされた。今年、関学の2年生クォーターバックで、アンダー19のスターターとして活躍した加藤君は星陵出身なので豊さんの孫の世代の後輩になる。
星陵高校の創部は1950年、同じ頃兵庫高校にもタッチフットボール部が誕生した。星陵、アパッチ、兵庫、マキショウ(タック牧田さんのあだ名)はそれぞれ両校の仲間達のためにアメリカのようにボウル・ゲームをしたいと考えた。タック牧田さんが書かれた記事の表現お借りすれば、「自分でフットボールを探し当てた人達」であった。このアパッチとマキショウが出会い、米田先生が作られた環境の中で「神戸ボウル」を実現した。
まだ創部間もなく部員の少ない両校はOBを含めての、全星陵と全兵庫の対戦となった。結果は6−0。前夜からの豪雨のため「七人の侍」の雨中の戦闘シーンのようであったであろう。
以下島田勘兵衛殿からの参戦記である。
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初期の神戸ボウルについて星陵サイドの思い出話です。昭和26年末、阪急甲東園駅前に10名以上の星陵OB、現役が集結、徒歩約20分かけて関学の部室に両軍の防具を調達に出かけた。全部人海戦術である。荷物車を手配できる優れ者などいない。調達した防具を全員で持てるだけ抱えて持ち帰ったものである。勿論返却の際も同じ動作を繰り返している。如何に防具をつけたアメリカンフットボールをやりたいかの一念あったればこそと想起される。
試合会場を村野工業高校に設定したのはアメリカンフットボールへの熱き思いからである。村野工業の位置は山陽電車長田駅(現在は地下鉄になっている)プラットホームから俯瞰して見下ろせるグランドになっている。すぐ近辺に正月は参拝でごった返す有名な長田神社がある。アメリカンフットボールのような競技など見たことのない人々に格好のPR材料になるとの確信をお互いの共通認識としてもったからに他ならない。
当日は米田満只一人による審判の試合であった。全く草野球ならぬ草フットボールである。しかしあのわくわくした熱い感情はいまだに決して忘れられないものである。
牧田隆の文のうち訂正しておきたいのは第2回東遊園地グランドでの一節である。2回から5〜6回までグランドの借り受けは星陵側で取り仕切っている。神戸市→神戸外人クラブのこの東遊園地グランドの管理責任者は橘さんという気性のすっきりした太っ腹なお方で我々の申し出を快く理解してくださって彼の一存でグランド使用を許可してくださったものである。礼金など一切受け取らないありがたいお方であったと記憶している。
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<私からの注>
牧田さんの文章では管理人に謝礼を渡したことになっている。この件でお二人が喧嘩をなさらぬことを祈っている。のちに無二の親友となる二人はこの第1回神戸ボウルでゲーム中にど派手なケンカをされたということである。現在なら退場かも知れない。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 07:34| 記事
2008年06月12日
#9 神戸ボウルと明治・関学定期戦
先週の土曜日、6月7日、第58回神戸ボウルがあった。いわずもがな今年1月3日のライス・ボウルと同じ対戦である。松下電工と関西学院大学、が、双方にとりこの時点でのゲームの意味合いは異なる。両チームの今シーズンの設計図を推理したいファンからすれば見逃せないゲームである。モーター・スポーツのF1チームのようにもてる潜在力の最大値をスタッフ、メンバー全員でどう実現するか、1年をかけて読みつづける筋書きの見えない長いSAGA(物語)の序章である。
神戸ボウルの歴史について。
創設への布石を打たれたのは#2で紹介した米田満先生である。弟の米田豊さんは先生と協力され第1回の神戸ボウルの準備をし、ご自分もプレーヤーとして出場された。旧制奈良中学の調査に引き続き今回もご助力を仰いだ。今後追々に紹介してゆくが、他にも努力された多くの同輩がおられたことは言うまでもない。第1回大会はアメリカのボウル・ゲームにならって元旦に行われた。1952年(昭和27年)のことである。このときの優勝盾が保存されているという。今から20年近く前にこのボウル・ゲームの起源を調べた時にはなかった情報である。現在このことも含め資料の整理をしていただいているので詳細は回を改めたいと思う。
さて、今週末の14日(土曜日)に明治大学・関西学院大学定期戦が行われる。最初の対戦は1948年(昭和23年)1月25日、場所は甲子園球場である。終戦後まだ間もない時なので、時代状況が現在と大きく異なる。第1回の甲子園バウルも現在の冬、12月第3週の日曜日とは異なり、春の1947年4月13日に行われた。明治・関学の試合日が1月という野球のオフであったのに加え、戦争のためグランドも荒廃しておりゲームができるフィールドが限られていたという事情もあった
前述「バウル」ということばには説明が必要である。当時「甲子園ボウル」は第5回大会まで「バウル」と表記された。英語の“Bowl”、例えばサラダ・ボウルなどのように競技場がボウルの形をしていることに由来している。そのカタカナ表示が「バウル」であった。こうした例は他にも幾多ある。現在でも古いビルの玄関に「○○ビルジング」と書かれていたりする。したがっては第5回までは「甲子園バウル」であり、第6回の1951年から現在の「ボウル」に落ち着いた。
第1回の対戦は、13−6で明治の勝利だった。1948年当時にタイム・スリップする。戦前の1934年(昭和9年)に創部し、戦争による中断までの9シーズン、関東でのリーグ戦で5度の優勝を遂げていた古豪明治にまだチームのかたちを模索し始めていた関学が胸を借りるということから始まった。はるかな格上にもかかわらず明治大学は西下してくれた。戦後、東海道本線にも急行、ましてや特急などなく普通の夜行列車で東京‐大阪間が10数時間かかった時代である。第2回目は翌1949年1月22日、関学は初めて明治を19−6で破り、新たな次元に進むきっかけをつかんだ。
秋のシーズンが開幕した。関学は各ゲームに苦労しながらも勝利を重ね、関西学生リーグで初優勝した。そして「バウル」の時代の後期、第4回甲子園バウルに初出場し、初優勝を果たす。
その後半世紀以上にわたり定期戦は続けられ今年で61回目になる。甲子園ボウルで明治と関学が対戦すると接戦となる傾向がある。さらに春秋、あるパターンが存在する。これまで春の定期戦で関学が明治に、0−22、0−56といった一方的なスコアーで敗戦を記録したのち、その年の甲子園ボウルであいまみえると、38−36、48−46という接戦を繰り広げる。このことに気づいたのはDVD“FIGHT ON, KWANSEI”を制作したときである。特に1985年の甲子園ボウルはめくるめくような好ゲームとなった。
今年は大学1部リーグは東西ともに実力の接近したチームがいくつもあるのでリーグ優勝の行方は予断を許さない。しかし、明治・関学が前回1985年に甲子園ボウルで対戦したときのように現在の明治大学にはクォーターバック、ランニング・バックに逸材がそろい、今週末の対戦では両チームともフィジカルに見ごたえのあるプレイ展開してくれることを期待している。特に明治の3年生ランニング・バック、喜代吉(きよし)壮太は1985年の甲子園を沸かせ、そのすべらかで粘り強い走りを「スネーク」と形容された先輩ランニング・バック、吉村祐二に勝るとも劣らないといわれている。「喜代吉」という日本で12軒しかない稀少な姓を持つランニング・バックは1年生の時に一度見たきりだが、明治大学時代にはタイト・エンド、社会人になってからはワイド・レシーバーとして活躍した堀江信貴のようなプレイ・スタイルなのではないかと想像している。
神戸ボウルの歴史について。
創設への布石を打たれたのは#2で紹介した米田満先生である。弟の米田豊さんは先生と協力され第1回の神戸ボウルの準備をし、ご自分もプレーヤーとして出場された。旧制奈良中学の調査に引き続き今回もご助力を仰いだ。今後追々に紹介してゆくが、他にも努力された多くの同輩がおられたことは言うまでもない。第1回大会はアメリカのボウル・ゲームにならって元旦に行われた。1952年(昭和27年)のことである。このときの優勝盾が保存されているという。今から20年近く前にこのボウル・ゲームの起源を調べた時にはなかった情報である。現在このことも含め資料の整理をしていただいているので詳細は回を改めたいと思う。
さて、今週末の14日(土曜日)に明治大学・関西学院大学定期戦が行われる。最初の対戦は1948年(昭和23年)1月25日、場所は甲子園球場である。終戦後まだ間もない時なので、時代状況が現在と大きく異なる。第1回の甲子園バウルも現在の冬、12月第3週の日曜日とは異なり、春の1947年4月13日に行われた。明治・関学の試合日が1月という野球のオフであったのに加え、戦争のためグランドも荒廃しておりゲームができるフィールドが限られていたという事情もあった
前述「バウル」ということばには説明が必要である。当時「甲子園ボウル」は第5回大会まで「バウル」と表記された。英語の“Bowl”、例えばサラダ・ボウルなどのように競技場がボウルの形をしていることに由来している。そのカタカナ表示が「バウル」であった。こうした例は他にも幾多ある。現在でも古いビルの玄関に「○○ビルジング」と書かれていたりする。したがっては第5回までは「甲子園バウル」であり、第6回の1951年から現在の「ボウル」に落ち着いた。
第1回の対戦は、13−6で明治の勝利だった。1948年当時にタイム・スリップする。戦前の1934年(昭和9年)に創部し、戦争による中断までの9シーズン、関東でのリーグ戦で5度の優勝を遂げていた古豪明治にまだチームのかたちを模索し始めていた関学が胸を借りるということから始まった。はるかな格上にもかかわらず明治大学は西下してくれた。戦後、東海道本線にも急行、ましてや特急などなく普通の夜行列車で東京‐大阪間が10数時間かかった時代である。第2回目は翌1949年1月22日、関学は初めて明治を19−6で破り、新たな次元に進むきっかけをつかんだ。
秋のシーズンが開幕した。関学は各ゲームに苦労しながらも勝利を重ね、関西学生リーグで初優勝した。そして「バウル」の時代の後期、第4回甲子園バウルに初出場し、初優勝を果たす。
その後半世紀以上にわたり定期戦は続けられ今年で61回目になる。甲子園ボウルで明治と関学が対戦すると接戦となる傾向がある。さらに春秋、あるパターンが存在する。これまで春の定期戦で関学が明治に、0−22、0−56といった一方的なスコアーで敗戦を記録したのち、その年の甲子園ボウルであいまみえると、38−36、48−46という接戦を繰り広げる。このことに気づいたのはDVD“FIGHT ON, KWANSEI”を制作したときである。特に1985年の甲子園ボウルはめくるめくような好ゲームとなった。
今年は大学1部リーグは東西ともに実力の接近したチームがいくつもあるのでリーグ優勝の行方は予断を許さない。しかし、明治・関学が前回1985年に甲子園ボウルで対戦したときのように現在の明治大学にはクォーターバック、ランニング・バックに逸材がそろい、今週末の対戦では両チームともフィジカルに見ごたえのあるプレイ展開してくれることを期待している。特に明治の3年生ランニング・バック、喜代吉(きよし)壮太は1985年の甲子園を沸かせ、そのすべらかで粘り強い走りを「スネーク」と形容された先輩ランニング・バック、吉村祐二に勝るとも劣らないといわれている。「喜代吉」という日本で12軒しかない稀少な姓を持つランニング・バックは1年生の時に一度見たきりだが、明治大学時代にはタイト・エンド、社会人になってからはワイド・レシーバーとして活躍した堀江信貴のようなプレイ・スタイルなのではないかと想像している。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 06:51| 記事
2008年06月04日
#8 関学と日大
フットボールの世界で「赤と青」というコトバを聞くとき、多くの人は日大と関学のライバル関係を思い浮かべるのではないだろうか。先日、6月1日の日曜日、第22回のヨコハマ・ボウルで両校の対戦があった。このゲームの模様は日本テレビが制作し、地上波とCS局のG+でまだあと計2回放送される予定となっている。したがってその時初めてご覧になる方のために試合経過については書かないでおくのが礼儀だと思うのでこれ以上には触れない。
関学と日大は春の定期戦があるので毎年対戦があるのだが、甲子園ボウルでは1989年以来対戦が遠のいていた。関東学生リーグにおいて法政大学をはじめとする他大学の台頭があり、常勝日大は長く甲子園ボウル出場を阻まれていた。しかし昨年、1990年以来17年ぶりに甲子園ボウルに登場し関学との対戦となった。両校が過去に積み重ねてきた名勝負におとらぬ接戦を繰り広げ、稀に見る好ゲームとなったのは記憶に新たなところである。
両校の創部はほぼ同じころである。日大、1940年(昭和15年)、関学、1941年。1934年(昭和9年)、1935年に関東で明治、早稲田、立教、慶応、法政、関西で関大が相次いで創部したあと、しばらく大学のフットボール部設立に空白期間があった。6、7年をおいて日大、関学、関西で同志社が日大と同じ1940年に創部したのをもって戦前の創部活動は終った。戦局が悪化しフットボールは敵性スポーツとみなされたからである。競技の名前も「鎧球(がいきゅう)」と呼びかえられ、1943年には強制的に活動を停止させられた。
戦後、フットボールの復活は比較的早く、関西,関東とも終戦の翌年、1946年に、学生連盟を再発足させている。関学はその年から計画的にチームの強化を計り、1949年(昭和24年)には甲子園ボウル初制覇という成果をあげた。翌年連覇を果たしたが、立教大学がTフォーメーションという当時においては新たな戦術を取り入れ、1951年、1952年と甲子園ボウルを制した。このあと関学は中学部からタッチフットボールに親しんできた世代が高等部、大学と一貫してフットボールを続け、1953年から甲子園ボウル4連覇という第一期黄金時代を築く。
日大は踵(きびす)を接するように1952年から4年計画で本格的な強化に取り組んだ。大学の系列高校を中心に優れた人材をリクルートし、ハードかつ科学的なトレーニングを続けた。そして4年目の1955年、甲子園ボウルに初出場し、関学と同点優勝を果たす。その日大に間接的にだが、ひとつのきっかけを提供したのは関学だった。
関学が甲子園ボウルを初制覇した1949年、暮れも押し詰まったころ、関学アメリカンフットボール部に突然の来訪者があった。人物は大阪警視庁のものだと名乗った。現在の大阪府警は当時、大阪警視庁と呼ばれていた。警察からの不意の訪れに、部員は甲子園ボウルの祝勝会で羽目を外したことへの咎めかと緊張したという。しかしことはまったく意外な展開となった。時の警視総監、鈴木栄二の肝いりで大阪警視庁にフットボール部をつくるのでその相談に預かってほしいというものであった。
翌1950年1月、大阪警視庁にアメリカンフットボール部が発足する。関学甲子園初優勝の闘将、渡辺年夫主将が中心となった。渡辺が厳しい指導を行い機動隊員を鍛え上げ、大阪警視庁は非常に当たりの強い厳しいフットボールをする強いチームに育った。
日大が大阪警視庁と相まみえた。このとき対戦した日大のかたのことばをお借りする。「・・・対戦してその体当たり精神に木端微塵に粉砕されたが、相手が新生チームと侮っていたばかりにその強烈な闘争意識に圧倒された・・・」。こうした経緯があったのち、関学、日大両校が最初に対戦したのは1954年(昭和29年)9月6日である。そのとき関学は日大が大阪警視庁と対戦したとき日大が警視庁から受けた印象と非常によく似た激烈な衝撃を日大から受けたという。このとき以降の日大がまさしく大阪警視庁のようなチームであるのはらせん状に進む歴史の不思議である。
ついでながら当時の関西学生リーグは秋のリーグ戦が9月の下旬から始まっていたので9月はじめにこうした交流戦を行うことが可能であった。この年と翌年、春秋数度の交流戦を経たのち、第1回の定期戦が行われるのは1967年である。各年の対戦結果については、折り良く「タッチダウン」誌が最新号、No.468、7月号の巻末で東西大学1部各校の定期戦を一覧表にまとめておられるのでそちらを参照いただければ幸いである。
関学と日大は春の定期戦があるので毎年対戦があるのだが、甲子園ボウルでは1989年以来対戦が遠のいていた。関東学生リーグにおいて法政大学をはじめとする他大学の台頭があり、常勝日大は長く甲子園ボウル出場を阻まれていた。しかし昨年、1990年以来17年ぶりに甲子園ボウルに登場し関学との対戦となった。両校が過去に積み重ねてきた名勝負におとらぬ接戦を繰り広げ、稀に見る好ゲームとなったのは記憶に新たなところである。
両校の創部はほぼ同じころである。日大、1940年(昭和15年)、関学、1941年。1934年(昭和9年)、1935年に関東で明治、早稲田、立教、慶応、法政、関西で関大が相次いで創部したあと、しばらく大学のフットボール部設立に空白期間があった。6、7年をおいて日大、関学、関西で同志社が日大と同じ1940年に創部したのをもって戦前の創部活動は終った。戦局が悪化しフットボールは敵性スポーツとみなされたからである。競技の名前も「鎧球(がいきゅう)」と呼びかえられ、1943年には強制的に活動を停止させられた。
戦後、フットボールの復活は比較的早く、関西,関東とも終戦の翌年、1946年に、学生連盟を再発足させている。関学はその年から計画的にチームの強化を計り、1949年(昭和24年)には甲子園ボウル初制覇という成果をあげた。翌年連覇を果たしたが、立教大学がTフォーメーションという当時においては新たな戦術を取り入れ、1951年、1952年と甲子園ボウルを制した。このあと関学は中学部からタッチフットボールに親しんできた世代が高等部、大学と一貫してフットボールを続け、1953年から甲子園ボウル4連覇という第一期黄金時代を築く。
日大は踵(きびす)を接するように1952年から4年計画で本格的な強化に取り組んだ。大学の系列高校を中心に優れた人材をリクルートし、ハードかつ科学的なトレーニングを続けた。そして4年目の1955年、甲子園ボウルに初出場し、関学と同点優勝を果たす。その日大に間接的にだが、ひとつのきっかけを提供したのは関学だった。
関学が甲子園ボウルを初制覇した1949年、暮れも押し詰まったころ、関学アメリカンフットボール部に突然の来訪者があった。人物は大阪警視庁のものだと名乗った。現在の大阪府警は当時、大阪警視庁と呼ばれていた。警察からの不意の訪れに、部員は甲子園ボウルの祝勝会で羽目を外したことへの咎めかと緊張したという。しかしことはまったく意外な展開となった。時の警視総監、鈴木栄二の肝いりで大阪警視庁にフットボール部をつくるのでその相談に預かってほしいというものであった。
翌1950年1月、大阪警視庁にアメリカンフットボール部が発足する。関学甲子園初優勝の闘将、渡辺年夫主将が中心となった。渡辺が厳しい指導を行い機動隊員を鍛え上げ、大阪警視庁は非常に当たりの強い厳しいフットボールをする強いチームに育った。
日大が大阪警視庁と相まみえた。このとき対戦した日大のかたのことばをお借りする。「・・・対戦してその体当たり精神に木端微塵に粉砕されたが、相手が新生チームと侮っていたばかりにその強烈な闘争意識に圧倒された・・・」。こうした経緯があったのち、関学、日大両校が最初に対戦したのは1954年(昭和29年)9月6日である。そのとき関学は日大が大阪警視庁と対戦したとき日大が警視庁から受けた印象と非常によく似た激烈な衝撃を日大から受けたという。このとき以降の日大がまさしく大阪警視庁のようなチームであるのはらせん状に進む歴史の不思議である。
ついでながら当時の関西学生リーグは秋のリーグ戦が9月の下旬から始まっていたので9月はじめにこうした交流戦を行うことが可能であった。この年と翌年、春秋数度の交流戦を経たのち、第1回の定期戦が行われるのは1967年である。各年の対戦結果については、折り良く「タッチダウン」誌が最新号、No.468、7月号の巻末で東西大学1部各校の定期戦を一覧表にまとめておられるのでそちらを参照いただければ幸いである。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 19:44| 記事
2008年05月28日
#7 関西学院初等部 歴史の始まり
生物がDNAの二重らせんによって自らを複製するように、歴史も繰り返される。見方によっては繰り返さないという考えもある。前者につくならば歴史の研究は二重らせんの研究と似ている。「歴史を学ばないものはその日暮らしをする」という箴言(しんげん)がある。同じあやまちを繰り返さないためのいましめだが、現実世界はそうでないことを経験的に感じる人は多いであろう。またこのカルマ(業)を東洋的諦観をもって受け入れざるを得ない境遇があることも事実である。
先週土曜日に今年4月に開校した関西学院初等部の見学会に出かけた。学院の建築の伝統を踏まえた簡素にして美しい施設だった。校舎のベージュ色の外壁が雨の中、新緑に映えている。1929年、ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した学院の原型となるスパニッシュ・ミッション・スタイルに則ったデザインである。ヴォーリズは教会、学校をはじめとする多くの建築設計を手がけ、日本の近代建築史に大きな足跡を残した。
チャペルも質実である。パイプオルガンも備わっていた。演奏を聴く機会があればさらに素晴らしいと思われる。初等部長(校長)の磯貝暁成(あきなり)先生がこのチャペルで見学に先立ってお話をされた。多くのすばらしいお話をされたが特に印象に残ったのは次の2つである。中庭は通常四方を壁に囲まれているのだが願われて、三方をガラス空間にし開放的なスペースにされたこと。また、百数十種、2千2百本の樹木を植えられたということ。
以下、個人的な感想である。
「パティオ(スペイン建築の中庭)は子どもの魂である。教室を巡る回廊には渡辺禎夫画伯の、ルオーの「ミゼレーレ」を想起させる版画が飾られている。人が回廊にいるときは建物の中にいるのだが、パティオにいれば回廊は魂を取り囲む外界である。パティオにいてキリストの一生を感受することにより底流に悲哀が流れる世界をありのままに受け入れることが可能である。
それぞれの樹に名前を記したプレートがそえられている。子供たちがカタカナを読めれば樹の名前を自然に覚えるだろう。いつか木々は森のようになり小宇宙になる。多くの動物は捕食のために移動しなければならないが樹は動かず自給し自足して生きる。
空海は万能の天才であり優れたデザイナーであった。マンダラを立体にデザインして五重塔を組み上げた。これと等質の精神がこの学校をデザインしており、奇(くす)しき跡をしるすアイコンをいたるところに見ることができる」
現在は1年生から3年生までの3学年だが、4年生になればフットボールも行うという。ここから育った子どもたちがいずれ日本のフットボール史に新しい歴史を刻むかもしれない。校舎玄関の両脇に一対のヤマモモが植えられていた。一昨年、アメリカンフットボール部創部65周年を記念して作られたDVD“FIGHT ON, KWANSEI”の制作に参加させていただいた。そのときFIGHTERSのベースである第3フィールドの土手のフィールド全体を見渡せる小高い場所にヤマモモの樹が植えられていることを教えられた。この符合は偶然なのだろうかと思いつつ校舎を後にした。
先週土曜日に今年4月に開校した関西学院初等部の見学会に出かけた。学院の建築の伝統を踏まえた簡素にして美しい施設だった。校舎のベージュ色の外壁が雨の中、新緑に映えている。1929年、ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した学院の原型となるスパニッシュ・ミッション・スタイルに則ったデザインである。ヴォーリズは教会、学校をはじめとする多くの建築設計を手がけ、日本の近代建築史に大きな足跡を残した。
チャペルも質実である。パイプオルガンも備わっていた。演奏を聴く機会があればさらに素晴らしいと思われる。初等部長(校長)の磯貝暁成(あきなり)先生がこのチャペルで見学に先立ってお話をされた。多くのすばらしいお話をされたが特に印象に残ったのは次の2つである。中庭は通常四方を壁に囲まれているのだが願われて、三方をガラス空間にし開放的なスペースにされたこと。また、百数十種、2千2百本の樹木を植えられたということ。
以下、個人的な感想である。
「パティオ(スペイン建築の中庭)は子どもの魂である。教室を巡る回廊には渡辺禎夫画伯の、ルオーの「ミゼレーレ」を想起させる版画が飾られている。人が回廊にいるときは建物の中にいるのだが、パティオにいれば回廊は魂を取り囲む外界である。パティオにいてキリストの一生を感受することにより底流に悲哀が流れる世界をありのままに受け入れることが可能である。
それぞれの樹に名前を記したプレートがそえられている。子供たちがカタカナを読めれば樹の名前を自然に覚えるだろう。いつか木々は森のようになり小宇宙になる。多くの動物は捕食のために移動しなければならないが樹は動かず自給し自足して生きる。
空海は万能の天才であり優れたデザイナーであった。マンダラを立体にデザインして五重塔を組み上げた。これと等質の精神がこの学校をデザインしており、奇(くす)しき跡をしるすアイコンをいたるところに見ることができる」
現在は1年生から3年生までの3学年だが、4年生になればフットボールも行うという。ここから育った子どもたちがいずれ日本のフットボール史に新しい歴史を刻むかもしれない。校舎玄関の両脇に一対のヤマモモが植えられていた。一昨年、アメリカンフットボール部創部65周年を記念して作られたDVD“FIGHT ON, KWANSEI”の制作に参加させていただいた。そのときFIGHTERSのベースである第3フィールドの土手のフィールド全体を見渡せる小高い場所にヤマモモの樹が植えられていることを教えられた。この符合は偶然なのだろうかと思いつつ校舎を後にした。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 06:49| 記事
2008年05月21日
#6 「ダック」のセカンド・ネームは ―新制中学タッチフットボールことはじめ―
ポプラがはばたいていた。北稜中学のクォーターバック一刀(いっとう)康弘はポプラの葉をさやがす風を受けつつ、右エンドの宮村がフィールドをアクロスし、エンドゾーン左隅に向かって疾駆しているのを視界の端に感じていた。一刀は長身の宮村のコースとパスの放物線が交わる地点を無意識でとらえボールをリリースした。見えない二本の線が徐々に接近していった。宮村が手を差し伸べたのはほとんどエンドゾーンの手前だった。宮村の速度とボールの速度がほぼ一致し両手にふわりとおさまった。そしてレシーバーはその勢いのままゴール・ラインを駆け抜けた。
1951年(昭和26年)11月6日のゲームである。相手は関西学院中学部。当日のゲームで大阪市立北稜中学の挙げたタッチダウンはこの一本のみだった。結果は24−7で関学が勝った。両校は1949年から年に一度、ゲームを行ってきた。
1949年 11月3日 関学中学部 19−6 北稜中学 関学グランド
1951年 3月21日 々 45−0 々 西宮球技場
前回の記事に書いた集まりのとき一刀さんにも来ていただいていた。一刀さんは1949年度から1951年度まで北稜中学に在学された。大阪市の市立中学で昭和20年代にタッチフットボールが行われていたのは「関西アメリカンフットボール史」に書いた通りである。米田さんとのインタビューをはからってくださった方が一刀さんもご存知で、すでに昨秋はじめにご紹介いただいていた。遠い以前に部がなくなっていることもあり、本を制作した2003年時点では北稜中学でプレイされた方々の消息がつかめていなかったからである。
1951年11月6日のゲームの時、関学中学部のチームにハドルで「ダック」と呼ばれている少年がいたと一刀さんは記憶されている。一刀さんが進学された大阪府立北野高校に泉陽一郎という同級生がいた。泉は関学中学部出身で二人はともにサッカー部に入部した。その泉が関学中学部のタッチフットボール部に一刀さんを知っているものがいたといった。その生徒のあだ名が「ダック」だった。昨秋お話をしているとき一刀さんはふとその「ダック」のフルネームを知りたいといわれた。できれば会うことができれば、とも。その後、関学中学部の同学年の方たちはもちろんのこと前後の学年の方々にもお問い合わせしたが該当する人がいなかった。
集まりで一刀さんから「ダック」の話が出た数日後、米田さんが両校の記事が載った雑誌を捜してくださった。フットボールの専門誌「タッチダウン」に掲載された記事である。関学中学部タッチフットボール部のセイル・アウト・メンバーで、大学において史上初の甲子園ボウル4連覇を果たした学年の丹生恭治が書いた記事である。丹生は卒業後、共同通信社に勤務し、同時に「タッチダウン」社の顧問となってフットボールの啓蒙、普及に膨大なエネルギーをそそいできている。4半世紀以前「タッチダウン」に「フットボール夜話」というエッセイの連載を行った。この連載の中で「関学の話」というシリーズ・イン・シリーズの企画が1984年春から始められた。企画の第8回に両校の最初のゲーム実現までのはなしと簡略な試合内容が記載されている。
1949年11月3日に行われた関学中学部と北稜中学のゲームは双方ともに創部第一戦の試合だった。まだ新制中学は一年前にスタートしたばかりであり、タッチフットボールの組織もあるかなきかの時代だった。指導教官の助けはあったものの、日本フットボール史に名クォーターバックとして名前を残す鈴木智之が奔走してほぼ独力でこのゲームを実現した。鈴木は実業家として成功し、フットボールのために今なお多大の貢献を続けている。英独二ヶ国語に堪能であり日本の枠をはるかに超えたコスモポリタンである。その優れたプロデューサーの資質の片鱗をこのときすでにかいま見させていた。「関学の話」が書かれた1985年時点でもこの最初のゲームからはすでに36年が過ぎており、いくつかの断片を除き試合経過や北稜中学についての詳細は遠い記憶のベールのかなたにある。
残念ながら3回目のゲームの記載はなかった。一刀さんに「ダック」のことを話した泉もすでに2年前に他界している。したがって現在、まだ「ダック」のセカンド・ネームは不明のままである。
ただ下記のように1949年度のメンバーは写真ながら59年ぶりに邂逅(かいこう)した。左が北稜中学、右が関学中学部である。1年生の一刀さんは前列左から2番目で賞状を持っている。関学のほうには米田さんが現時点で判明している名前をいれてくださった。一刀さんと同学年の「ダック」もすでにこのメンバーの中にいてファインダーにむかって笑っているかも知れない。
1951年(昭和26年)11月6日のゲームである。相手は関西学院中学部。当日のゲームで大阪市立北稜中学の挙げたタッチダウンはこの一本のみだった。結果は24−7で関学が勝った。両校は1949年から年に一度、ゲームを行ってきた。
1949年 11月3日 関学中学部 19−6 北稜中学 関学グランド
1951年 3月21日 々 45−0 々 西宮球技場
前回の記事に書いた集まりのとき一刀さんにも来ていただいていた。一刀さんは1949年度から1951年度まで北稜中学に在学された。大阪市の市立中学で昭和20年代にタッチフットボールが行われていたのは「関西アメリカンフットボール史」に書いた通りである。米田さんとのインタビューをはからってくださった方が一刀さんもご存知で、すでに昨秋はじめにご紹介いただいていた。遠い以前に部がなくなっていることもあり、本を制作した2003年時点では北稜中学でプレイされた方々の消息がつかめていなかったからである。
1951年11月6日のゲームの時、関学中学部のチームにハドルで「ダック」と呼ばれている少年がいたと一刀さんは記憶されている。一刀さんが進学された大阪府立北野高校に泉陽一郎という同級生がいた。泉は関学中学部出身で二人はともにサッカー部に入部した。その泉が関学中学部のタッチフットボール部に一刀さんを知っているものがいたといった。その生徒のあだ名が「ダック」だった。昨秋お話をしているとき一刀さんはふとその「ダック」のフルネームを知りたいといわれた。できれば会うことができれば、とも。その後、関学中学部の同学年の方たちはもちろんのこと前後の学年の方々にもお問い合わせしたが該当する人がいなかった。
集まりで一刀さんから「ダック」の話が出た数日後、米田さんが両校の記事が載った雑誌を捜してくださった。フットボールの専門誌「タッチダウン」に掲載された記事である。関学中学部タッチフットボール部のセイル・アウト・メンバーで、大学において史上初の甲子園ボウル4連覇を果たした学年の丹生恭治が書いた記事である。丹生は卒業後、共同通信社に勤務し、同時に「タッチダウン」社の顧問となってフットボールの啓蒙、普及に膨大なエネルギーをそそいできている。4半世紀以前「タッチダウン」に「フットボール夜話」というエッセイの連載を行った。この連載の中で「関学の話」というシリーズ・イン・シリーズの企画が1984年春から始められた。企画の第8回に両校の最初のゲーム実現までのはなしと簡略な試合内容が記載されている。
1949年11月3日に行われた関学中学部と北稜中学のゲームは双方ともに創部第一戦の試合だった。まだ新制中学は一年前にスタートしたばかりであり、タッチフットボールの組織もあるかなきかの時代だった。指導教官の助けはあったものの、日本フットボール史に名クォーターバックとして名前を残す鈴木智之が奔走してほぼ独力でこのゲームを実現した。鈴木は実業家として成功し、フットボールのために今なお多大の貢献を続けている。英独二ヶ国語に堪能であり日本の枠をはるかに超えたコスモポリタンである。その優れたプロデューサーの資質の片鱗をこのときすでにかいま見させていた。「関学の話」が書かれた1985年時点でもこの最初のゲームからはすでに36年が過ぎており、いくつかの断片を除き試合経過や北稜中学についての詳細は遠い記憶のベールのかなたにある。
残念ながら3回目のゲームの記載はなかった。一刀さんに「ダック」のことを話した泉もすでに2年前に他界している。したがって現在、まだ「ダック」のセカンド・ネームは不明のままである。
ただ下記のように1949年度のメンバーは写真ながら59年ぶりに邂逅(かいこう)した。左が北稜中学、右が関学中学部である。1年生の一刀さんは前列左から2番目で賞状を持っている。関学のほうには米田さんが現時点で判明している名前をいれてくださった。一刀さんと同学年の「ダック」もすでにこのメンバーの中にいてファインダーにむかって笑っているかも知れない。

posted by 日本アメリカンフットボール史 at 16:03| 記事