2008年11月26日

#25 科学的武士道 ―日本大学のフットボール 5

 日本へ帰還後、なぜ虜囚になったかを考えた。竹本さんは基本を合理的に考える人であったので「自分は法に暗かったからだ」と気づき、日本大学法学部に入りなおした。1950年(昭和25年)コーチとなり、卒業し、米軍に就職したのちもコーチを続け、1957年監督を任された。1956年までの日大は1949年から4年連続最下位と低迷を続けていた。4ヵ年計画を建て、日本大学の系列校を中心にまず大規模なリクルートから始めた。この年、80数名の新入部員があった。しかし、フットボール経験者は都立西高の笹田英次さんのみだった。サンデー・コーチであった竹本さんはプレイブックや指示メモによってコーチングを行った。ちょうど「フットボールの父」と呼ばれるウォルター・キャンプ※がニュー・ヘブンの時計会社の勤めがあるため、かわりに練習を見てきた奥さんのレポートに基づきエール大学をコーチしたことと似ている。笹田さんがリーダーシップをとるようになってからは良い相談役となり竹本さんの意図を咀嚼してからメンバーに伝えるようになった。
※#2 site seeing 米田満先生参照

 優れた新人が入部した。先回までに紹介したエンド、篠竹幹夫。3、4人からタックルを受けても倒れず、必ず3、4ヤードゲインする大型ハーフ・バック小島(おじま)秀一。小島は山形県の新庄北高校出身で体が大きかったためキャンパスを歩いているところをリクルートされた。夏場はサッカー、相撲を行い、冬はノルディックで国体に出場したアスリートだった。ノルディックの距離競技の習性で走り方はすり足だったが、鍛えぬかれた足腰の強さを発揮しタックルされても数人を跳ね飛ばして進んだ。

 関西遠征し連戦して実力を蓄えた。甲子園ボウルの覇者関学との対戦は時期尚早とみる者が多かったが竹本監督は押し切った。立教との対戦が望ましかったが、当時はリーグ戦での対戦校にプレシーズンで挑むというのは常識の範囲外であったからである。関学は基礎がしっかりしており、スカウティングにすぐれている、というのが竹本監督の関学評だった。

 代々木八幡駅に近い初台の民家を借りて合宿所にしたのは1953年だった。生活をともにすることでチームワークが高まった。

 新しい攻撃フォーメーションの創造に力を注いだ。それまでのシングル・ウイング、Tフォーメーションの長短を比較した。

 @ シングル・ウイングは展開が遅い
 A Tフォーメーションはスピードを活かせる
 B アンバランス・ラインは相手がとまどう

 得た結論がアンバランスTフォーメーションだった。

 1954年(昭和29年)、少ない部費の中から16ミリカメラが購入された。2万5千円だった。同年の公務員の初任給は8千7百円である。マネージャーが対戦チームをスカウティングした。マネージャーの役割が重んじられていた。チームの主要メンバーがそう考えたからである。1955年、リーグ初優勝を事実上決定した立教戦の朝、主務の米原達朗は選手達の激しく高まった戦意を感じた。昂ぶりをこぼすことなく神宮競技場の控え室にそのまま持ち込みたいと考えた。もし、電車で移動したら外気のためにその熱気が消えうせることを危惧したからである。マネージャー全員にタクシーを拾いに走らせた。1、2軍を燃え立つまま神宮に送り込むことに成功した。監督に説明している時間を惜しんだ。相談したのは笹田と篠竹の2人だけで米原の独断に近かった。結果は大方の予想に反して日大の勝利になった。このあと残る法政戦に勝ち、駒を進めた甲子園ボウルが引き分けに終ったことはすでに述べた。

 甲子園ボウルでは同じ極点まで到達した両チームに勝利の女神も決断をためらった。

 チームの中心を担った4人は三国志の「桃園の誓い」のようにつどった。 卒業後、笹田は審判、篠竹はコーチ、小島は協会を担当して理事、米原はマネージャー指導、とおのおの役割を担ってそれぞれがやり遂げた。

 2度目のインタビューのあと竹本さんは生田の駅まで送ってくださった。手を差し出され握手をして別れた。握手している竹本さんのうしろにハワイの雲ひとつない青空が広がっていた。青空の悲しみが一瞬通り過ぎて、竹本さんが「サヨナラ」と言った。

 翌年のヨコハマ・ボウルで竹本さんと米田先生は数十年後の再会をされた。雑誌『タッチダウン』が二人並ばれた記念写真を撮ってくれた。それから短い時が流れ、横浜スタジアムにつきそってこられていたお嬢さんから竹本さんの訃報が届いた。

20081126.gif
竹本さんの描いたアンバランスT
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 05:52| 記事

2008年11月19日

#24 科学的武士道 ―日本大学のフットボール 4

 “BASIC”と竹本さんは何度もおっしゃった。外部には日大では何も教えないという話がある。しかし笹田さん※は「竹本さんからベイシックを教えられた。それは身につくと忘れてしまうものだからね」と言われた。
※竹本さん、笹田さんについては前回#23を参照。

 小脳運動。自転車に乗る、泳ぐ、歯を磨く、こうした行動の情報は小脳に保存されている。身体の自動的な運動を意識して行うことには困難をともなう。竹本さんは“BASIC”が小脳に蓄積されるまで練習を徹底された。練習中足を止めない、低さを維持する、スピードをつける・・・。パス練習はクォーターバックが目隠しして行なわれた。1955年は竹本さんの4年計画の仕上げの年だった。その猛練習振りは伝説化しており、以後の日大フットボールの原点となった。笹田さんをはじめとする1952年に入学した学年は鍛え上げられ4年生になっていた。

 丹生さんの「関学の話」#58「完敗」、1991年8月号掲載からの引用。
 「頭の中が真っ白になる―――という表現がある。・・・・・(中略)・・・・・。昭和30年(1955年)5月24日の火曜日、西宮球技場で日大に6−18と敗れたときの関学がそれだった。・・・・・(中略)・・・・・敗因は明白だった。ラインが押し負け、当たり負けたのがすべてだった。日大のブロックは低く粘り強かった。一人一人が自らの役割に忠実だった。前年と変わらぬ戦いぶりだった、と言ってしまえばそれまでだが、この年はもっと力が付き、もっと徹底していた」

 竹本君三さんは1920年(大正9年)、3月24日ハワイ、マウイ島生まれの二世である。2つのパスポートを持ち、時差がある日本では25日生まれになる。この年岡部平太により日本で最初にフットボールが紹介された。竹本さんにお会いしたのは2004年の3月、小田急線生田駅近くのDenny'sだった。ご両親は移民が多い広島の出身で日本語学校の先生をされていた。結婚後1880年(明治23年)頃に布哇(ハワイ)に渡られた。竹本さんは5男2女、7人兄弟の末弟である。マウイでは日本人は肩を寄せるように村落のなかで集まって生活していた。犯罪の少ない土地柄だった。西海岸の日系人移民の人たちも法に従い重犯罪を犯すものはほとんどいなかった。地元の8年制の小学校に通い、4年制のマウイ・ハイスクールを卒業した。島に高校は2つだけだった。小学校、ハイスクールでバレーボールをし、バスケットボールにも触れた。タッチフットボールはハイスクールのチームでプレーした。時にはタックル・フットボールも行った。ハイスクールを終了するとお父さんが「日本に行きなさい」と言った。当時は円安で日系移民の人たちは師弟を日本に留学させることが多かった。

 「Buddhismのhouseがあって、そこに入りました」と竹本さんは話された。1939年(昭和14年)、ホノルルから立田丸という船に乗り10日後に横浜に着いた。竹本さんの「Buddhismのhouse」はソーシャル・ハウスと呼ばれ本願寺教団が運営していた。アメリカからの留学生を受け入れるとともに日本からの移民の手助けを行った。移民が多かった県は浄土宗がさかんであったところが多いと言われている。ソーシャル・ハウスは寄宿舎のような施設で、異なる大学の留学生が一緒に生活していた。共同生活での学生間の交流により東京の大学にフットボール・チームができて行った。最初に明治大学、次に早稲田大学にチームができた。これに立教大学を加え1943年(昭和9年)ポール・ラッシュ博士が東京学生アメリカンフットボール連盟を結成したあと、翌1935年、関東で慶応大学、法政大学が、関西で関西大学が創部した。1938年に関大アメリカンフットボール部の創部者、松葉徳三郎の協力の下、東西合同の日本米式蹴球協会が結成された。松葉は関西支部長となり関大に続く関西のチームの創部を応援団ルートを通じて働きかけた。そうした活動の中で1940年、同志社大学アメリカンフットボール部が誕生した。翌1941年、戦前最後の創部が関西学院大学で行われた。日本大学は同志社と同じ年、1940年に部をスタートさせた。

 竹本さんは来日した1940年日本大学の拓殖農業科に入学した。ハワイで日本語学校に通ったが日本語の負担の少ない学科を選んだ。同時に帰米後の仕事を考えてのことであった。明治時代の日本からアメリカへの留学生も同じ理由から大学の農学、酪農に進むものが多くいた。また創部まもない日本大学アメリカンフットボール部に入部した。ポジションはフル・バックとハーフ・バック、パスも投じた。

 1940年、日本協会は秋のリーグ戦に先立って競技名を「米式蹴球」から「鎧球」とした。悪化する日米関係を配慮しての措置であった。初代監督は明治大学ラグビー部出身の笠原恒彦だった。ラグビーの名選手であり映画俳優だった。リーグに参加したばかりの日大だったが、初年度は33名と部員も多く健闘して法政、立教と引き分け、5位になった。翌年は同率ながら2位タイと躍進した。

 しかし開戦後まもなく戦況が悪化し、卒業が繰り上げになった。1942年、徴兵され広島で検査を受け入隊した。陸軍の憲兵隊であった。配属地はニューギニアだった。語学力をかわれて通訳をした。ケイ・キチールというインドネシア語で「ちいさい島」という意味をもつ土地が駐屯地だった。そのうちマレー語、オランダ語もできるようになった。敗戦にともない捕囚の身となった。収容所で必要にかられインドネシア語もマスターし、通訳をした。収容生活は戦後も続き、釈放されて帰国したときは1948年になっていた。兄が日系人で編成されアメリカの部隊のなかでもっとも勇敢で一番死傷率の高かった442連隊※に志願し奇跡的に生還していたことを帰国後知った。
※442連隊:第2次大戦中、日系人のみで編成されたアメリカの部隊。日本とアメリカが交戦国となったためアメリカ在住の日系人は強制収容された。二世たちはジレンマの状況下で志願し、442連隊に入隊した。ヨーロッパ戦線に配属され、221人を救出するため800人の死傷者を数えるというような多大の犠牲をはらい、同朋のため、そして名誉と誇りをかけ勇敢に戦った。最強の部隊とよばれその累積死傷率は314%といわれている。

20081119.jpg
1941年の日大チーム。前列中央#28は竹本さん
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 00:12| 記事

2008年11月13日

#23 科学的武士道 ―日本大学のフットボール 3

 11月9日は朝から冷え込んでいた。早朝、刷くほどのかすかな霧雨が通り過ぎた。全国高等学校アメリカンフットボール選手権大会の関西地区準決勝2試合が王子スタジアムで行われるので出かけた。阪急神戸線で、王子スタジアムの一駅手前、六甲で降りる。先日、古書店に頼んでおいた矢内正一著、『一隅の教育』を受け取るためである。その前にコンビニで神戸新聞を買う。古川明さん※の自伝、「わが心の自叙伝」の掲載が9日の日曜日から神戸新聞で始まったからである。来年にかけ30回に渡って連載されるという。古川さんのイニシャルは、A.F.つまりアメリカンフットボールである。終戦後のタッチフットボール伝来以来、フットボールとともに歩んでこられたので自叙伝は戦後の日本のフットボール史そのものの貴重な記録である。
※ #3 高校フットボールとNOBLE STUBBORNNESS参照

 前回の小笠原秀宣さんからお聞きした話を続ける前に少し長くなるが紹介しておきたいことがある。#6「ダックのセカンド・ネームは」で登場いただいた丹生恭治さんが雑誌『タッチダウン』に1984年から1993年にかけて10年間書き続けられた「フットボール夜話―関学の話」という連載についてである。このシリーズは丹生さんが関西学院中学部1年生から大学4年生まで学院に在籍された10年間のことを同じ10年をかけられ綴られたものである。2006年のDVD『FIGHT ON, KWANSEI』制作のとき、チームのOBの人たちはよく「ファイターズのDNA」ということばを使った。「フットボール夜話―関学の話」を今回読み返してみるとこの連載はまさにDNAそのものを記したものであることを改めて認識することになった。

 今回須山さんとお会いした目的のひとつは丹生さんが「関学の話」の中で、須山さんから聞き漏らされたと書かれているお話を聞くことにあった。大学卒業後丹生さんが現役の記者時代、国立競技場で須山さんにインタビューされた。その内容を「関学の話」の以下に書かれた。
#51「日大との出会い」、1990年9月号掲載、
#58「完敗」、1991年8月号掲載、

@須山さんが最初のゲームでプレーをしたかどうか?
(このゲームは1954年9月6日に行われ、25対7で関学の勝利。関学と日大が最初に出会ったゲームである)
A関学を破ったことは日大および関東の大学でどう受け止められたか?
(このゲームは1955年5月24日、6対18で関学が敗れた)
の2点が確認されていないことがらの主たるものであった。

@について
 須山さんはスターターではなかったがゲームの大半、クォーターバッキングをされた。タッチダウンのプレーは須山さんのときであった。
Aについて
 関学にとってはいささか肩透かしの感があるのだが、日大に甲子園ボウル連覇の覇者に勝ったという多少の感慨はあったにせよ、激戦の関東学生リーグ、特に王者立教を倒して優勝しなければならないため、勝利を評価している余裕がなかった、というのが実情であった。また当時の情報伝達力には限界があり日大の勝利は、それまで関東4連覇中の常勝立教には伝わらなかった。リーグ戦前の関東の新聞各紙予想は立教の5連覇を確実視していた。事実、日大はリーグ第3戦の慶応と引き分け、この時点でメディアの中には立教の5連覇を信じ、そう報じたものもあった。つまり日大はリーグ戦中盤になっても慶応に次ぐダークホースの位置にあった。しかしこのあと大方の予想に反し、リーグ第4戦で立教を破る。最終ゲームの法政戦を残してはいたが、法政の戦力からみて日大の勝利確実という見通しが立って始めて日大優勝の可能性濃しという記事が書かれた。

 須山さんは日大一高のフットボール部のご出身である。1952年から監督になられた竹本君三さんが日本大学の系列高校にフットボール部を創ることを考えられ、最初に創部されたのが日大一高であった。指導に来校したのはのちに日大の監督になる大学1年生の篠竹幹夫さん※だった。日大一高においてタッチフットボールは後発の部であった。そのためスペースがなくコンクリート張りの場所で練習しなければならず、満足なタックル練習もできない状態であった。結果として試合はずっと無得点で敗れた。その中から須山さんはライスボウルの高校関東選抜に選ばれているのでいかに抜きん出たプレーヤーであったか想像は容易である。ぬかるんだグランドでもバランスを崩さない足腰の強さは定評だった。かつてプロ野球の西鉄ライオンズに怪童と呼ばれた中西太という巨躯(きょく)のスラッガーがいた。中西は腕っ節も足腰も強く雨でゆるんだ軟弱なグランドでも沈むことなく楽々と走塁できた。須山さんの話をOBの方からうかがったおり中西太のことを連想した。おそらく生来の素質に加え代々お祭りの御輿をかついでこられたことでさらに強化されたのであろう。
※ #4 長浜 滋賀県のフットボール その1 参照

 小笠原さんの話によれば、日大はかなり早くから練習や試合中に水を補給しいたことがのちに分かったそうである。日大のゲーム終盤になっても衰えないフィットネスはこうしたことによっても支えられていた。以下カッコ内は「関学の話」、#51「日大との出会い」からの引用。
 
 「昭和29年(1954年)9月6日※――。関学が日大と初めて出会ったのは、この日である。・・・(中略)・・・ さて、その次の日。西宮球技場に日大を迎えた私たちは、予想もしない大苦戦を強いられた。秋のシーズン開幕第1戦ということで、張り切ってはいたのだが、相手に対する認識がいささか欠落していた。それに合宿の疲れが抜け切っていなかったし、真夏同然の猛暑もあって疲労困憊のゲームだったことが、昨日のことのように思い出される。暑さとか合宿明けという点では、日大も同じ条件だった。それだけに肌で感じた相手のタフネスさ加減には、心底不気味さを覚えたことも白状しておく」
※東西学生リーグとも当時は早くて9月末ないしは10月になってリーグ戦が始まったので、こうした9月上旬のプレ・シーズン・ゲームを組むことができた。

 小笠原さんは1965年(昭和40年)のご卒業である。この頃でもまだ日本のスポーツ界では水を飲むことはタブー視されていた。コンディショニングのため、あるいは安全確保のために水を補給するということが一般化するのにはまだ数年を要した。1970年前後にゲータレードという商品名に代表されるアメリカの機能性飲料が紹介されようやく知識が広がり始めた。小笠原さんによれば甲子園ボウルで対戦する日大は後半になっても動きが落ちず、最終局面になって突き放されたという。

 このゲームのとき日大2年生で、のちにキャプテンを務められた笹田英次さんに日大がいつから水の補給をされ始めたかをお聞きした。笹田さんのお答えは1954年(昭和29年)、つまりこのゲームの年からである。監督であった竹本君三さんは日比谷のアメリカ文化センター※に通い“Athletic Journal”などを研究され、最新のフットボール情報を得ておられた。昭和20年代、すでに水分を補給することの有用性を知り、実行されたと考えられる。竹本監督はアンバランスTというフォーメーションを考案されるなど創意工夫に富んだ方であった。
※GHQ(連合軍最高司令官総司令部)のCIE(民間情報教育局)は日本全国に23のCIE図書館を設置した。主要都道府県の中央図書館を接収し、アメリカ文化の浸透を計るための政策を実施した。1952年に米国防省に移管され13のアメリカ文化センターとなった。そののち1972年にアメリカン・センターの名で再編成され、札幌、東京、名古屋、京都、大阪、福岡の6ヶ所にしぼり込まれた。アメリカの雑誌、本などが豊富に備えられており一般にも公開された。したがって長くアメリカ情報の窓口として利用された。筆者も学生時代に利用したことがあるが現在はどうであろうか。

20081113athleticjournal.jpg
写真は“Athletic Journal”のフットボールに関する記事を集めた本
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 01:05| 記事

2008年11月02日

#22 科学的武士道 ―日本大学のフットボール 2

 11月1日はフットボール日和だった。西京極陸上競技場へ関学のゲームを見に行った。1時頃着くとバック・スタンドは、ほぼいっぱいになっていた。最近関学サイドのスタンドは満杯状態が多い。例えば王子スタジアムのバック・スタンドでは収容し切れなくなっている。いつも一緒に観戦させていただく方々がざっと見渡しても見つからなかった。少し上段の席を捜したが空いていないように見えた。しばらくして席に荷物を置かれていた方が空けてくださった。その方にお話を聞くと第一試合から来ておられたとのこと。今日は朝から所用があって家を出るのが遅くなった。

 第一試合が終って少ししたところで携帯に「フットボールの神様」から電話が入った。大藤 努さんだった。大藤さんは前回書いた1955年(昭和30年)、第10回甲子園ボウルの関学のエース・ランナーだった方である。ファイターズの65周年DVD製作の時、米田豊さん※からのご紹介でたいへんお世話になった。DVDに出てくるフォーメーションは大藤さんが私の取材ノートに書かれたものをそのまま掲載したものである。
※ #5 米田 豊さんインタビュー参照

 すぐに電話を替わられた。出てこられたのは木谷 直行さんだった。木谷さんは大藤さんと同級生で4年生のときはキャプテン、第10回大会のときも実質的なチーム・リーダーであった方である。学業では一番、卒業生総代、スポーツにおいては甲子園ボウル3勝1分け、1分けは両校優勝なので都合4回優勝され、文武両道の人として半ば伝説化した方である。昨日、取材をさせていただいた。超一流の大企業に就職され要職に就かれながら、ファイターズの監督もされた。ラグビーにおける宿沢広朗氏と似たキャリアである。監督のときも現役時代と同様に甲子園では不敗であり、強運の持ち主である。また、チームマネージメントにおいてもすぐれた手腕を発揮された。ファイターズが個人商店ではなく企業のように運営されているのも木谷さんをはじめとする方々のリベラルな考え方によっている。

 木谷さんとは昨日お会いし、インタビューをさせていただいた。お話は理路整然としていて、こちらの意図を理解された上で話を展開されるので、ほとんどの時間、記録に専念できた。脱帽である。昨日お願いした資料のコピーをもってきたのでこちらへ来ませんか、というお誘いであった。木谷さん、大藤さんが座っておられるまわりは大先輩ばかりである。大藤さんの慫慂(しょうよう)でお二人の間に座らせていただくことになった。ゲームの経過とともにお二人が一言、二言、ぽつんと言われることがすべてポイントをついている。関西学院の中学部からフットボールをされ、その後も長く見守ってこられたので当然といえば当然なのだが、根底に非情に暖かいものがあってこんなに気分よくフットボールを観戦したのは初めてであった。

 大藤さんは現役当時、常にラッキー・ボーイと呼ばれた方である。鋭い勘をお持ちなのと観察眼が優れておられるので、人より何歩も先のことが見えているようである。その走りっぷりは現役時代、カニ走りと呼ばれ真横にカットが切れたらしい。この話は木谷さんからお聞きした。過去にそのような走り方ができたのは私の記憶の中ではただひとりである。現在、ファイターズのコーチ、小野宏さんである。西宮球技場でサイドラインから反対のサイドラインまで真横に瞬間移動したように見えたプレーが鮮烈な記憶として残っている。実際にはそうしたことは物理的にはないのだが、その魔法のようなシーンは今も目に焼き付いている。

 第3Q、7分を過ぎたあたりで、相手チームのパントになった。大藤さんが「パント・ブロック」といわれた。次の瞬間それが本当に起こった。第4Qが始まってすぐの頃、「QB、つぶせ」と大藤さんが叫ばれた。相手チームのQBが軽自動車がダンプカーと正面衝突したかのように関学のディフェンス・ラインに大きく吹き飛ばされ、その手から弾けるようにボールがバック・フィールドに転がり出た。ボールを追っているのは白いジャージの大きなラインである。#51が器用にボールを拾い上げると40ヤード、5秒5くらいのスピードでゴール・ラインに向かって走り出した。まわりを白いジャージがガードし相手の追跡を阻んでいる。そのまま60ヤードあまりを追いつかれることなくTD。先ほど関西学生アメリカンフットボール連盟のホームページで記録を確かめたら64ヤードだった。川島君にとっては初めてのTDではないだろうか。ディフェンス・ラインがタッチ・ダウンした距離としては新記録かも知れない。

 帰途、米田さんにお渡しするものがあって、ファイターズのグッズを売っているテントの前で待っていた。勝利は販促に最大の効果があるようで、テントの間口がすぐに人でいっぱいになりグッズが次々に売れた。

 米田さんとはそこでお別れしたが、帰路もフットボールの神様と同行させていただくことになった。今度はフットボールの神様が以前から顔なじみの小笠原秀宣さんになられた。西京極から十三駅まで40分ほどかかるのだが話がはずみ瞬く間に時間がすぎた。その間、小笠原さんから日本大学の科学性についてお聞きすることになるとは家を出るときまったく予想もしなかったことである。このことは次回に。

20081102book.jpg
木谷さんが高校生時代、勉強された“Functional Football”という英語の本。滋賀県立旧制彦根中学(現在、彦根東高校)のタッチフットボール部の方もこの本で学ばれた。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 22:10| 記事

2008年10月21日

#21 科学的武士道 ―日本大学のフットボール 1

 日本大学が初めて甲子園ボウルに出場した時、クォーター・バックを務められた須山匡(ただし)さんにお話を聞かせていただいた。日本大学が最初に甲子園に登場したのは、1955年(昭和30年)である。葛飾柴又のお生まれなので、渥美清演じる車寅次郎の「帝釈天で産湯を使い」の世界におられる。3代以上続いた正真正銘のイナセな江戸っ子である。八代将軍徳川吉宗から拝領したという由緒のある地名と同じ名を持つ「お花茶屋」という駅が約束の場所だった。私と同じ大学の大先輩に旧日本海軍のファンで待ち合わせには必ず15分前に来られる方がある。私の父は海軍の将校だった。生前、海軍はそうだったという話を聞いていた。その大先輩と世代が近い方なので20分前に約束の場所に行ったらすでに待っておられた。大恐縮である。おまけに風呂敷一荷分の資料をもってきていだいている。アルバム、書籍と見当をつけて重さを推測すると10キロは優に越えていそうである。

 須山さんは1935年のお生まれだがぜい肉がなく背筋が伸び、フットボールのスタイルをすれば今でもそのままクォーター・バックの位置につけそうなたたずまいである。普段から江戸下町で町会、地域の世話をされ、祭礼などで年中忙しくされているので若々しく、こんな風に年を重ねられたら良いだろうな、という羨望を抱かせられた。重そうな荷なのでお持ちします、と申しあげたがお断りになり、あたかもサイドラインからスクリメージへ向かうようにさりげなく歩かれる。

 準備おさおさ怠りない方で、駅から近い公民館の会議室を予約されていた。お話をうかがうにはこれ以上の場所はないという静かな環境だった。職員の方が須山さんに気遣われる様子から常日頃、高い地域貢献をされているのが推察できた。

 大学のフットボールは卒業があるので、ベスト・チーム同士が合間見える機会は少ない。日本大学と関西学院大学も甲子園ボウルで昨年までに25回対戦しているが双方が最強だと思われる時に巡り合わせるということは少なかった。

 話題がそれるがNFLフィルムズはときどき面白い企画をする。記憶によっているので正確ではないかもしれないが、例えば1970年代に最強であったピッツバーグ・スティーラーズと1980年代に王朝を築いたサンフランシスコ・フォーティーナイナーズが対戦するという架空のゲームを過去のフィルムを合成編集して作ってしまったりする。日大と関学でいうならば互いに甲子園ボウル5連覇時の最強チーム同士が対戦したらどちらが勝つだろうかといったことになるであろうか。

 1955年(昭和30年)、この両校の甲子園ボウル初対戦のとき、最初にしてそれが実現した。日大は1952年(昭和27年)より4年計画でチーム強化をしてきた最終年であり、関学は中学部よりフットボールを続けてきた選手たちが大学生になりすでに甲子園ボウル2連覇という結果を残していた。そのメンバー全員が残り3連覇をめざし、さらにレベルアップしていた。この両チームが対戦することになった。当時の新聞の戦前評を見ると力は「五分と五分」と書かれている。

 2年前ファイターズの65周年のDVDを製作したときこのゲームを取り上げた。完成までの時間が限られていた。DVDなので映像がいるのだがテレビ中継が始まる前年なのでもちろんビデオなど残っているはずもない。当時映画館でよく上映されたニュース・フィルムにも当たったがそれも見つけることができなかった。動きが欲しかったので架空のラジオ実況放送のかたちにした。入手できた写真は7枚。試合の経過のあらましは新聞などに残っていたのでシナリオを書いた。スポーツ実況放送の草分けであり名スポーツ・アナウンサーと言われたNHKの「志村正順」調が望ましいと思っていた。ナレーションを担当していただいた読売テレビの牧野誠三アナウンサーは初見でそれを理解され、あたかも目の前のゲームを見ているかのように台本を活かしてくださった。牧野さんは1990年代、関学・京大戦をはじめとする学生フットボールのアナウンスを長くされた方である。

 この試合は展開を追っても選手個々の能力から考えても、甲子園ボウル史上に残る好ゲームだった。第4クォーター残り40秒、20対26、関学は6点のビハインド、攻撃は自陣18ヤードから。そこから同点に追いつき、事実がフィクションを越えた。前回書いた昭和20年代前半と異なり新聞はページ数を回復しつつあった。フットボールも写真入りで掲載されている。当時の新聞を読むとそれだけで背が熱くなる。

 ずっとこのゲームの日大のクォーター・バック、須山さんは当時1年生だったと誤解していた。やはり日大には怪物のようなアスリートがいると思った。連想したのは1980年代、同様に1年生からスターターを務めた松岡秀樹さんのことである。4年生の時はリーディング・ラッシャーでリーディング・パサーだった。3年生くらいのころ、秋季リーグ戦で脚を捻挫し、ゲーム前、平服の時は脚を引きずっているのを見かけていた。ところがスタイルをしてゲームが始まるとトップ・スピードで縦横に走るのを見て衝撃を受けた。その当時はテーピングが今ほど発達していたのかどうか定かではないが想像を越えた領域にそのプレーはあった。

 最近1953年度のライス・ボウル(1954年1月1日)のメンバー表を見ていて誤解していることに気づいた。ライス・ボウルと同日に行なわれた選抜の高校東西対抗戦のメンバーに須山さんが選出されていたからである。従って1955年11月23日の甲子園ボウル時点では2年生である。誤解がとけても、すごいという印象は減ずることはなかった。一度直接ご本人にお話をうかがいたい、と思ったのはそうした理由からである。ファイターズOB会のご協力でお会いできる運びとなった。
⇒#8「関学と日大」参照
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 21:35| 記事

2008年10月14日

#20 取材ノートから @ ―北稜中学校タッチフットボール部、最後の一人―

 昨秋から、一刀(いっとう)康弘さんと言う方と大阪市立北稜中学校のタッチフットボール部の歴史を調べている。ことのはじまりは関西学院中学部が、北稜中学と1951年(昭和26年)11月6日に行なったゲームにさかのぼる※。一刀さんは北稜中学の三期生であり、同時にタッチフットボール部においても三期生になられる。北稜中学は戦後の新制度でできた中学校で1948年(昭和23年)に創立された。この時期は学制の新制度と旧制度の切り替え期間にあたっており、学年構成が以上書いた通りには単純ではない。それについては後述したい。
※以下の段落にいたるまでの経緯については#6を参照いただきたい

 一刀さんはご自分の前後の学年の連絡先が分かっている元タッチフットボール部員の方々や同窓会幹事に問い合わされ、先日その成果をレポートにまとめられた。当初はこちらがインタビューをさせていただいていたのだが、立場を代えて調べるほうにまわられ立派な記録にされた。幸いなことに北稜中学はタッチフットボール部ができた翌々年の1950年度(昭和25年)には卒業アルバムが製作されていた。クラスごとの写真に加え、スポーツと文化の部は部員の集合写真が掲載されている。しかし調査を始められた当初、昨今の個人情報保護法の壁にはばまれ、卒業アルバムを再閲覧することも峻拒(しゅんきょ)され大幅な回り道をされた。

 1950年前後は社会全体は貧しかったが、北稜中学タッチフットボール部の活動そのものは当時としては総じて恵まれていたと考えてよいと思われる。のちに述べるが北稜中学は実質的に大阪市立北第一中学としてスタートした。したがって最初にできた新制中学として物心両面で優遇されたと考えられる。第二次大戦後半から戦後にかけての長い期間は、物資が不足し新聞、雑誌などの用紙調達もままならない時代だった。1946年から1950年に当たる期間の大学フットボールのクォーター・スコアを調べるため、当時の新聞のマイクロ・フィルムを回したことがある。少なくともこの5年間はタブロイド版サイズで建てページ数がほぼ2ページか多くて4ページに限られ、よほどの大事件があったり、正月紙面となった場合にのみやっと増ページされるという状態であった。スポーツは紙面のほんの片隅で野球か相撲がわずかに扱われる程度だった。したがって学校の卒業アルバムも先立つ用紙がなくその時期はまず製作することが困難であった。関西学院大学ファイターズのDVDを制作した時、#18で触れたように学院史編纂室の池田さんにフットボール部が創部された1941年から戦後にかけての卒業アルバムを見せていただいたが1945年前後の数年間はアルバムそのものが存在しなかった。明治時代以降の新聞、出版など印刷物の歴史において定期の刊行物の発行が途切れたのは関東大震災後の数ヶ月のみである。

 前述したように現在の時勢から生ずる情報開示拒否という障害はあったにせよ、一刀さんは当時の方々の同窓会をいくつもまわられたり、部員だった方の情報を丹念にたどられ、写真と照らし合わせ順次姓名の確認を続けられた。人為的なさまざまな障害を克服し、地道な努力を積み重ねられた結果、少しずついろいろなことが解明されてきた。部員だった方の消息が一人また一人と分かるたびに一刀さんよりご紹介にあずかり、ともにその方にお会いしインタビューをさせていただいた。多くの新発見があった一方、あらたな矛盾や不明なことが多々でてきた。

 例えば最初に書いた「北稜中学は戦後の新制度でできた中学校で1948年(昭和23年)に創立された」というくだりは最初「1947年創立」になっていた。一刀さんが、再確認されたところ次のようなことが分かった。

 1947年4月
 大阪市立「北第一中学校」創立。新制の中学1年生が入学。

 1948年4月
 大阪市立「北第二中学校」創立。
 「北第一中学校」の2年生になった生徒は「北第一中学校」とこの新設なった「北第二中学校」の2校に振り分けられた。従って北第二中学は前年北第一中学に入学し、この年北第二中学に振り分けられた新2年生と4月入学の新1年生の2学年で構成された。この2年生の内、10数名が2学期になってからタッチフットボールを経験した。
         
 1949年4月
 「北第二中学校」は「北稜中学校」と校名を改称。
 一刀さんはこの年入学された。
 
 戦後の新制と旧制の学制切り替えが完了する1950年(昭和25年)まで、こうした複雑なできごとが日本全国で起こった。したがって

 北稜中学の一期生は、
 1年生のとき「北第一中学」に入学し「北第一中学」生として過ごし、
 2年生は「北第二中学」生になり、
 3年生は「北稜中学」生となり「北稜中学」第一期生として卒業したことになる。

 この間、校舎の仮住まい、移転なども加わり複雑なマトリックスが描かれる。そのために練習グランドも変わるということが起こるのだが、今回の記事で扱うには紙幅が足りないのでこの件はこの程度に留めたい。

 なお、北稜中学の1949年度(1950年卒業者、つまり第一期生)のアルバムは製作されていないが、幸運にも一刀さんがこの時期のタッチフットボール部員の集合写真を持っておられたので部の活動期間四年分の写真が全てそろった。しかし、インタビューさせていただいた方々のご記憶によれば写真に写っていない部員もいるようである。現時点で写真に残された4年間40数人の部員ほぼ全員のお名前が分かったが、おひとり名前の分からない方がおられる。ただ、まだすべての可能性が検証されているわけではないのでそれもいずれ判明すると思われる。

 「関西アメリカンフットボール史」の制作を契機としてこれまでフットボールにおけるさまざまな「なぜ?」を調べてきた。1947年(昭和22年)からの10数年間あまりの間にタッチフットボールを行なった新制中学校の名前を関西だけで20校あまり数えあげることができる。しかしそれ以後大阪などの地域では砂漠の砂の中に川が消えるように急激に活動を停止する。新制中学におけるタッチフットボールは長らく兵庫県の関西学院中学部、滋賀県長浜市立長浜西中学校、長浜南中学校といった数校のみが昭和20年代よりその活動を継続してきた。ここ数年タッチフットボールをする中学校が少しずつ増えてきているが、新制中学におけるタッチフットボールの消長も多くの「なぜ」のひとつである。しかし、これについては一刀さんのような強力な協力者を得て徐々に回答に必要な資料が集まりつつある。

 最後に以前の記事について一刀さんの名誉のためにひとこと付け加えたい。#6で1951年11月6日に北稜中学と関学中学部で行なわれた試合について書いた。最初に北稜がタッチダウンをあげたことを記し、経過にふれず最終スコアーのみを付け加えたので初得点のあとは北稜がワンサイドに押され、逆転負けをしたような印象を残すような文章となった。一刀さんの記憶によれば、

 「ハーフタイムに関学中学部のメンバーがコーチからかなりハッパをかけられていたことを覚えています。したがって前半は北稜がリードしていたと思う」

 とのことなのでこの機会にそのことを書き残しておきたい。もし異なる事実をご記憶されているか、あるいは当時の記録をお持ちの方があればご一報いただければ幸いである。

《物語の断片》
 1951年、11月の晩秋に向かうある日、晴れ上がっていたか曇っていたか定かではない。少なくとも雨ではなかった。北稜中学タッチフットボール部の部員たちは試合のため元海軍将校だった桑原徳勝先生に引率され関西学院中学部のある上ヶ原をめざした。十三駅と西宮北口駅の間で阪急電車が脱線したのではないかというくらい大きく振動して走行したことが試合にも増してこの日のもっとも印象深い思い出だった。電車は無事到着しゲームは行なわれたが、その経過については漠漠(ばくばく)たる記憶のかなたにある。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 00:30| 記事

2008年10月01日

#19 フットボール伝来記 4 −焼失した日記−

 #17の最後でふれたフットボールの大学対抗戦を初めて行ったラトガーズ大学に明治時代の前半期、なぜ多くの日本人留学生が在学していたかに話を転じたい。グイド・フルベッキという人物がいた。オランダに生まれ、ユトレヒトの工業学校で機械工学を学んだ。のちに22歳でアメリカに渡り、実業についていたがコレラにかかり死に瀕する重体となる。しかし、奇跡的な回復を遂げ一命をとりとめた。その結果、以後の人生を神に仕える決心をし、オーバン神学校に入学、卒業後オランダ改革派教会から派遣されて中国に渡った。フルベッキは語学の才があり英語、ドイツ語にも堪能であった。

 前回のマギル大学がスコットランド系の人々が創立したように、オランダ人がアメリカで創設した大学がラトガーズ大学である。教派はオランダ改革派だった。ヨーロッパから移民してきた信仰に篤い人々にとって大切なのは教会であり、教会を司る牧師であった。したがって牧師を養成するために神学校を建てた。アメリカにおける初期の大学は神学校であった。ハーバード、ウィリアム・アンド・マリー、エール、ペンシルバニア、プリンストン、コロンビア、ブラウン、ダートマス。ラトガーズも1776年のアメリカ独立宣言までに開校した9つの大学のひとつである。オランダ改革派教会は宣教活動に熱心であった。フルベッキも上海経由で1859年、長崎の出島に来航した。まだ禁教令のため布教を行うことができなかったが、幕府の英語伝習所、済美館で英学※を講じた。済美館には海外の情報を必要としていた各藩から選び抜かれた俊英が国内留学してきていた。のちに早稲田大学を開く大隈重信もここで学んでいる。従って明治初期に留学した人々がフルベッキの仲立ちでラトガーズに向かったことは自然なことであった。

 下の写真は1871年のラトガーズにおける日本人留学生たちである。
20081001_01.jpg

 留学生たちの名前は判明しており、1869年の最初のゲームを観戦した日本人がいるかどうか、留学生の日記を渉猟(しょうりょう)した。その結果、記録を残している可能性がある日下部太郎という学生にたどりついた。幕末に四賢候と呼ばれた藩主の一人である福井藩の松平春嶽じきじきの命で長崎に国内留学をし、済美館でフルベッキの教えを受け、ラトガーズに留学した。

 1866年に幕府が海外渡航の禁を解いた翌年の1867年1月、日下部は日本人留学生第一号として、開国後4番目に発行されたパスポートをもちアメリカ留学へと出立する。長崎より南下してジャワに至り、そこで1ヶ月半の間アメリカ行きの便船を待った。この頃は定期の船がなかったからである。インド洋、喜望峰を経て大西洋を北上し、150日近くかけてニューヨークに到着した。当時は蒸気船と帆船が併用されていた期間であった。蒸気船であれば早く着くことができたが乗船料が高価であったので、日数がかかるが安価な帆船を利用することが多かったという。要した日数から考えて日下部は帆船に乗ったと考えられる。昭和の初めにはこれが40日程度に短縮されている。

 日下部は日本での英語学習がわずか一年あまりにすぎなかったが初年度の1867年、大学1年生となる。当時の留学生は、勉学に必要な語学力習得のため、まずグラーマー・スクールに入学するのが常であった。おそらく日下部には天才的な語学の才があったものと考えられる。日下部の学部は科学部であった。現存する当時のノートには大砲の弾道計算などが残っている。帰国後は軍に勤務し砲兵隊の指揮をとることを目指していたという。数式を主に扱うので文科系に比べ言葉の障壁が少ないとはいえ異例なことであった。当初は藩費での留学であったが、最終学年の3年目には明治政府より海外留学生と認められ年間600ドルの支給をうけている。だが当時は送金方法も確立されておらず、常に経済的な苦労がついてまわった。アメリカ東部の物価は高く、10数年後の1884年に同じラトガーズ大学に留学した松方幸次郎※も首相、松方正義の子弟であったにもかかわらず常に逼迫した経済状況にあった。これは明治時代に留学した人々に共通の困苦であった。
※ 松方幸次郎については#16を参照。

 しかし日下部は乏しい留学費の中から3年間の在学中に200冊の書物を購入している。現代と異なり書籍は非情に高価な時代であった。夏目漱石が1900年代初頭、ロンドンに留学したがやはり安い下宿を求めて5回の転居をし節約した金で400冊の本を買ったことを連想させる。漱石は年間1800円の官費支給を受けていた。これも「やむをえざる西欧の受容」だった。日下部太郎も夏目漱石もけなげにまで自らの使命を果たそうとした。

 当時の大学は3学年。ラトガーズ大学は人文学部と科学部の2学部のみであった。人文学部は70人程度、科学部は10人前後、したがって総数約80名のちいさな大学だった。プリンストン大学戦に出場したのは25人であるので差し引くと55名となる。観客はおおよそ100名と記録されている。状況から類推すると試合前から初の大学対抗ということで学内の大きな話題になっていたと思われる。試合後に発行された学内新聞の”The Targum”※ にこのゲームのことについて詳しい記事が掲載された。日下部の指導教官であったウィリアム・グリフィスはフットボールを行っていたと言われている。したがって日本人がこのゲームを観戦していた可能性はかなり高いのではないだろうかと考えている。
 下の写真は1870年4月19日に撮影されたラトガーズに留学していた日本人留学生たちである。
 ※ 試合があった1869年の1月に創刊。試合は同年の11月6日、土曜日。
20081001_02.jpg

 ただし日下部はこの写真の中にはいない。写真が撮られる6日前、4月13日に他界していたからである。骨身を削って勉学に打ち込んだ日下部は常に首席であった。そして学問を含め日常のあれこれについて克明な日記をつけていた。冬には極寒となる東部アメリカの生活環境は物心両面にわたって厳しく、卒業を目前にして結核に倒れ、最初に大学対抗のフットボール・ゲームが行われた約5ヵ月後、1870年4月13日に息を引き取っている。大学は日下部の優秀さを高く評価し、愛惜の念を込めて卒業生とした。さらに成績優秀者の集まりであるΦΒΚ(ファイ・ベータ・カッパ)※のメンバーにも加えた。またそのメンバーに贈られる黄金の鍵を授与している。日下部の葬儀の日、大学は全学休講して弔意を表した。日下部太郎は特別に優秀な成績を収め、人格の高潔さを持って周りに深い感化を与えた。一証左としてその名が新渡戸稲造の「武士道」の序文にも取り上げられていることを記しておく。
 ※ 哲学は人生の導き手、というギリシャ語の頭文字

 日下部の日記は蔵書その他の遺品とともに故国、福井の八木家(日下部の旧姓)に持ち帰られた。しかし、明治9年10月4日、八木家に火事があり、そのおりに他の家財とともに火につつまれ、日本人が最初のゲームを見たかどうかを証明できたかもしれない重要な文書は灰燼(かいじん)に帰した。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 03:48| 記事

2008年09月25日

#18 フットボール伝来記 3 ―焼失した日記―

 蒸気機関、ガス灯、反射望遠鏡、道路舗装、切手、万年筆、グランドピアノ、自転車、タイヤ、石油精製、近代銀行、モールス信号、スピードメーター、レインコート、冷蔵庫、電話、ガスマスク、レーダー、救命胴衣、クロロホルム麻酔、ペニシリン、テレビ、ビデオ・レコーダー、これらに共通するものは?

 答は、発明したのはみんなスコットランド人、である。スコットランド人は産業革命を推進する多くのものを創り出した。エジソンの父も、エジソンの一番弟子の父親もスコットランド人であった。

 前回の記事に出てくるマクギル大学はJames McGillより遺贈された4万ポンドを基金として創立された大学である。McGillはスコットランドで事業を行ったのちカナダに移住、毛皮取引で成功おさめた。バスケットボールを考案したジェイムズ・ネイスミスもスコットランド系であり、マクギル大学を卒業した。記事を読まれた関西学院の方からマクギル大学のMcGillは「マギル」と表記しますとのご指摘をいただいた。学院の文書はそれで統一されているので今後は「マギル」と表記したいと思う。

 今回、ラトガーズ大学を取り上げる予定だったが、変更してマギル大学のことを書きたいと思う。灯台下暗しなのでご指摘のあった方にお願いしたら、たくさんの資料をお送りいただいた。関西学院はマギルと学生交換協定をしているという。母校のことなのだが知らずにいた。またスクール・モットーの“Mastery for Service”は学院の4代目院長であったC.J.L.ベーツが高等学部長時代に提唱し、その後、学院全体のものになったという。これはマギル大学マクドナルド・カレッジのモットーと同じであることも教えていただいた。この間のことを調べられておられる学院史編纂室の池田裕子さんが「関西学院史紀要」第6号(2001年4月20日)に「カナダ訪問記」と題して書かれており、目下他の資料も含めて勉強中である。池田さんにはFIGHTERSの65周年DVDを制作する時、たいへんお世話になった。

 アメリカは最初の大学対抗のゲームが行われた1869年に大陸横断鉄道が開通したように鉄道の時代に入っていた。1874年、マギル大学はハーバード大学とお互いが採用しているルールで交互にフットボールの試合を行った。当時はアメリカ国内においても大学ごとにルールが異なり、交流戦を行うときはまずルールの交渉からになった。このときはまず最初にハーバード・ルールでゲームを行い、翌日にマギル・ルールでゲームを実施した。スコットランドはラグビーが盛んであったのでマギル大学もラグビー・ルールであった。これがアメリカにおいてラグビー・ルールで行われた最初のゲームになった。マギル大学のあるモントリオールとハーバードのボストン間の距離はおよそ400km。鉄道で移動したと推測するのだが、おそらく10時間以上かかったのではないだろうか。時代は大きく下るが終戦後の甲子園ボウルで来阪する関東の大学は10時間以上をかけての遠征であったらしい。1950年に、「特急つばめ」がダイヤ改正により東京―大阪間を8時間で走るようになった。19世紀のサッカーの発展も鉄道の沿線沿いに進んで行った。アメリカでも鉄道会社の社員で構成されるチームが本格的なプロ・チーム出現以前にあったという。

 名前に関する余談をしたいと思う。外国人の日本語表記は難しい。McGillは「マギル」だが、おなじみのMcDonaldは「マクドナルド」であるし、かつてのアメリカの航空機製造会社、McDonnell Douglas社は、「マクダネル」であった。何か法則性があるのかも知れない。

 #15でも発音が分からないと書いたHeffelfingerのような一見しても想像がつけられないスペルがある。NFLのひいきチーム、セインツに1990年代前半、Bobby HebertというQBがいた。最近プレイオフに出るまでになったが、当時は弱小チームだったのでテレビの放送に取り上げられることがめったになかった。したがって、エースQBなのだが雑誌のスペルを見てもセカンド・ネームの発音が分からなかった。プロ・フットボールのテレビ解説をしている専門家に聞いたところ「ヘバート」と教えられた。のちにセインツのゲーム・ビデオが手に入って耳をこらして聞くと、何度聞き返しても「エーベァ」だった。セインツはニュー・オーリンズがフランチャイズなのでHebertもフランス系の可能性が高い。フランス語においては最初の“H”は発音されないので「エーベァ」なのであろうと思っているが、いかがであろうか。

 さらに余談を加えると、日本人の名前はもっと手ごわく、「纐纈」という苗字は13通りの読み方がある。こうした同じ漢字で多数の読み方を持つものが日本の名前には多く、ご本人に聞いて見なければ分からないということが往々にしてある。読み方が異なっても同一の字であれば1つの名前として数えると日本の苗字は10万あるそうである。これに「斉藤」の「斉」のように「斎」を初めとして同音異字なども数え上げると30万近くになるといわれているが、個人情報保護法もあり今後はさらに調査が困難になるので、正確なことは分からないようである。アメリカは世界各国から移民してきているので約100万に上るという。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 09:05| 記事

2008年09月15日

#17 フットボール伝来記 2 ―焼失した日記―

 1869年11月6日にラトガーズ大学とプリンストン大学の間でフットボール初の大学対抗戦が行われたことは以前に書かせていただいた※。前回の#16で予告したようにこのときの観客について考えて見たい。ゲームが行われた際、約100人の観客がいたといわれている。この年のはじめ、ラトガーズ大学では学内新聞が創刊された。したがって試合経過やこうした周辺情報を読むことができるが、日本人がその観客の中にいたかどうかについては既読の資料には残されていない。
※#1およびDVD“FIGHT ON KWANSEI”参照

 これまで数年このゲームを日本人が見た可能性について調べてきた。きっかけは次のことを偶然から知ったためである。

 なにげないと思われた経験がのちになってみると大きな歴史を体験していたということがある。1891年12月21日、マサチューセッツ州スプリングフィールドの国際YMCAトレーニングスクールの体育館、そこに一人の日本人がいた。名前は石川源三郎。ジェームス・ネイスミスによって創案されたバスケットボールの最初のゲームが行われ、石川はこれにプレーヤーとして参加した。青少年が冬季に室内で行うことができるゴール型スポーツとして考え出された新しい競技にはこの時点でまだ名前がなかった。ゴールには桃の収穫用のカゴを用い、サッカーボールを使用したので、のちに「バスケットボール」と名づけられた。ジェームス・ネイスミスはカナダのマギル大学※の出身である。マギル大学は遠征しハーバード大学とラグビー・ルールによるフットボール・ゲームを行い、アメリカンフットボールの展開に大きな役割を果たした大学である。ネイスミスはまたバスケットボールを考案するにあたりアメリカンフットボールの考え方もモチーフのひとつとした。ただ石川はバスケットボールを日本に広めることはなかった。バスケットボールはフットボールに関係する方の血縁者により別の機会、別のルートでわが国に紹介されたが今回それはテーマではない。
※#14参照

 近代スポーツの各競技はそれぞれ時期を異にして日本にもたらされた。フットボールは1934年(昭和9年)12月、関東で明治大学、早稲田大学、立教大学の3大学のリーグ戦開始をもって日本ではスタートしたとされている。

 各競技が伝来したきっかけは大別して2つになる。明治政府が大学を頂点とする高等教育制度の短期整備のために雇い入れたいわゆる「お雇い外国人」など欧米人によってもたらされたもの。いわば舶載の貨物についた「こぼれ種」のようにして伝播した。もう一つは欧米留学や視察により海外に出た日本人が持ち帰ったものである。前者の例としてはベースボールがある。後者の例はハンドボールを挙げることができる。フットボールは強いて分ければ前者になる。ベースボールは1872年(明治5年)、当時の開成学校(のち旧制第一高等学校)で英語などの教鞭をとったホーレス・ウィルソンが生徒にベースボールを手ほどきしたのが最初と言われていたが、現在は諸説がある。ハンドボールは1922年(大正11年)、欧米へのスポーツ留学経験のある東京高等師範学校出身の大谷武一がドイツより帰国後紹介した。また大谷は昭和初期ラジオ体操を考案し、第二次大戦終了後まもなく、文部省の学習指導要領に基づきタッチフットボールのテキスト作成を行った。

 「やむをえざる西欧文化の受容」が明治以降、日本近代化の過程であった。冬の霧深い陰鬱なロンドンで夏目漱石も懊悩したように避けがたい現実だった。漢籍に明るかった漱石はむしろ北京留学を望んでいたという。1854年(安政元年)、吉田寅次郎、すなわち松陰が小船を漕ぎ出しアメリカへの密航を計ったことからも推測できるが、この欧米留学という切実たる思いを共有した江戸人は少なくなかった。それから10年後の1864年さらに勇敢なる人物が無謀とも思える単独行でボストンに至る。鮭は産卵のために母川(ぼせん)の急流を遡上するとき、最初に大いなる段差を超えるものが出ると連なってこれを克服していく。このパイオニアが同志社大学を創始した新島襄であった。函館からまず上海に渡り、アメリカに行く船を捜した。幕府が海外渡航禁止を解くのは1866年なので捕縛されれば死罪を覚悟の行動であった。新島の翌年、1865年には薩摩藩が英国に15人の留学生を送り出すなど、幕府にはこの近代化という大きな潮流を押さえる力はすでになかった。

 新島はアメリカ行きの船捜しの間も、上海で漢訳の聖書を入手するなど勉学を怠ることがなかった。この勇敢無比な新島の魂を理解する船長、ホーレス・テイラーが現れ、インド洋、大西洋を経て西回り航路で無事ボストンに着く。乗船した船の名前は“WILD ROVER”。のちに同志社大学アメリカンフットボール部のニックネームとなる。付け加えるならば、新島は1870年(明治3年)日本人ではじめて学士号を得た。またのちに来日し、札幌農学校の教頭となり明治の日本に大きな精神的な影響を与える、ウィリアム・クラークにアマースト大学で講義を受けた。先に述べたように滞米中の1866年に国禁が解かれたので、新島の留学は追認され、その高い人格と深い学識が新政府に重用されることになる。

 新島襄に遅れること数年、同様の時期にラトガーズ大学に留学した日本人が幕末から明治初期にかけて数百人におよんだ。現在では日本人にあまりなじみのないラトガーズという大学になぜ多くの日本人が留学したかについて考えてみたい。

(この項続く)
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 22:08| 記事

2008年08月01日

#16 フットボール伝来記 1

 今回から「金ぴか時代」における日本人とフットボールのかかわりについて取り上げて行きたい。「金ぴか時代」はマーク・トウェインが南北戦争終結から19世紀末にかけてのアメリカをこう呼び、小説のタイトルとしたことは以前に触れた。(#13参照)

 「火輪の海」という本がある。「火輪」(かりん)は「火輪船」の略で、外輪式蒸気船の幕末期における呼称である。「鉄鋼製の蒸気船」という限定した定義もある。「火輪」は同時に「火輪車」の略でもあり、汽車の明治初期の呼称だった。中国語の「火車」が汽車であるのと気分として似ているがこの三つの呼称の「火」が共通の字義なのかは定かではない。
 
 1989年、神戸新聞社は創刊90周年事業として同社の初代社長、松方幸次郎と彼の事績について「火輪の海―松方幸次郎とその時代」という企画を組み、朝刊連載を行った。連載は9月にはじまり翌1990年3月まで約半年間続き、7月に上梓された。同年に村尾育英会学術賞と井植文化賞(報道出版部門)を受賞している。学術賞の名にふさわしく詳細な参考文献リストが巻末に備わった労作である。

 松方幸次郎の名前を知る人は少なくなったかもしれない。明治、大正、昭和にわたり、現在の川崎重工業、神戸新聞をはじめとして多くの会社のトップを務めた財界の重鎮であった。明治年間の首相、松方正義の三男であり、川崎正蔵が築いた川崎財閥の後継者として大正年間に神戸市を日本第3位の経済都市に押し上げた。

 川崎重工業の前身である川崎造船所は、戦前三菱造船と双璧をなし、商船をはじめとし多くの軍艦を建造した。松方は社長としての繁忙の間をぬい、パリ、ロンドンを中心に、私財を傾け西欧絵画2千点、浮世絵8千点を蒐集したといわれている。浮世絵は日本においてひととき粗末に扱われた。陶磁器の包装紙にもされ海外流失がはなはだしかったが、松方の手によって多数が取り戻された。総点数についてはコレクションの規模が大きく正確な数は不明である。購入後すぐに日本に送られなかったので、第二次大戦のため「松方コレクション」と呼ばれる膨大な作品はフランスに留め置かれていた。フランスにあった多くの作品群の返還のために立ち働いたのは当時の首相、吉田茂である。吉田は持ち前の政治力を発揮し、大統領シャルル・ド・ゴールに「ウィ」と言わせた。このコレクションを収めるためそれに先立ち1954年、国立西洋美術館を設立することが閣議決定され、1959年に落成した。

 「火輪の海」の中にフットボールのことが出てくる。最初のきっかけは前回に紹介させていただいた古川明さんである。2003年に「関西アメリカンボール史」を出版したのち、数年して国立西洋美術館のことがテレビで取り上げられた。当然ながら話題は松方幸次郎におよびアメリカ留学時代の写真が紹介された。この写真を古川さんがご覧になって、松方が着ているジャージはフットボールのものではないだろうか、と思われた。フットボール史研究会で話題にされ、調べていくと1884年に撮られたラトガーズのフットボール・チームの写真にたどりついた。この間の事情が「火輪の海」に書かれている。

 松方幸次郎は在籍していた大学予備門(現在の東京大学教養学部)において現在でいえば学園紛争を起こし退学になったため留学を考えラトガーズ大学を選んだ。1880年代当時ラトガーズ大学は日本ではかなりなじみのある大学であった。幕末からの10年間で少なくとも40人以上の日本人ラトガーズ大学に留学した。同時期にアメリカに留学していた日本人は約300名とされているのでラトガーズへの日本人留学生は相当の割合といえる。

 「火輪の海」によるとラトガーズへ入学した松方は学内における地位確立のため、明治人らしい積極的な行動に出た。まず学生の社交クラブ「デルタ・イプシロン」に入会。次にフットボール部の扉をたたいた。下記はテレビでも登場したそのときの写真である。松方は最前列右から2番目である。写真で見ると一目瞭然の体格差があるがポジションはフォワードであったという。現在ならばラインというところだが、1880年代はまだラグビーの用語を併用していたのでこう呼ばれた。松方の左にいる人物の持つボールも球体に近く、また説明がなければラグビー・チームと見まがうスタイルである。

matsukata.jpg

 ジャージの「89」という数字は卒業予定の年である1889年を示している。しかし、弁護士の資格をとるため1886年にエール大学法学部に転ずるため実際にどの程度フィールドに立ったかは定かではない。

 以前から「火輪の海」についてこの本を執筆された方にお会いし、お話を伺いたいと思っていた。今回、機会があり本をまとめられた編集チームのお一人で実際にラトガーズ大学へ取材に行かれた服部孝司さんにお会いすることができた。ラトガーズ大学の関係各所をはじめとして欧州、日本国内にわたって膨大な調査をされた。存在するか、しないかも判然としない一枝をさがすために樹海に分け入るような作業を積み重ねられた。こうした文献に当たるだけでない事実の断片の間を埋めるフィールドワークの結果、上下2巻、約600ページの記録が生まれた。明治、大正、昭和をつらぬく日本の産業史と軍事史が松方幸次郎という規格外れのスケールの人物を案内役として壮大な叙事詩に織り上げられている。この本は一時品切れとなっていたが昨年末に一巻本として再刊されたので現在入手は容易である。

 幕末以来1880年代までに、数100人の日本人がラトガーズそのほかのアメリカの大学に留学した。従って松方以前にフットボールを経験したものがいたかもしれない。しかし、現時点の調査ではこの写真は日本人がフットボールに触れた最初期の記録の一つであるということができる。次回はさらに時代をさかのぼり、1869年にラトガーズ大学とプリンストン大学が行った最初のゲームを観戦したひとびとのことについて触れたい。(この最初のゲームについては#1参照)
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 19:05| 記事