2013年07月10日

#45 フォーク・フットボールの進化 ― ボールをめぐって

 現在、プロ野球は統一球の弾性とその導入手続きをめぐってかまびすしい議論が続いている。今回の件でまたも顕著になったが、NPB組織の根本にある前近代的隠蔽体質についてはあいも変わらない。戦前の旧軍部幹部が最前線を無視し、指令を出した行為に似ている。最も利害の大きい選手会がもっと発言すべき問題であろう。身びいきになるがフットボールでは試合前に審判が使用するボールの空気圧を確認するので上記のようなことが起こる可能性は極めて低いと思われる。

 メジャー・リーグでは人気が落ちるとよく飛ぶボールを使用するということが過去に何回かあった。1919年、シカゴ・ホワイト・ソックス事件が起こる。ワールド・シリーズでの八百長疑惑である。このできごとは映画『フィールド・オブ・ドリームス』にも登場する。20世紀初頭からベースボール賭博にからむギャングたちの存在は問題となっていた。そう言ったことが大いに影響し当然のこととしてベースボール人気は凋落した。

 「攻撃が観客を呼び、守備で勝つ」と言われる。これはスペクテイター・スポーツ、つまり観戦型スポーツに良く当てはまる。そこで事件の翌シーズン、1920年、飛ぶボールが使用された。結果、ベーブ・ルースは1シーズン、54本の本塁打を放ち、ベースボール人気が回復したという。ルースがボストン・レッドソックスからニューヨーク・ヤンキースに移籍した年であった。ついでながらルースは投手においても非凡な才能を発揮し、現在の北海道ファイターズ、大谷翔平のように攻守両面で活躍した時期があった。

 1950年代後期から60年代にかけて、やはり飛ぶボールが使用された。ヤンキースのミッキー・マントルとロジャー・マリスが活躍し、二人の頭文字をとってMM砲と呼ばれ人気を博した。マリスは‘61年に61本のホームランを記録し、ベーブ・ルースの1シーズン記録を塗り替えた。同年マントルも54本のホームラン打っている。ただルースの時代は1シーズン154試合でであったがマリスの時代は162試合制であった。そのためルースの信奉者はマリスの記録を参考記録だとしている。

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 さて、フットボールのボールについて。上記上段の球体に近いボールは1888年の広告である。右横にラグビーという文字が見える。フットボールの父とよばれるウォルーター・キャンプが1880年代前半に現在のルールの元となった規則の整備を行った。しかしボールはラグビーのものを使用している。まだフォワード・パスが認められていない時代だった。

 下段のボールは1905年の使用球である。スポルディング社発行の本の表紙の写真である。この翌年、1906年からフォワード・パスがルールで認められた。スポルディング社はスポーツ用具を扱うとともに普及活動のために出版部門も持っていた。創業者のアルバート・スポルディングはベースボールのプロ・プレーヤーとしてもめざましい活躍をし、1878年、28歳で引退した。その後1888年から1889年にかけて、ベースボール普及のためシカゴのチームを率いて世界一周を行った。

 フットボールの記録が残る12世紀より現代に至るまで、当初豚の膀胱から作られた球体のボールから現在のアーモンド型に向かって改良が続いた。ご存じのようにボールの扱いを容易にするためNFLの使用球はカレッジのボールよりひとまわり小さく作られている。

 #1で触れたが1863年にサッカー協会ができるまでの先史時代は、folk footballまたはmob footballとも呼ばれた。この民俗フットボールと訳される競技は現在のサッカー、ラグビー、プロレス、ボクシング、その他もろもろの競技がないまぜになった混沌とした集団格闘技だった。従って時には死者が出ることもあった。ラグビー、プロレスの要素が含まれていたため多くのゲームは手を使っており、サッカーのように足のみを使うことは少数派であった。

 この民俗フットボールは現在でもイギリスのアッシュボーンという名の町で毎年行われている。そのルーツは1660年代にあるとされている。またイタリアのフィレンツェでは毎年、6月にカルチョ・ストリコと呼ばれる16世紀から続く競技が行われている。市を4つの区域に分け、区域対抗の全市挙げての熱狂的なイベントとなっている。カルチョ・ストリコは「歴史的フットボール」という意味である。日本でカルチョはトト・カルチョという言葉により広く知られるようになった。下記は14世紀のロンドンで行われた民俗フットボールのイラストである。

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2013年05月22日

#44 フットボール伝来記―YMCAとバタフライ効果

 バタフライ効果という理論がある。この言葉は1972年アメリカ科学振興協会でエドワード・ローレンツがおこなった講演のタイトル『予測可能性、ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか』に由来する。くだけて解釈すれば「風が吹けば桶屋が儲かる」の地球規模版と言えようか。

1840年代の10年間に起こったいくつかの事柄は、20世紀になり、さまざまな領域で大きな影響をもたらすことになった。以下、主なできごとを時系列に並べると。

1844年 ロンドンでYMCA創設
 ジョージ・ウィリアムズら教派を異にする12名のキリスト教青年により設立された。この活動はアメリカに渡り、その後1885年に体育の指導者育成を目的とした国際YMCAトレーニング・スクールが創立される。

1845年 ベースボールの始まり
 ニューヨークのニッカボッカ・ベースボール・クラブでルールの整備が行われた。

1848年 ヨーロッパ各地で革命
 この潮流は近代国家成立の礎となって行く。2月、フランス、3月、ドイツで革命。続いてオーストリア、イタリア、ハンガリーへ波及。また9月にはスイスで連邦憲法が制定された。

 ロンドンで『共産党宣言』出版

 サッカー、ケンブリッジ・ルールの制定
 それまで地域あるいはチーム間でばらばらであった民俗フットボールのルールがケンブリッジ・ルールとして整理される。1863年、イングランドでフットボール・アソシエーションが設立された際、ルールはこのケンブリッジ・ルールが元になった。

1849年 ゴールド・ラッシュ
 1848年、アメリカ西海岸で金が発見される。翌年の1849年が最盛期となる。時代精神であった「ゴー・ウエスト」が太平洋を渡り現在、日本を含むアジア、イスラム圏に至っている。ついでながら、ジョン万次郎は帰国の資金を得るためサンフランシスコに向かう人々の中にあった。またNFL、サンフランシスコ・フォーティナイナーズのニックネームもこの年号に由来している。

 上記の最初に挙げたYMCAの活動はフットボールが日本に伝わる歴史のなかでいくつかの痕跡を残している。

1920年 
 シカゴ大学他、諸大学に留学した東京高等師範学校の岡部平太が日本で最初にフットボールを紹介し何試合かのゲームを実施する。岡部が師事したシカゴ大学のエイモス・アロンゾ・スタッグは体育局長、フットボール部のヘッド・コーチであった。スタッグはエール大学、国際YMCAトレーニング・スクールを経てシカゴ大学に招聘されていた。岡部はこの国際YMCAトレーニング・スクールも視察している。      

1927年
 東京高等師範学校のラグビー部においてフットボールの研究、出版に加え、部内での紅白ゲームを行う。この時の主要メンバーであった竹内一は国際YMCAトレーニング・スクールに留学する。

1932年
 大阪YMCAの体育主事、松葉徳三郎がロスアンジェルスのオリンピクを視察。オリンピックの公開競技として行われたフットボールの剛健さに感銘を受ける。帰国後、母校関西大学でフットボール部を1935年に創設。この時協力したのは、国際YMCAトレーニング・スクールに留学した石渡俊一、同校出身であり卒業後大阪YMCAの体育主事となった日系人の竹内伝一である。

1934年
 1923年、東京YMCAは関東大震災で大きな被害を被った。これを立て直すためにポール・ラッシュはアメリカのYMCAより派遣される。1934年、明治大学の松本瀧蔵からフットボールのリーグ戦設立のためラッシュは協力を求められ、明治大学、早稲田大学、立教大学の3チームによるリーグ戦を12月にスタートさせた。その事前PRのため公開ゲームを11月29日に行った。

 上記のことがらよりはるかに時代は下るが1972年、武田建著『近代アメリカン・フットボール』は日本YMCA同盟出版より発行された。
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2013年02月19日

#43 3200万円のブランドとニューヨーク市長

 前回書いた時よりほぼ3年間が空いてしまった。いろいろと世俗の事情があり、書く暇なくすごした。主だったいくつかのことが済んだので今より再開します。2016年初頭には『関西アメリカンフットボール史』に続いて『日本アメリカンフットボール史』の出版を予定しておりますのでよろしくお願いします。

 先日、ある会議で雑談として以下のような話を聞いた。
 オレオレ詐欺があって、KG・ファイターズがそのダシに使われたという。年配の婦人のところに息子という人物から電話があった。
 「お母さん、ファイターズに寄付をしたいので現金で3200万円用意して欲しい。」
 その婦人はすぐにお金を引出し、使いのものと称する人物に渡した。オレオレ詐欺と知ったのはかなりあとになってからだという。
 都市伝説であろう。200万円というのが半端である。もし事実としたら少なくともファイターズにそれほどの価値を認めている人がいる、ということになる。そんな方がいれば一報いただきたい。地球の裏側でも直ちに受け取りに行きます。
 アメリカでは『フォーブス』という経済雑誌がプロのスポーツ・クラブの価値をランキングする。サッカーのマンUが一番でそれ以下、MLBのNYヤンキースとNFLのダラス・カウボーイズが双璧である。数年前のはなしではあるが、カウボーイズの価値は1000億円を超えていた。
 カレッジ・フットボールの場合はファン・クラブの最高位のメンバーになるとホーム・ゲームのとき、スタジアムのゲートに一番近い所に駐車することができる、というようなメリットをつけているチームもある。全米ランキングで25位以内に入るような強豪チームに寄付し、最上位のメリットをうけるためには、10万ドル程度の寄付が必要である。ここのところ円安傾向だが、今日2月19日現在、1アメリカ・ドルを約93円として930万円ということになる。
 オレオレ話が創作されたものとしても最初に言い出した人物はある程度以上の金額、おそらく数百万円という数字をいったのではないかと思う。それが人と人へ伝わるうちに雪だるま式に3200万円にまで高騰したと考えると理解がゆく。
 こういう話が流布される時はチームにとって一番危ない時である。アメフト、サッカー、ラグビーの世界では、不祥事はチームがピークになるか、ピーク・アウトになった時に起こっている。
 以下、「上には上が」のはなし。共同通信の記事よりそのまま引用させていただく。

ブルームバーグNY市長、母校に寄付1000億円 ジョンズ・ホプキンス大へ
2013/1/28 10:54 【ニューヨーク=共同】
 米ジョンズ・ホプキンス大は27日までに、卒業生のブルームバーグ・ニューヨーク市長(70)による寄付が49年間で11億1800万ドル(約1020億円)に達したと発表した。同大は「米高等教育機関に10億ドルを寄付する初めての人物とみられる」と説明している。
ブルームバーグ氏は卒業の翌年の1965年に初めて5ドルを寄付。その後、84年の100万ドルなど寄付を積み重ねた。
 今回は3億5000万ドルを約束。このうち2億5000万ドルは水資源などの研究に、1億ドルは奨学金に充てられる。同氏は米経済通信社ブルームバーグの創業者で、米誌フォーブスによると、保有する資産は約250億ドル。

 過去に例をとれば、19世紀末ロックフェラーは当時の金で1000万ドルを寄付し、それを基金として、1890年に現在のシカゴ大学およびフットボール・チームが創設された。シカゴ大学はノーベル賞受賞を89人も排出している中西部の名門校である。

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2010年05月22日

#42 さくらんぼの実る頃

 奥さんが友人からさくらんぼをもらってきた。その人の庭で実を結んだという。スーパー・マーケットや果物屋で扱っているものの半分くらいの大きさだが春の空気が感じられてういういしい。

 昔、西宮球技場が関西のフットボールのメイン会場だった1970年代、1980年代、春の西日本選手権大会の一回戦の頃、球技場での観戦はさくらの花の下だった。季節の移ろいをさくらの花びらが風に舞う光景に感じた。王子スタジアムには土手があるので桜と紅葉を植えてはどうだろうか。春は花見、秋は紅葉狩りというのは興趣があると思う。

 西日本選手権はトーナメント形式で1955年(昭和30年)にはじまった。その前年には日本のアメリカンフットボール20周年の記念事業として東西対抗の西宮ボウルが実施された。この前後、フットボールはターニング・ポイントを迎える。戦前創部の9チームに加え、新しい大学チームが創設され始めた。1953年立命館大学、1955年甲南大学、1956年学習院大学、1957年防衛大学、1959年東京大学、日本体育大学。京都大学はこれに先立ち1947年にすでに創部していた。

 西日本選手権は当時はチーム数が少ないため、ゲームの機会を増やす目的でスタートした。大学4校、元大阪警視庁の選手を中心とした全大阪。現在の大阪府警は昭和20年代大阪警視庁と呼ばれ、1950年から1958年までチームがあった。その他、関西学院大学のOB中心の全神戸、関西大学OB中心の全奈良、池田高校OBらによる池田クラブの8チームが参加した。(※)第一回大会は関学が優勝している。

※『関西アメリカンフットボール史』P.60、p.61参照

 その後西日本選手権大会は、大学、社会人混成で続いたが、1984年、日本選手権の創設に伴い、チーム数の増加もあり、大学、社会人それぞれの大会として独立して運営されるようになった。時が経て、大学、社会人とも春のトーナメントの意味合いが薄れ、ここ数年前から交流戦となった。現在でもトーナメントの形を存続しているのは社会人のグリーン・ボウル・ジュニア・トーナメントのみとなった。このトーナメントは関西のX2リーグに加え、西日本全体、東は金沢、西は九州までをカバーし、普及の役割をはたしている。

 つけ加えれば、20周年記念の1954年、20周年を記して、第1回の西宮ボウルが西宮球場で行われた。西宮球場は1991年西宮スタジアムと改称され、2002年まで関西学生のメイン会場として使用された。西宮ボウルの初期はOBを加えた全関西、全関東の選抜チームの対戦が組まれた。このときは秋のシーズン直前の9月16日に開催されている。

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1980年代 西宮球技場の桜 (撮影 奥田秀樹)
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2010年05月06日

#41 フットボール好日

 5月4日は晴天でフットボール日和だった。大阪の高校の決勝と順位決定戦を見にエキスポ・フラッシュ・フィールドに出かけた。母校の豊中高校が3位決定戦に出場するのでそれが主な目的だったが、第1試合の池田高校と高槻高校の5位決定戦から見始めた。豊中は第3試合で第2試合は決勝という順番になっていた。

 池田は第4Qの残り数十秒まで14−13でリード。高槻が攻撃権を得てフィールド・ゴール圏内まで進む。4thダウンになりフィールド・ゴールを選択。
 これが左にそれて池田の勝ちと思ったら黄色のフラッグが落ちていた。池田のオフサイド。高槻が5ヤード進んで再びフィールド・ゴール・トライ。これは決まって劇的な逆転になった。

 第2試合、大阪産業大学高等学校と箕面自由学園高等学校とで決勝。点の取り合いとなり、箕面自由学園が41−34で競り勝った。

 豊中は残念ながら敗れた。前戦の産大高校戦で負傷者が続出し、キャプテンもフィールドにでることができなかった。結果は7−28の敗戦。関西大会までに負傷が癒えるだろうか。

 今大会はタックルをするアメリカンフットボールになった1970年(昭和45年)から数えて40周年で関西大会に大阪から5チームが参加できる。通常の年は3チームである。他の府県も入れ全部で14チーム。京都、滋賀もチーム数がプラスとなる。これまでは10チームが春季の関西大会に出場していた。ノックダウン方式のトーナメントの場合、順位によってシードされるため有利、不利が生じるのでそれだけに今日はどのゲームも緊張感が漂っていた。1970年にアメリカンフットボールになる前、高校はタッチ・フットボールだった。防具の入手が困難な時代であったのと、タッチの方が安全だというのがタッチを採用していた主な理由だった。しかし日本も高度成長時代に入り、防具もそれ以前より入手しやすくなったことにプラス、プレイのレベルが上がりタックル・フットボールの方が負傷が少ないという考えの人が多くなったため、アメリカンフットボールに切り替えられた。ただ、防具のそろわない学校もあったので数年間、タッチの大会も平行して行なわれ、アメリカンフットボールへのリレー・ゾーンが設けられた。

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豊中高校vs学芸高校 豊中#44 QB古角のピッチ・プレイ
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2010年05月03日

#40 第60回長浜ひょうたんボウル

 「ひょうたんボウルの日は晴れますのや」と吉川太逸先生(※)はいつもおっしゃる。今年も晴天だった。長浜ボウルは半世紀以上の歴史を重ね甲子園ボウル、ライス・ボウルに次ぎ、3番目の歴史をもっている。最初は長浜市内の中学校の対戦だった。会場も長浜西中学校や高校のグランドの時代もあった。1992年に長浜ドームが完成し、その後はドームが会場となったので晴雨は気にしなくて良いようになったが依然としていつも天気が良い。こうして環境も整ったこともあり、吉川先生ほか関係者の努力で大学の強豪校が対戦するようになった。

 2010年は日本アメリカンフットボール協会の75周年だったのでフットボールへの功労者に対する第3回目の殿堂表彰が行なわれた。吉川先生も選ばれた。今回の殿堂入りでもすでに故人となっている方々も含まれているが、めでたく先生はご自分で式に出席された。1920年(大正9年)のお生まれなので今年で90才である。80才代半ばまで自分で車の運転をされていたが、あるとき、田んぼにつっこみ車が横転してからはご家族の方の意見もあり。もっぱら自転車で移動されている。フットボールの第一線からはすでに引かれているが瓢箪で長浜の町おこしをする愛瓢会では現役の会長さんである。今度九州で開催され皇族にも臨席いただく大きな瓢箪の会にも出席するというお話でその行動力は少しも衰えない。先生のことについてはまた稿を改めて書く予定である。

※ #4 長浜 滋賀県のフットボール を参照

 昨年から会場周辺では両チームのグッズを売るテントの他にフリー・マーケットも参加していて大変ににぎやかで本場アメリカでのゲームの小型版のようになってきた。

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 大学のゲームは立命館大学と日本大学の対戦が昨年に続いて組まれた。日大が昭和20年代前半まだの最下位を低迷していた頃、当時の監督だった竹本君三は1952年から4年計画でチーム強化を図った。その頃は9月にリーグ戦がなかったので実戦を経験するため関西遠征を行なった(※)。関東の大学チームは秋のリーグ戦で対戦するのでゲームを組めなかった。したがって関西遠征になった。相手はまだチーム創部間もない立命館大学、創部8年目の京都大学、そして関西学院大学だった。宿泊費を節約するため2日間で3ゲームをこなした。結果として日大は当時甲子園ボウル2連覇中の関学にそのフィットネスを驚かれるような運動量のあるチームとなった。日大は1955年、4年計画の最終年に甲子園ボウルにおいて関学と、26対26で同点優勝を遂げる。その後、日大と立命の交流戦はとだえていたが昨年半世紀以上を経て復活した。昭和20年代後半は両チームともまだ弱小と言える状況だったが、現在ではご承知のように両チームとも甲子園で何度も優勝する強豪校となった。今回はシーソー・ゲームになり僅差で立命が長浜ボウル二連覇を果たしたが秋になれば日大はパス・ゲームの精度を上げて甲子園を射程圏内に入れてくるだろう。

※ #21〜26 日本大学のフットボール参照
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2009年07月30日

#39 新彊ウイグルと日本における近代スポーツ

 新彊ウイグルに事件が起こり、北狄(ほくてき)、東夷(とうい)、南蛮、西戎(せいじゅう)という言葉を思い出した。中華思想というものがあり、漢族は自らを中華とし、その四辺の外をこう呼んだ。実体は中原に鹿を追うことであった。列強が権力を追い求める様を猟師たちが鹿を追うのに見立てた比喩である。これから転じて「鹿」はイコール「帝位」、権力の象徴となった。まだ日本が縄文、あるいはそれ以前の時代、広大なアジアにおける文明の中心のひとつは春秋戦国の諸国が抗争を繰り広げる2本の大河の流域の大地、すなわち中原であった。しかし、悠久たる数千年の歴史の中では漢族が野蛮と呼んだ民族に征服されることしばしばであった。征服者は英雄であった。英雄とは多くの人間に食いぶちを与えうる人物を意味した。そしてその中でもっとも多くの人間を養う英雄が中原の皇帝となった。 

 新彊ウイグルはイスラムなので漢族とは異なる精神世界に暮らしている。これが現実の世界にも持ちこまれるため埋めがたい軋轢が起こり今回のような事件となった。人は不寛容であることしばしばである。国家、民族、種族、地域、その他、我と異なる要素があれば不寛容は生じ、漱石ではないが向こう三軒両隣、家族の中でも「兄弟(けいてい)牆(かき)に鬩(せめ)ぐ」、抗争が起こる。「牆(かき)」は垣根のことで、兄弟が内輪喧嘩をする、転じて財産争いを意味することもある。

 漱石の『草枕』の冒頭を引くまでもなく、人の社会はせめぎあいである。政治とは欲望、好悪とそこから生ずるパワー・バランスである。政治という俗世にあって純粋であることはできない。それは聖人がフィクションであり、ユートピアはどこにもないところを意味するのと同様である。この消息を司馬遷は『史記』の中でつぶさに描いた。『史記』を熟読すれば人間の心の深層にひそむ天邪鬼なワニの暗い世界を目の当たりにすることができる。司馬遷が絵解きした世界より2000年以上が過ぎたが人が変容した形跡はない。

 中華は一個の完結しうる世界である。世界であることの一要件は自給自足できるということである。アメリカやフランスも世界である。近代が作り出した国家という概念では収まりきらない広さと多様な要素から構成されている。中華から見れば固有の文字も持たず、思想もなく、当時にあって先進の条里制都市も持たない蓬莱(ほうらい)の国、日本は中華の周縁部にあった。そして魏志倭人伝の中で倭の国と呼ばれた。倭の国は主たる農作物に米作を選んだ。これによって関東平野までは満ちたが、狩猟、漁労と果実の採集生活で豊かだった道の奥にも寒冷地に適さぬ米作を強いたので、この元来は豊かな地を常に飢餓の危険にさらす地域におとしめてしまった。これは昭和になるまで続き、日本で最初のフットボールのリーグ戦行われた1934年(昭和9年)においても東北地方は大飢饉にみまわれ、人身売買が横行し、新聞各紙は救済のため大きな紙面を割いて募金活動を行った。

 日本は江戸時代、国を閉ざしフラスコの中のビオトープの世界を維持し続けた。葦のズイのような細い管から取り入れた舶載の文化はごく一部の為政者、貴族、武士、学者、神官僧侶、富裕な商人というような特権階級に独占されたが、これを細密化し、蒸留し独自の精神と美学を醸成した。しかし近代という地球規模の大きなうねりに飲み込まれる成り行きとなり、やむを得ざる選択として開国し、維新して明治という国家を急造した。明治という国は江戸人が作った。しかし、その不肖の息子たちは江戸人のリアリズムを体得できず、不合理に思考し、神佑を頼みとして国を誤り、20年近くに渡り踏み迷い続けて行き着くところを得ず、敗戦という形で決算した。これは帝国主義政策の列強が領土の肥大化とその結果としてもたらされた金融大恐慌を2度の大戦で清算しなければならなかった事情と同様である。ヤマトにあった古代における木の国は、中華という竹を接木し、その後欧米という鉄を接いで今日に至っている。したがって時々に古代人がその幻影を現すので、しばしば自我の不調和を自覚せざるを得ない。

 日本の近代スポーツは明治時代において当初はお雇い外国人のもたらした輸入文化の荷についたこぼれ種のようにして伝わってきた。またそれに続いて官が公的に輸入した。それまでの日本人は90数パーセントが農業を営み、基本的に大半の時間を戸外労働において過していたので日照受容時間も運動も足りていた。近代スポーツは日照量の不足するイギリス、北ヨーロッパの人々が発達させた。

 「冬の太陽は乳色にかすれて厚い雲におおわれたまま、狭い町の上にわずかにとぼしい光を投げていた。破風造りの家の立ち並んだ路地々々は、じめじめとして風が強く、時おり氷とも雪ともつかぬ柔らかい霰みたいなものが降ってきた」――高橋義孝訳。一部旧漢字をかなに改めた

 ドイツの文豪トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』の冒頭である。場所はリューベック。ハンブルグの近くに位置し、ドイツ北部と北欧三国が囲むバルト海に面した港町である。こうした天候が半年以上に渡って続く地方では夏季に戸外に出て1年分の日照量を確保することが生存の基本条件となる。それにともない19世紀、ドイツ体操、スェーデン体操、デンマーク体操などが考案され、日本でも明治期に移入、研究し学校体育で実行された。

 日本においてアメリカンフットボールは遅れてやってきたスポーツのひとつである。現在盛んな野球は明治初期、サッカーも中期に伝来している※。またラグビー、バスケットボール、バレーボールも明治後期に紹介され、大学、旧制高校、高等師範をいただく師範学校、神戸と横浜の外国人倶楽部、YMCAなどによって大正年間に各地へ伝播された。しかし昭和になっても一般にはサッカーもラグビーもなじみのないスポーツであった。その中にあって旧制高校はさまざまな競技大会を主催し旧制中学の生徒を招き啓発に努めた。あるいは新聞社が新聞普及のため各種のスポーツ大会を催した。戦前はこうしてスポーツの普及活動が細々として続いた。

※ #29 1920年 日本フットボールことはじめ1 参照   

 前回紹介したようにアメリカンフットボールはリーグ戦がはじまったのが1934年(昭和9年)であり、日系二世が大多数を占めている競技であった。昭和恐慌、大陸進出による世界からの孤立化という落ち着かぬ世相のもとでそうしたことを忘れさせてくれるもののひとつはスポーツだった。フットボールはその中にあって遅れて伝来したスポーツであった。そのためゲームは目新しさから主に首都圏、関西圏を中心に数千から万余の観衆を集めた。

 日本が最初にオリンピックに参加したのは1912年(大正元年)のスェーデンのストックホルム大会である。したがって次回、2012年のロンドン・オリンピックは初参加より100年目の大会となる。当時パリにあった国際オリンピック委員会の要請で嘉納治五郎は参加を決めた。委員会の求めに従って政府や既存の競技団体の承認を取ろうとして得られなかった。そのためこの初めて選手を派遣したオリンピックは自らが大日本体育協会を設立し参加を果たした。選手はマラソンの金栗四三、陸上短距離の三島弥彦の2名であった。嘉納治五郎は日本のスポーツの先達として明治、大正、昭和と3代に渡り、周囲からの理解を得られないもどかしさの中で努力を続けた。1938年(昭和13年)、嘉納はエジプトのカイロで開催された国際オリンピック委員会に出席する。すでに78歳になっていた。この総会においてオリンピックの東京開催が決まった。帰途、使命を果たし終えて安堵したかのように太平洋の船上で客死する。しかし、1940年に開催を予定されていた大会は戦局の悪化のため返上され、実現されることのない幻のオリンピックとなった。戦前、1926年(大正15年)日本におけるスポーツ振興の手段として水泳連盟の田畑政治が「オリンピック第一主義」を唱える。これは6年後、1932年(昭和7年)に開催されたロサンゼルス・オリンピックにおける日本水泳のめざましい活躍という成果を上げた。この戦前において唱えられたオリンピック第一主義は現在も根強く残り、その関心は依然として高い。一方国際オリンピック委員会におけるキャスティング・ボードを握っている欧米ではオリンピックは生活のいろどりのひとつと位置付けられている。

 現在、世界規模のスポーツ大会はこのオリンピックとサッカーのワールド・カップに代表されるヨーロッパ型と4大プロ・スポーツを中心とするアメリカ型のせめぎあいとなっている。日本は前者に組みしている。アメリカにおける4大スポーツ、フットボール、ベースボール、バスケットボール、アイスホッケーはそれぞれが事実上のワールド・チャンピオンシップなのだが、パスポート主義、つまり国籍に基づくチーム編成をするヨーロッパ型スポーツの支持者は、クラブに基礎を置き、国籍を問わないアメリカ型のスポーツを寛容しようとしない。

 ついでながら、日本においては大相撲以外に真のプロ・スポーツは成立しにくい環境にある。それは人口の少なさとシーズン・スポーツ制という考えがないこと、取り組む競技数が多すぎて人材が分散してしまうこと、言語の壁があることに起因している。また、チーム力の均衡化を計るという思考の欠如、本来の意味における地域マーケティングの考え方がないことも加えることができる。
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2009年07月23日

#38 NEBとU19

 タイトルの「NEBとU19」を見て、すぐに「ニュー・エラ・ボウル」と「アンダー・ナインティーン」、つまり、先日までアメリカで行われていた19歳以下を出場資格とするジュニア・ワールド・チャンピオンシップ、と理解された人はどのくらいおられるだろう。どの分野にも略号がある。最近ではiPS細胞などがよく知られている。文章は相互理解の上に成り立っている。このブログの対象読者はフットボールのファンであることを前提のひとつにしている。その方々の少なくとも95%以上に理解していただけるように書いているつもりだが、ときどき身内話になっていることにあとで気づくことがある。

 NEBに行くためにバスに乗った。2人掛けの席もかなり空いている。小学校3,4年と思われる子供が2人並んでいる前の席に座った。2人はナゾナゾを出し合っている。一人の子が「長くてつらいものはなぁんだ」と訊く。もう一人の子が、「人生」と応えた。それだけでも2人の顔を見たくなったのだが、その応えについての問題を出した子の返しがちょっとびっくりだった。「短くてもつらい人生があるよ」。

 NEBは観戦ではなく秋から始まる関西学生リーグでの新しい試みを行うための予習を手伝う予定になっていた。しかし、ゲーム開始後まもなく携帯が鳴って、予期せぬミーティングに加わることになった。昨今はどの分野でも大きな変化が起こっている。グーグルがパソコンの分野に参加し、無料のOS提供を始めたので、この分野におけるマイクロ・ソフト寡占の状態が崩れる可能性が出てきた。グーグルはネットブックなどの低価格パソコンがさらに普及し検索頻度が上がることを目的としているのでOSが無料であることはその戦略の1パーツにしか過ぎない。グーグルは書籍をデジタル化することで起きた裁判でもあっさり和解金として1億2500万ドルを支払うことを認めたり、これまでのビジネス世界であれば、企業の死活にかかわるような金額のことがらをいともあっさりとパスして行っている。マクロにものごとをとらえ、グーグルにとってはささいなことに頓着しないという方針が明快だ。このささいなという金額はグーグルにとってであって普通の企業にあてはまるものではないことはいうまでもない。日本企業でも欠陥商品で死者を出した巨大企業が信用を賭して数百億円の支出を認めたことがあった。マイクロ・ソフトの創始者、ビル・ゲイツは自社を超える存在が現れる時が来ることを予測し、また口にもしていた。別の角度から言えば、両社の創設者の出身校、ハーバードとスタンフォードの戦いに持ち込まれた。ただ、まだノロシが上がった段階で実際の商品が市場に出るのは来年半ばとのことなのでどういった影響がでるかはそのあとの話である。

 以前、企業30年説というものがあってどんなビジネス・モデルや発明も30年経てば機能しなくなると言われた時期があった。現状はこのサイクルがさらに早まった。変化しないものは衰退し舞台から去って行くのが現実だ。

 NEBもその前身であった平成ボウルのスタート時の内容から大きく変化している。開催回数が20回を数えたので試みとして行われた部分も歴史となった。開催場所もすでに何度か移った。対戦も最初のものとまったく異なったものになった。当初は単独チームにアメリカのプレーヤーが加わった。現在は関西学生リーグのディビジョン1から3までの全チームを2つに分け、そこから選抜した2チームを母体としてアメリカ人プレーヤーが加わっている。開催場所も替わった。今年の王子スタジアムはその収容力と観客数のバランスがうまくとれた。ゲームもビッグ・プレーが要所にあり、点数も拮抗し盛り上がったようだ。打ち合わせのために試合の大半を見ることができなかったが一週間後以降にCS放送が何回かあるのでミーティングにも集中できた。

 U19のWeb Cast、つまりネットによる動画送信を見る。JAPANの初戦、対ドイツ戦、準決勝のカナダ戦を見ることができた。オン・デマンドなので好きなときから見始めることができる。アクセスがかなりありそうなのだが動画が重くなってフリーズするようなことがない。動画送信にはEZ Streamというインフラを使用していた。Sky・AのKさんからESPNが制作すると聞いていたが、3,4位決定戦、優勝決定戦は違ったようだ。すくなくとも決勝はFOXだった。この2ゲームはストリーミングがなかった。JAPANとメキシコの3,4位決定戦と決勝はライブでと思って夜中に起きたが送信されておらず、この原稿を書いている時点でもまだ流されていない。放送からずっとあとに流すのか、あるいはこの2ゲームの動画送信はないのかも知れない。いずれにしても便利になった。JAPANとドイツ、カナダ戦は1台のカメラで撮っていたが向こうはカメラマンがフットボールに明るいのでほとんどプレーの撮り逃しがない。記憶では一度リバース・プレーにひっかかっていた。しかし、これもある種、カメラがどこまでフェイクにひっかからないか見ているのも面白かった。ロング・パスはさすがに画角の範囲の問題があるので完全について行くのは難しい。しかし、ミドル・パスまではほぼカバーしていた。アナウンスも楽しんでやっているから、そのリラックスした空気が伝わってきて良い雰囲気だった。

 1936年(昭和11年)に全日本の最初のアメリカ遠征が行われた。日本の国際的立場は1931年の満州事変から刻々と悪化し、特にアメリカと袂を分かつのは時間の問題になっていた。日本に留学していた日系二世の立場は微妙だった。前回書いたように全日本は日本人、安藤眉男(立教大学)を除いて全員が明治大学、早稲田大学の各7名を中核とする日系二世だった。一行は選手20名その他に、コーチが明治の武田道朗、役員は川島治雄と朝日新聞社記者で連盟の理事でもある加納克亮の計23名だった。シーズンが終った1936年12月3日に出発した。リーグ戦2年目よりシーズン制が守られ10月に始まって11月末には終了していたからである。その当時は通常であった14日間の航海ののち、アメリカ西海岸に到着した。翌年1937年1月3日、南カリフォルニア高校選抜チームと対戦、6−19の結果を残した。帰国の途はハワイを経由、その地でルーズベルト高校と対戦、0−0と引き分けた。そしておよそ50日後の1月21日に帰国した。アメリカの高校生すなわちU19なので今回のワールド・ジュニア・ワールド・チャンピオンシップのさきがけということもできるだろう。

 あとから振り返ってみればこれが遠征の最後のチャンスだった。帰国した1937年7月、盧溝橋事件が起きた。新聞、雑誌の軍国主義の色がさらに鮮明になり日本の国際社会における孤立化が加速して行った。

 NFLは普及のためのさまざまな試みをトライアル・エラーしつつ行っている。まず、やってみて良い意味での君子豹変を繰り返す。NFLのファームとしての位置づけで、1991年にワールド・リーグをアメリカ、カナダ、ヨーロッパにまたがってスタート。それを引き継ぐかたちでNFLヨーロッパになり、スーパー・ボウルMVPになったカート・ワーナーを代表とするNFLでも活躍するプレーヤーを生み出した。しかし、コスト・パフォーマンスの点から2008年廃止。ジュニア・ワールド・チャンピオンシップの以前にも同じ趣旨の大会があった。今回のアメリカチームはかなり強化され、カレッジの1部リーグ・チームに進学するプレーヤーが36人含まれているということである。ゲーム・スタッツを見れば、攻撃獲得ヤードが408ヤード対49ヤード、カナダのラッシング・ヤードはマイナス8ヤード、従って大会前にシード順位が第1位であったカナダに41−3と快勝したのも当然と言えるだろう。
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2009年07月03日

#37 日本アメリカンフットボール創始75周年の記念ゲーム

 下記の写真の人は関東学生アメリカンフットボール連盟の前川誠さんである。もう知り合って20年ほどになる。かなり以前、関西のある会社が関東大学リーグのスポンサーになっていた。日本のバブルまっただ中のころである。3年契約で、そのときの学生連盟の窓口の一人が前川さんだった。勤め人だったが、フットボール発展のためにサラリーマンをやめて、学連の事務局長の道を選んだ。

前川さんとレジェンド・ゲームのパンフレット
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 前川さんの表現を借りると、理事の人々から「また、前川は分からんことをやっている」といわれながら着実にインフラ整備や広報活動を続けてきた。関東学生のホーム・フィールドになっているアミノバイタル建設やさまざまな集客企画が考え出された。何か新しいことをするたびにそのひとなつっこい笑顔でこんなことをしたんですよ、という。今回、日本初のリーグ戦のセイル・アウト・チームによる75周年のレジェンド・ゲームも前川さんが企画した。

 全明治対全早稲田。

 6月13日、土曜日。ゲーム前、明治大学の野崎監督もにこにこされていた。昨年の12月、明治のコーチをされている秋山篤弘さんのご紹介でインタビューをさせていただいた。年齢は76歳になられているが現役監督として再び強力なチームをつくられた。今春、ファイターズも7−12と定期戦で敗れた。有名なペン・ステイツ大学のジョー・パターノのように学生に精神的感化を与えるタイプの監督になっておられる。パターノは弁護士になるかフットボールのコーチになるかの選択でコーチを選んだ。通称ジョーパーの影響力はペンシルバニア州に行けば大統領よりも大きいかも知れない。学生が相手チームを口汚くののしったり、スポーツマンらしくない振る舞いをするとパターノは容赦なく激しく叱る。そのシーンはテレビ放映されるのでよく知られている。確か今年83歳だ。野崎監督は長く勝ち負けの世界におられ星霜を経た厳格な表情だが、パターノとは反対にほとんど感情を露わにされない。試合後のハドルは気迫がこもっているが緊張感のある静謐が支配している。

 ついでながらシカゴ大学でヘッド・コーチ生活の大半を送ったエイモス・アロンゾ・スタッグは71年間現役のコーチ生活を続け、98歳で引退した。コーチのコーチとして尊敬を受け103歳で天寿を全うした。次に述べる日本で最初にフットボールを紹介した岡部平太の先生でもあった。

 実施された当時日本で最初と言われたゲームがいくつかある。
 
 1920年 おそらく秋。東京高等師範学校附属中学が学年対抗で行ったゲーム。岡部平太が米国から帰国後、付属中学で手ほどきした。その参加者であった牧野正巳氏の手記が東京高等師範学校付属中学校創立70周年の記念誌(1958年刊)に載っている。牧野氏は日本で初のTDパス・レシーブをした。
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 文中、岡部の米国からの帰国が「大正八年」と記述されているが、牧野氏の感違いで1920年(大正9年)である。

 1927年4月30日。於:成蹊学園グランド。
 東京高等師範学校ラグビー部の紅白戦
 東京高等師範学校ラグビー部は大正天皇の崩御に伴い予定されていた試合が中止になったため、喪が明けるまでの期間、ラグビー研究のため半年間と期限を区切ってアメリカンフットボールも研究することとした。それからも察せられるように、まだこの時代、両競技間に現在ほどの大きな差異が生じていなかった。

 「アメリカンフットボール」というタイトルの日本で最初のアメリカンフットボールについての本である。1927年6月に出版され、練習の仕方、ルールなどが記されている。この写真は復刻版。オリジナルのものは経年のため装丁がひどく痛んでいる。本の元の所有者は関西大学アメリカンフットボールの創部者、松葉徳三郎である。
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 その前書き。傍線部分に日本最初の試合と記されている。筆者の安川伊三はこのゲーム実施の実質的リーダーを務め、同時に先述の本「アメリカンフットボール」翻訳編集の中心的役割を果たした。高等師範学校の助教授として現在のタッチフットボールに似た旧制中学生向けの簡易ゲームを考案しフットボールの普及に努めたが30代前半を迎えたところで夭逝した。
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 基本練習の写真。右の選手に抱えられたボールは現在のものと異なりほぼ球体に近い。
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 1933年12月25日。於立教大学グランド。
 明治大学のΣNK(シグマ・ヌ・カッパ)というチームと東京在住の日系二世で編成されたチームとのゲーム。これは新聞各紙に前触れ記事が掲載され、翌日はスコアだけでなく文章を伴った記事が載った。狽mKはギリシヤ語で「団結と勝利」という意味が込められていると思われるが、現存される方がすでにおられないため未確認である。

 クラブ旗に「狽mK」という文字が見える。前列左端がこの写真の保有者であった加藤二朗氏。2列目左から2番目が松本瀧蔵教授。
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 ゲーム前日12/25付け 読売新聞 東京版
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 ゲーム翌日、12/26付け 読売新聞 東京版
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 大学対抗の最初のゲームは、1934年(昭和9年)4月に行われた。場所は当時、明治大学グランドがあった代田橋である。そののち現在の八幡山に移る。結果は0ー0の引き分けだった。

 明治大学、代田橋グランドでの記念写真。Daidabashiと1934という手書き文字が読める。
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 75年目に邂逅したレジェンド・ゲームは31−7で、全明治の勝利に終わった。

 ソーシアル・ハウスというアメリカから日本に留学していた日系二世が起居をともにする寄宿舎のような施設が戦前、東京にあった。ひとつの大学に偏らずいろいろな大学の学生たちが同じ屋根の下に暮らしていた。本願寺派のブッディストが営む互助組織だった。この組織のネットワークはハワイ、アメリカのメイン・ランドの東西海岸にもあり移民の手助けを行っていた。※ここに在住していた明治の学生たちがチームを始めた。そのまとめ役に当たったのが明治大学教授の松本瀧蔵だった。
 ※#24 科学的武士道―日本大学のフットボール4 参照

 言葉の不自由さから鬱屈していた日系人学生たちを活気づけるためアメリカ留学の中で同じ体験をした松本瀧蔵が彼らをフットボールで元気にしようとした。松本はアメリカの高校でスポーツにも秀でた文武両道の超優秀な成績を収めた。大学はハーバードを卒業した。この学生生活の中でフットボールも経験している。戦後は出身地の広島選出の衆議院議員となる。松本の寄付で日本アメリカンフットボールの殿堂のある清里にキャンピング施設が作られその名前が冠されている。1933年12月25日、クリスマスの日のゲームのレフリーは松本だった。

 松本は日本フットボールの父とされている立教大学のポール・ラッシュ博士に働きかけ、立教大学にもチームができた。ポール・ラッシュは明治大学の二世たちを愛し、Meiji Boyと親しみを込めて呼んだ。1934年、リーグ戦が行なわれた時、明治の16人のメンバーは全員が日系アメリカ人だったのでクラブでの共通言語はスラングに満ちあふれた英語だった。創部3年目、明治に入学しフットボール部に入部した数少ない日本人、竹下正晃の言によれば上品でない英語はとても上手になったとのことである。そのとき日本人は竹下を含め2名のみだった。竹下は後に明治大学のコーチになり、1964年、日本協会30周年事業として行われた全日本チームのハワイ遠征を、先輩であった日系の人たちの手助けを借りて実現し、総監督としてチームを率いた。全日本は東西リーグで優勝していた日本大学、関西学院大学、のコンバインド・チームでその他の大学からも2名が参加した。遠征は12月9日より21日まで行われた。それにともない例年は12月に行われる甲子園ボウルがこの年度のみ翌1965年の1月15日に実施という変則的な日程になった。

 全日本を迎え入れた明治ボーイたち自身も1936年、全日本選抜の主力としてアメリカ遠征に加わった。この年、同率でリーグ優勝した明治、早稲田を中心としてチームが編成された。ほぼ全員に近くが日系二世で、日本人で唯一このメンバーに加わったのが立教のガード、安藤眉男だった。安藤は大学卒業後早世し、人々は惜しんでその名を安藤杯というトロフィーに残した。安藤杯は関東大学リーグのシーズン最優秀選手に贈られる賞である。

 ポール・ラッシュは組織力と企画性にたけていたので立教大学チームを加え、明治、早稲田、立教の3大学で初のリーグが創設された。リーグ戦は先にも述べたように1934年12月に行なわれた。そのオープニング・セレモニーとして11月29日、木曜、アメリカでは感謝祭に当たる日に行われたエキジビション・ゲームが日本最初のゲームとして現在では定着し、ここを起点として周年は数えられている。全日本と対戦したのは横浜の外国人倶楽部のメンバーだった。平均年齢は30歳を越えており、アメリカン・フットボール経験の少ないヨーロッパ系のメンバーで構成されていたため、若さと経験に勝る学生選抜の日本チームは26−0と快勝した。こうしたマッチングにもポール・ラッシュがきめ細かな配慮を行った結果だった。全日本チーム25名の内、12名は明治大学から選出された。その顔ぶれの大半を狽mKのメンバーが占めたのは自然のなりゆきと言えた。なお、日本アメリカンフットボール協会が1984年に50周年の記念誌として発行した『限りなき前進 日本アメリカンフットボール50年史』中に26名という回顧譚があるが、語られた方の記憶違いで当時のメンバー表は25名が記載されている。
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2009年06月23日

#36 U19

 sky・AのKさんと相談ごとがあって上ケ原に出かけた。KさんがU19の合宿取材に行くと言う。その場所が上ケ原、つまり関西学院のフットボール・フィールドである。ちょうどU19の合宿初日の練習日に当たっていたのでそれも見せてもらうことにした。関西学院のフィールドは第3フィールドと呼ばれていて、今年は19日に関々戦が行われる。スタンドが以前よりさらに整備されていて有料ゲームが十分に開催できる。ここ最近は高校のフィールドも人工芝が貼られ、その普及は年々早まっている。日本の人工芝メーカーも確か5,6社あるはずだ。サッカーのワールド・カップ、ヨーロッパ予選も人工芝を認めるようになった。また、NFL、マイアミ・ドルフィンズの天才QBダン・マリーノが自然芝上のなんの障害も考えられない条件下でアキレス腱を切ったりしたから自然芝信仰もトーン・ダウンしてきている。特に日本ではフットボールは1日に数試合するのでメンテナンスの面から言って人工芝が合理的である。

 ワールド・カップがきっかけになって神戸にウイング・スタジアムが建設された。しかしワールド・カップ終了後自然芝が根付かず、関学・京大戦、社会人のジャパンXボウルが招聘されたが、苔の上でプレーするがごとくずるずると滑って、とても危険だった。長いクリーツ、いわばフットボール用の太いスパイクのようなものでも対応できなかった。

 爽やかな風が渡ってゆくスタンド中段でU19の練習の始まるのを待っていると、「こんにちわ、」と上の方から声をかけられた。見れば関西大学の板井ヘッドコーチだった。先日、甲子園ボウルを盛り上げる会の二次会で名刺を交換した。一緒にマスコミ志望の女子マネージャーを同行してきていた。彼女の質問に応えていたら2次会は終わってしまった。参加者のある人の奥さんが別のところで飲んでいるのでそれと合流することになった。板井HCとはそこで隣り合わせになり、いろいろなことを話して意気投合した。企業にあって日々、煩悩で磨耗している人間からは失せてしまう武道家の趣があり、「サムライ」と言う印象を受けた。板井HCとは1993年の関学・京大戦が終わったあと、ある場所で隣り合わせになった。敗軍のキャプテンであったので声をかけなかった。ぼくはその前の年から、関西テレビで始まったフットボールのプログラム「KTVタッチダウン」のプロデューサー兼制作アドバイザーをしていた。したがって関西学生リーグの全ゲームに立ち会っていたからそうした場面に行きあうことになった。

 選手たちが現れ始めたころU19の監督になった大阪産業大学付属高校の山嵜先生もやってきて挨拶を交わした。もう、20数年来の旧知である。産大高校は周りからは恵まれた環境のように思われているがそれはあらかじめ用意されていたものではなく、山嵜先生が一から手作りで営々と築き上げてきた長期間に渡る地道で孤独な事業である。生徒の指導に優れており、選手の良い部分、またそのときどきの選手の調子を見極める力は天才的である。特に昨年のクリスマス・ボウル、リードされた産大高校の最終クォーター残り1分からの連続スィープ・プレーによる逆転劇は圧巻だった。一緒に見ていた関西の高校フットボールの指導者の方々からその力強い気迫にあふれたプレー選択に感嘆の声が続いて上がった。NFL、カレッジ、国内のゲーム、すべてのフットボール観戦の中でもあのシリーズは印象度ナンバー・ワンだった。

 アメリカ遠征でも山嵜先生が素晴らしい結果をもたらされることを祈っている。開催場所がNFLのホール・オブ・フェイムがあるキャントンなので遠征に同行したかったのだが、仕事のため、いかんともしがたい。一度訪ずれたことがあるが何度でも行きたい場所のひとつだ。従軍記者になるsky・AのKさんによればJAPANが順位決定戦まで進めばESPNの素材を買い、ノーカットで放送されるというから、初戦のドイツ戦の必勝を願っている。

 第3フィールドと練習開始
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2009年06月12日

#35 ホッと、一息

 ここ2ヶ月ばかり、仕事が立て込んでいた。従って、ブログもご無沙汰していた。

 ホッと一息の時間ができたのでうちの奥さんをさそってピクニックに草津まででかけた。

 今年の春の立命を見ていない。
 立命のホーム・ページを見ると5月31日は早稲田戦になっていた。奥さんにはそれは伏せて立命の草津キャンパスはとてもキレイだから見に行こうとだけ言っておいた。

 天気は良し、風はさわやかである。
 南草津の駅前から日曜でもバスは1時間に何本も出ている。学生さんには便利だろう。

 バスがキャンパスに着いてクインス・スタジアムに行ったが、ちいさな子供たちが遊んでいるばかりでゲームの気配がない。散歩しているとフットボール部員募集の立看板があった。電話番号が書いてあるのでかけてみた。

 グリーン・フィールドという正門を出てからおおよそ7分くらいのところでゲームがあるという。キック・オフまでに時間があったのでキャンパスを散策した。とてもスケールが大きく綺麗である。漢字で書かず、「キレイ」と書くとそのほとんどのものがこぼれ落ちてしまう。アメリカ・サイズである。

 街路樹を見て奥さんが「あっ、ゆりの木」と言った。彼女のお気に入りの樹で、自分の工房を「アトリエゆりの木」と名付けている。成長すると60mほどの大木になると教えてくれた。工房の看板をかかげているが、実績は昨年、手作りのゆすら梅のジャムを作ったにとどまっている。ジャムは瓶に詰めて、ぼくが実の写真を撮りラベル・デザインした。ラッピングは彼女の得意で、3瓶作った。このジャムをバニラ・アイスクリームにかけるととても美味しかった。子供たち家族にもおすそわけした。母が苗木から育てて3年目に初めて実をつけた。しかし、今年は収穫の前にひとつ残らず小鳥たちの豪華なる晩餐になってしまったので母はとても残念がっていた。

 1Qが始まった時にグリーン・フィールドにたどり着いた。早稲田とは違う色のジャージのチームが相手だった。我が社会人フットボールのチームだった。立命はセカンド・ストリングのQBだった。エンジンがかからない。その後に、松田大司(ひろし)君が出るとターボ・エンジンにチャージしたようにオフェンスの回転数が上がってすぐに点を取った。彼が関西大倉高校に在学中、松田君のお父さんと我が町のフットボーラーの集まるスナックでご一緒してお話をしたことがある。

 グリーン・フィールドは人工芝で、夜間照明がついており、それが2面もあった。クラブハウスも大きい。

 ミシガン大学ののちに高名なヘッドコーチになる、ボー・シェンベックラーがフットボール部に赴任してきたとき、服のハンガー掛けがコーチ室になかったので訊いたら、壁に打ち込んだ釘を指さされた、と自伝に書いていたことを思い出した。パンサーズのロッカールームにはとても立派なハンガー掛けがあるであろうことは外観から容易に想像がついた。

 風は爽やかだが日差しはきつい。奥さんには長くフットボール・ウィドウをさせてきているので長居は禁物である。ゲームの趨勢は1Qですでに見えたので早々に切り上げ、梅田まで出て少し早いめの夕食に行った。うまい中華の店に連れて行く。いつも通りの味で彼女は大満足である。心理学の系列効果が働いて、最後の料理がおいしかったので一日すべてが素晴らしかったと錯覚し、フットボールも楽しかったことの仲間に入れてもらった。

 まずは、めでたし、めでたしの一日が終わった。

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2009年03月29日

#34 彼らの生き方―第43回スーパー・ボウルA ファースト・ハーフ

 今年のスーパー・ボウルからもうすでに2ヶ月近くが過ぎた。過去のスーパー・ボウルも含め今回の第43回のことについて書きたいと思う。

2月2日(月) 第43回スーパー・ボウル当日
馬を馴らすトロイア人と、青銅の帷子(かたびら)を着たアカイア勢※
ホメロス『イーリアス』 高津春繁・呉茂一訳
※アカイア勢はギリシア人のこと

 #32の最初の方に書いたように今年のスーパー・ボウルを見ていてホメロスの『イーリアス』を連想した。トレント・ディルファーも言ったようにスーパー・ボウルは叙事詩だと思う。

<Sleep Well>
 プレス・カンファレンスでピッツバーグのウィリー・パーカーが、ゲーム前日の夜はどうしますか、と聞かれて“Read the bible, go to my play book, sleep well”と応えていた。

<ウォルター・ペイトン・マン・オブ・ザ・イヤー>
 プレ・ゲーム・ショーの時間帯にウォルター・ペイトン・マン・オブ・ザ・イヤーの表彰があった。1970年より設けられた賞で1999年からウォルター・ペイトンの名が冠された。
 ウォルター・ペイトンのファンだった。その独特のステップ・ワークは誰も真似ができなかった。そしてまだ誰もできていない。まるでダンスように自在な足さばきはマイケル・ジャクソンをスケール・アップしたらウォルター・ペイトンになると言われた。エミット・スミスが破るまでキャリア通算のラッシング・ヤード記録を持っていた。その記録はベーブ・ルースのホームラン記録のように破られたのちも偉大なマイル・ストーンであることに変わりはない。ペイトンの属していたシカゴ・ベアーズは彼の時代、勝ち運に恵まれなかった。だが、選手としての最晩年にスーパー・ボウル出場を果たす。このときペイトンは長年脚を酷使してきたため膝を曲げられないほどの状態だった。しかし、それまでの努力は報われた。1985年シーズンのベアーズは最強で、ペイトンはスーパー・ボウル・リングを手にすることができた。
 ペイトンはオフの方が厳しいトレーニングをしていた。丘を背にした土地に自宅を建て、毎日丘陵を上り下りして身体を鍛えた。オリンピックのマラソンで2連覇したアベベ・ビキラのように走り尽くし40代でその生涯を終えた。
 賞の選考基準はボランティア、慈善活動で、社会貢献したNFLプレーヤーである。今年は出場したカージナルスのQBカート・ワーナーが受賞した。ワーナーと結婚したとき奥さんはすでに障害児をもっていた。ワーナーは障害者の支援を続けており、20000年、ラムズをスーパーに導いた時、ボーナスとして数千万円をもらった。それは障害児の団体に寄付された。

<America the Beautiful>
 サンデー・ナイト・フットボールのオープニングで飾っているカントリー・シンガーのフェイス・ヒルが”America the Beautiful”を歌う。アメリカがカントリー・ソングの国だと思わせられたのは、初めて渡米した80年代半ばのことだった。レコード・ショップという呼び方がまだ健在だった頃である。ショップに行くと圧倒的な売場スペースをカントリーが占めていた。おなじみのポップスやジャズは稀少動物のように隅っこに追いやられていて、捜さないと見あたらないという状態だった。
 1980年代の後半、レコード店にはカッレジ・フットボールのチケットの自販機があった。いとこが連れてくれたUSCのゲーム・チケットはそこで手に入れた。また、ロサンゼルスのオリンピック・コロシアムのかたわらの侘しい一角にマーレーという日本でいえば金券ショップがあり、東海岸で行われるアイビー・リーグのフットボールのチケットも販売していた。スーパー・ボウルのチケットも買うことができる、といとこに聞かされてなんとも羨ましく思ったことを覚えている。

<ハドソン川の奇跡>
 オープニング・セレモニーに先日のハドソン川の奇跡のクルーも参加していた。チェスリー・サレンバーガー、USエアウェイズ1549便の機長の手記から。

「ようやく病院を後にしてホテルにたどり着いたとき、私の望みはいたってささやかなものだった。持ち物をすべて失い、これまでの人生で最も過酷な3分間を経験したばかり。私がそのとき本当に望んでいたのは、家族の声を聞くこと、そして乾いた靴下にはき替えることだけだった」

「5人の乗員全員でなく機長である私一人をたたえる傾向に私は異を唱えてきたが、社会の見方を変えることには必ずしも成功していないようだ」

 奥さんのローリーさんがCBSの番組『60ミニッツ』で言ったことを引用して。

「英雄とは人命救助のために炎が燃え盛るビルの中に飛び込む決意をするような人のこと。私の場合は違う。事態が私たちの上に降りかかってきたのだ」

「こどものころ父を通して学んだのは、司令官たるもの、指揮下のすべての人間の命に責任をもたなくてはならないということだった。予測を誤ったり判断をまちがったりして誰かにけがをさせるのは、司令官として許しがたい大罪だ」

「乗客の惜しみない励ましを別にすれば、いちばん感動したのは同業者の言葉だった。航空産業の不景気が続き、パイロットという職業に昔ほど敬意を払われなくなって、仕事に誇りを感じられずにいたと彼らは言った。だが私たちのおかげで今は仕事に誇りを感じていると、感謝の言葉を述べてくれた。失われた尊厳の一部を取り戻せたと感じたという」

「私たち家族は今回脚光を浴びたことで人間として変わらないようにしようと自分たちに強く言い聞かせている。そのためには学ぶべきことがたくさんある」
(Newsweek日本版 2/25/2009号より)

<ナショナル・アンサム>
 ナショナル・アンサムはジェニファ・ハドソンだった。いつもスーパー・ボウルの大きな見せ場だ。1991年は湾岸戦争のさなかでテロの予告があった。タンパのスタジアムにはコンクリートのバリケードが築かれているという報道映像があった。バリケードは高く刑務所の壁のように見えた。しかし現地に行ってみると、見たのは仰角で撮り大きく見せた映像だったことが分かった。
 戦争は1月に始まり、緊迫した雰囲気の中、ホイットニー・ヒューストンの熱唱は胸を打ち、スタジアムの中のアメリカの人たちの多くが涙を流していた。一体感に包まれ、これまでで一番インパクトのあった国歌斉唱だった。このホイットニーの絶唱はその後CDになって発売された。

<カンファレンスの勝敗と経済>
 かつてNFCが勝つと景気がよくなり、AFCが勝つと景気が悪くなるというジンクスがあった。ジンクスを思い出してこれまでの戦績を見直してみた。これが当てはまったのは1970年代から1980年代初頭までであったように思う。NFCが連覇を続けていた1981年シーズンから1996年シーズンはNFCストリークと呼ばれ、AFCは永遠に勝てないように思えた。この間、AFCチームが勝ったのは1983年シーズンのオークランド・レイダーズのみである。1980年代、アメリカは双子の赤字に悩まされており、NFCが勝利しても基本的に景気が良くなったとは言えなかったと思う。レーガノミックスの効果が現れ財政収支が黒字転換するのは1998年である。AFCが長いトンネルを抜け出し、勝利するには1997年シーズン、ジョン・エルウェーが活躍したデンバー・ブロンコスを待たねばならない。
 これまでの4半世紀、例えばデプレッションのあった年はどうであったか。上段は景気暴落の年、下段はその年のスーパー・ボウルの戦績である。チーム名の左がNFC、右がAFCである。

1987年 10月19日 ブラック・マンデー 
1月25日 NYG 39-20 DEN

1991年 湾岸戦争、年初にニューヨーク・ダウが大幅下落、2月 日本でバブル崩壊
1月27日 NYG 20-19 BUF

2000年 春 ITバブル崩壊
1月30日 SLR 23-16 TEN

2001年 9.11事件後の株価暴落、12月2日 エンロン破綻
1月28日 NYG 7-34 BOL

2008年 9月15日 サブプライム問題 リーマンショック
2月3日 NYG 17-14 NE

NYG:ニューヨーク・ジャイアンツ 
DEN:デンバー・ブロンコス    
BUF:バッファロー・ビルズ    
SLR:セントルイス・ラムズ    
TEN:テネシー・タイタンズ    
BOL:ボルチモア・コルツ     
NE :ニューイングランド・ペイトリオッツ       

 またタンパで開催されるスーパー・ボウルは1991年は湾岸戦争、今年はサブプライム問題と波乱が重なっている。
 ニューヨーク・ジャイアンツ・ファンには気の毒だがジャイアンツがスーパー・ボウルに出場する年とデプレッションが奇妙に一致する。

<Wedge>
 エア・フォースの戦闘機がナショナル・アンサムの終わりと同時にスタジアム上空に来る。今年は数秒遅れた。戦闘機のフォーメーションを見ていて非常に古い体型であるWedgeではないかと思った。比較のために戦闘機の写真と、Wedgeのダイヤグラム、Wedgeの実写を掲げるのでご判断いただきたい。もしかしたらドームをのぞくオープン・エアの会場では毎年こうした趣向があったのかも知れない。

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では、ハーフ・タイムへ。
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2009年03月11日

#33 鳥内のおっちゃんインタビュー

 先週6日、朝日新聞夕刊の惜別欄に鳥内のおっちゃんのことが載った。ファイターズの後輩の榊原一生記者が書かれた追悼文である。今回は第43回スーパー・ボウルの原稿を用意していたが、予定変更して昨夏おっちゃんをインタビューした時のことを書きたい。
 お会いしたときはすでに体調を崩しておられたが、普通の人の倍くらいのエネルギーを感じさせられた。プレーヤーとして現役の頃は常人の10倍ほどのパワーがあったのではと思った。質問をするとおっちゃんの記憶は鮮明で次々に話が展開していった。ファイターズが和歌山で関大とゲームを行ったことがあった。1948年(昭和23年)5月9日のことである。これまで和歌山のどこかの学校ということで場所が特定できていなかった。おっちゃんはそれは田辺高校のグランドやった、と明快に答えた。あの日は暑かったな、ということも記憶に残っていた。さらにグランドでは先に野球の練習をしていたのでキック・オフが遅れたともつけ加えた。硬派で武骨のイメージの強い人だったが、家の本棚にはマルクス全集が並んでいると聞いたことがある。受け答えはぶっきらぼうに見えて心遣いがあった。

 大阪の旧制生野中学出身で関学は専門部から高商に進学。生野中学では柔道をしていた。しかし当時は連合軍の占領下にあったため武道が禁止されていたのでレスリングに取り組んだ。練習はコンクリートの上、という時代であったらしい。ファイターズには1946年(昭和21年)入部。同級生に何人かのフットボール部員がおり、浜寺のほうに住んでいた百々(どど)さんというマネージャーから勧誘を受けた。入部した翌日はいきなり関大との試合だった。フィールドへ下駄をはいて行った。ボールを持っている奴を捕まえろと教えられ、元帥というあだ名のついた杉山という選手をタックルした。この年、リーグ戦で同志社と引き分け、両校優勝となり順位決定のため再試合が行われたがこの試合も引き分けという大接戦になった。12月7日、2度目の再試合で、2−7と惜敗。結果論だがこの試合に勝った同志社は翌年4月の第1回甲子園ボウルに出場しているのでファイターズにとって大きな敗戦だった。その後、一週間もたたない12日に対関大定期戦が組まれていたが、趣旨がうまく伝わっていなかったようで、一同士気が低く大敗。このようにしておっちゃんの最初のシーズンは終わった。

 4年生になった1949年は前年に旧制中学でタッチフットボールを経験した多くの有望新人を加え、秋のリーグ戦前の新聞評では優勝候補に挙げられていた。優勝を賭けた戦いとなった京大戦はのちの関京戦の原型となる緊迫した展開となった。前半リードされハーフタイムにおっちゃんから、「お前ら負けるおもたらあかんぞ」という檄が飛び、チームがよみがえったことは榊原さんも書かれた通りである。
 京大には陸軍士官学校、海軍士官学校出身の高度な肉体、精神のトレーニングを積んだ筋金入りのメンバーがいた。このとき京大チームの中心にいた神田綽夫氏の烈々たる闘志はその後も継承される京大の関学に対するライバルリーの萌芽となった。おっちゃんのトイメンには稲波昭三という巨漢のタックルがいて対等の戦いになった。稲波氏の子息は1970年代半ば、関京2強時代の幕開けの時期に京大のセンターとして活躍した。親子2代のフットボーラーのさきがけかも知れない。

 この年1949年、第4回甲子園ボウルは慶応大学との対戦となった。おっちゃんは常に相手のラインを圧倒し、その前には人がいないも同然の働きをみせた。たまらず慶応大学のメンバーが口パンを飛ばした。言い返したことばに「あほんだら」という単語が含まれていたが当時はまだこの上品な関西弁は東京までおよんでいなかったらしく意味が通じなかった。慶応ボーイたちは東京弁で「やっちゃえ、やっちゃえ」と言っていたそうである。
 ゲームはおっちゃんの活躍などがありファイターズは初出場で甲子園を制した。こうしてその後甲子園ボウルに連続出場するスタートが切られた。
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2009年03月03日

#32 彼らの生き方―第43回スーパー・ボウル 1

 歴史へはバック・ペダルで入っていかねばならない
 ポール・ヴァレリー

 1月、ライス・ボウルが終ってからNFLのプレー・オフを見ることに集中していた。スーパー・ボウルが終るまでの約一ヶ月間、仕事が立て込んだこともあり、ブログからしばらく離れていた。小学生が夏休みの終わりに絵日記をまとめて書くようにその間のこと、その後のことを綴った。「日々片々」、「スーパー・ボウルのこと」に、「フットボールの思い出」、「NFL前史からその繁栄の時を迎えるまでの略史」、を加えた。2ヶ月近くに渡りかなり長くなったので上記の4つの部分に分けて掲載の予定である。日々片々の今回は日記のかたちで書いた。スーパー・ボウルの翌日、2月3日から2月末までをカバーしている。加えて100年に一度と形容される世界同時不況、経済危機下にあるので、フットボールとは直接関係ない見聞も記した。この記事を書いていたときはどんな社会的背景であったかということを残しておくのも悪くないと思ったからである。

 今回のスーパー・ボウルを見ていてホメロスの『イーリアス』を連想した。試合後、ESPNの「スポーツ・センター」で解説のトレント・ディルファーが「スーパー・ボウル」を一言で表したらという質問に、
“EPIC”(叙事詩)と応えていた。同感である。

「日々片々」
2月3日〜28日

2月28日(土)
 日本アメリカンフットボール協会主催の第1回コンベンションが開かれた。
 これまで日本のアメリカンフットボールの関係者が一同に会する機会はなかった。良い試みだと思う。「現状と未来」をテーマに安全性の確保などの講演があった。

 ジェリー・ライスの自伝が届いた。NFL博士のOさんのアドバイス通り、40ヤード・ダッシュの数値が載っていた。4.6秒。ライスによるとNFLのスカウトはワイド・レシーバーに4.3あるいは4.4秒を求めると書いてあった。※

 ※2月7日の項参照

2月27日(金)
 雨、これで今週はウィークデーの5日の内、4日間が雨になった。通勤で乗っていた電車が他の電車の車両故障による全線マヒの影響を受け、のろのろ運転になり大幅に遅れた。事情を告げる車内アナウンスがあった。車掌さんが「気分の悪い方はおられませんか」と問いかけ、席の譲り合いをお願いしますと付け加えた。酸素が減り淀みかけていた車内に新鮮な空気が流れ込んだような気分になった。梅田駅へ着いたあと延着証明を配っている駅員の方に聞いたらマニュアルにない機転だと分かった。阪急電車、豊中駅を8時36分に発車した普通電車でのできごとである。

 フットボールでもアサイメントの部分の次のフェイズ、個人の判断に委ねられる段階に入ったとき、個々がどう動けるかがそのチームの強さを計る尺度のひとつになる。このマニュアル化されない自己判断に委ねられる領域はセンスあるいは教養と呼ばれるものでカバーするしかない。

 会社を立ち上げ書籍販売のみを行っていた頃のAmazon。ある老教授が何十ヶ所もある講演先に自著を届けてもてもらおうと思い、パソコンで入力しようとしたがうまく行かない。困って電話をした。出てきたAmazonの社員はサービス・マニュアルにはなかったが、教授にFAXを送ってもらい、彼あるいは彼女が自分で入力処理を行った。教授はこの親切なサービスを講演の行く先々で話したということである。

2月26日(木)
 アメリカ金融機関の資本査定が始まる。追加融資が4兆ドル必要という予測もある。住宅関連の不良債権が5兆ドルほどと見積もられているのでそうかもしれない。いずれにしても現在用意されている8000億ドルでは足りそうもない。あと一息で日本の年間GDPに迫るような金額だ。アメリカはサブプライム・ローンでこうむった損失を公的資金という自己資金で補填せざるを得ない。古代ギリシアなどにあった象徴、自分のシッポを飲み込む蛇、ウロボロスの図を思わせる。バブルというとよく引き合いに出されるのは17世紀、オランダのチューリップ・バブルである。これが世界初のバブルとされている。チューリップの球根が投機熱の対象となり、1個が家1軒と同額で取引されるまでに高騰し、ある日突然なんの前触れもなくこのバブルは、はじけてしまった。1602年、オランダに東インド会社という世界で最初の株式会社が設立されてから35年後の1637年のできごとである。アメリカはイギリスからの独立を果たしたころから何度も土地バブルを繰り返している。1929年の大恐慌も1925年に発生したフロリダでの土地バブルを精算できないままに迎えた大破局だった。フロリダでは人も住めない沼沢地までが投機の対象となり、人々は一攫千金を夢見て土地を見ることもなく買い込んだ。大恐慌後ニューディール政策などが実施されたが真の復活をはたさず、結果として第2次世界大戦によって精算せざるを得なかったのではないだろうか。何かを30%の人が行なうと、群集心理はみんながしていると勘違いを起こさせるらしい。大恐慌の時の失業率はピークの1933年に25%だった。日本における携帯電話の普及も30%に達してから雪崩現象が起こった。

 以前仕事を一緒にしていた関連会社の人が転職し、一段落したのでと連絡して来て、昼でもということになった。この人とは仕事の相性がよく企画の決定率が70%以上の高率だった。広告の仕事は作家・村松友視さんがつとに言ったようにラクダが針の穴を抜けるような確率だ。それは広告が独立変数ではないことに起因している。したがって非常な高打率といえた。それはこの人の予見力によるところが大きかった。思慮深い判断力が高い確立をもたらしたと思う。ともに仕事をする機会はなくなったが戦友としての気分が残った。

 ウィル・スミスの『7つの贈り物』を観る。ウィル・スミスのように地歩を築いていると脚本を選べるだろうし、自分でテーマを見つけると思う。このところどんどん思索を深化させているようだ。『贈り物』となっている部分は原題では“pounds”となっている。辞書を引いても適切な訳がみつからない。普段バイブルに親しんでおられるクリスチャンの方には自明のことかも知れない。
 映画は俳優、あるいは監督によって観ている。クリント・イーストウッド、ロバート・デ・ニーロ、トム・ハンクス、ダニエル・デイ=ルイス、メリル・ストリープ、ロバート・アルトマン、ジャン・ジャック・アノー、スティーヴン・ソダーバーグのものは事前に映画評を見ず、先入観なしに映画館に足を運ぶようにしている。もちろんウィル・スミスも。ロバート・アルトマンはすでに他界したので足を運んでいたというべきかもしれない。

2月25日(水)
 早朝、築地市場に行く。ほとんどのところが休みだった。第何水曜かが休みだということを忘れていた。料理店が火を休めるということで火曜日を休みにしているのにならい、水に縁のある築地は水曜日が休みなのだろうか。どちらが先かは分からない。

 このところ雨が降っても傘を使わずにすんでいたが今回の出張は3日間とも傘を使うことになった。まとめて精算という感じである。

 今、amazon.comとco.jp関連の本を読んでいる。アメリカ、日本、それぞれ立ち上げ時期に勤務していた人の書いたインナー・ストーリーである。本の執筆者は日本はシステム・エンジニア、アメリカはブック・レビューの編集者である。それぞれに書くべき理由があり興味深かった。日米とも本を書いた二人は二年ほどで退職している。Amazonは注目されているビジネス・モデルなので出版社も売れると踏んでの依頼であったようだ。日本の場合は進出を決めてからわずか1年足らずで稼働し始めている。アメリカ、ヨーロッパでビジネス・モデルが構築されていたとはいえ言語の問題やコンピュータの国間調整など課題は多かったにもかかわらず大変に迅速だ。
 Amazonにリコメンデイションという機能がある。同じものを買った他の人があわせて買ったものが推奨される。わずか0.5秒で対応する。それ以上レスポンスのタイミングが遅れると注意を引かないという心理学的な計算から時間が設定されていると言われている。この速さは従来あった3つのフィルタリングでは実現できないため第4のアルゴリズムを考えたそうだ。

 帰りの新幹線に乗り遅れそうになった。「RONSPO、論スポ」という雑誌にのめり込んでいて発車時間になっていた。「発車します」というアナウンスが突然耳に入りあわてて飛び乗った。活字の世界に沈潜していて乗り過ごしたことがある。これは幸い通勤の普通電車だったので2駅引き返すだけで助かった。新幹線だと少しまずい。編集長はサンケイ・スポーツにおられた本郷陽一さんである。関西勤務をされていたときからの知りあいだ。歯に衣を着せないするどい切込みをされるので話をしていて爽快感がある。昼をご一緒して情報交換をしたときに雑誌をいただいた。いわずもがなだが雑誌のタイトルは「論じるスポーツ」をからきている。

2月24日(火)
 オバマ大統領政権を見ているとフットボールのチームのようだ。国民がオーナーで、ヘッドコーチはオバマ。サマーズ国家経済会議委員長はディフェンス・コーディネータ、サマーズが招いたハーバードのジェレミー・ステインはディフェンス・コーチ。ステインは不良債権処理が専門だそうだ。
 アメリカの経済学者は政治参加し実践の場で理論を試される。プラグマティズムによって机上の空論に陥る弊害を避けるチャンスがある。

2月23日(月)
 出張で新大阪に行くために乗り換えた駅の売店で写真の光景を目にした。

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 写真手前、ある新聞が山積になっている。他の新聞は写真右手の女性の足もとのラックにタテ差しになっている。しばらく見ていたら、この新聞はマクドナルドの昼時の店頭光景のように次々と売れていく。店の人が10部くらい売れるとそのたびにワンコ蕎麦のように補充する。5秒くらいに1部として3600秒÷5、1時間に約700部強、通勤時間帯のコアを7時から9時までとし、ピーク時以外のペース・ダウンを考慮しても1000部は行くのではと思う。

 ドル/円のドル高傾向と金価格の急騰がここ最近の傾向である。高速道路の大幅割引、定額給付金、国札発行案など弥縫策論議で時間がいたずらに過ぎてゆく。日本はサブプライムの影響が当初は軽微だとみられていたので円高で推移した。しかし本来の政策不在という政治的リスクが明らかになるにつれて日本からお金が離れて行く。

 『おくりびと』、『つみきのいえ』とアカデミー賞受賞の2作品はいずれもひらがなタイトル。昨年のノーベル賞も複数受賞だった。同じ葬儀業を扱った『ラブド・ワン』という映画を高校生のころ見た。イギリスの皮肉屋小説家イヴリン・ウォーの原作で今回の『おくりびと』と同業の遺体化粧師が出てくる。もとの言葉はcosmeticianだった。小説の翻訳本はまだ当時、日本語にそれに相当する言葉がないため「コズメティシャン」と書いてあったようにも思うが記憶が定かではない。ウォーが書いたものなので処置に困った遺体を葬儀用のロケットに乗せ宇宙空間に飛ばしてしまうというブラック・ユーモアで締めくくっていた。葬儀用のロケットというのはより星に近いところに行きたいという願いをかなえるためのお金持ち向けの葬儀メニューだったと思う。
 『おくりびと』を劇場公開している松竹の株が15%アップしたと言っている人がいた。本屋では原作本が山積みになるだろう。

2月22日(日)
 多くの企業が業績不振の中、マクドナルドは健闘中だ。日本マクドナルドでは店頭での受け渡しで1秒違うと全国で売り上げに8億円の振れが生ずるという。かなり以前だがマック・チャオという中華メニューがあった。たいへん好評でこの商品は売り上げを伸ばしたが半年で発売中止になった。理由は調理に時間がかかるため時間当たりの売上高が低下するため、とのことだった。こうした商品は作業の流れを遅くし全体としての売上げの足をひっぱるという考え方に基づいている。マックではまさに時は金なりを実践している。

 楽天も「巣ごもり現象」のおかげで出店社が増え増収増益になった。巣ごもり現象、という言葉は10年後には注釈がないと分からなくなっているかも知れない。eコマースを楽天が開業したときすでに大型資本が先行してビジネスを行なっていた。大資本はシステムを外注しキメ細やかさにかけていたためやがて撤退した。楽天はシステムを内製することによって網目を小さくしユーザーの求めているものをすくい上げることができた。創業者の三木谷浩史は相棒に1週間特訓のコンピュータの家庭教師をつけ自らの手でシステム構築をしたという。

 お金の時代が長く続いている。アリストテレスは『政治学』の中でお金がお金を生む、利子という考え方は自然に反するとした。歴史的にみれば非アリストテレス世界が長く続いている。お金は人の欲望と比例して見かけの流通量が増える。お金はもともと他の人に何かをしてもらうという機能が大きい。その量が減ってきた今は人間本来の自分でするというところに戻って行くのが摂理だと思う。

2月21日(土)
 フットボールはオフだが日本の大学チームの新年度への体制移行、カレッジのリクルート、NFLのコンバインなど、すでに来シーズンに向けて動き出している。NFLのスカウティング・コンバインでのオフェンス・ラインのベンチ・プレスの結果が出ていた。225ポンド、約102キロを39回こなしたテキサス・テックのルイス・バスケスというプレーヤーが一番だった。この数値がどれほどのパワーかイメージがわかないが、日本の例ではOL出身のサラリーマンが無理難題をいう上司のデスクを頭上まで持ち上げてみせ、肝をつぶさせたという。結果、彼は転勤になった。

 フットボールがオフの時は、ふだん時間がなく見られないスポーツを見る。
 千葉国際クロスカントリーが録画放送されていた。長距離はマラソンもそうだが単調に見えてドラマがあり、あきることがない。ジュニアは大学生も走るが男女とも高校生が優勝した。男子は村沢明伸、女子は柴田千歳。村沢は3年生で2連覇、2年生で優勝し今年はその記録を1分以上縮め、外国人選手の記録も含め歴代1位だった。柴田も2年生。フィギュア・スケートは従来から若い力が活躍しているがロードでもその傾向があるようだ。

 午後のニュースで国有化のうわさのため、シティの株価が値下がりして1ドル台になったと報じていた。昨年より通算で44%の下落。同様にバンカメも3.79ドルになったという。自動車のビッグ3も凋落しアメリカの基幹だった企業の落日がさら進んだ。規模縮小、国有化のアナウンスメントをしながらソフト・ランディングのタイミングをさぐっているようだ。昨年9月、アメリカ商務省のディレクターが来日してから数日してリーマンが破綻した。今回のクリントン国務長官のミッションのひとつにそうした事前通告が含まれていた可能性がある。それは今後明らかになるだろう。

 叔父の通夜に行く。日本人男子の平均寿命を少し越したところで亡くなった。
 今年の正月は自分でドライブにいくほど元気だったが、その後体調を崩し自力で入院し、まわりに手を煩わせず短い期間で逝った。立教大学が昭和20年代甲子園ボウルで2連勝した時のQB、野村正憲さんにインタビューしたとき、叔父と同じ会社に勤めておられたことが分かった。野村さんにそれを伝えたら野村さんも叔父を知っていた。
 叔父は神戸っ子らしい洒脱な人で、趣味で演劇をしていた時期があった。一人芝居を演ずるのを宝塚の近くの小劇場で観た記憶がある。演目は「蚤の王様」だった、と思う。

2月17日(火)
 昨日、証券市場が開く直前の8:50に内閣府が第3四半期のGDPが年換算でマイナス12.7%と発表したが、日経平均はすでに織り込み済みだったのか小さな下げにとどまった。
 ある会議のあとで、この四半期の数字をなぜ年率換算するのかを話題にした人がいた。その人は新聞各紙一面トップに大きく白抜きのゴチックで書かれた数字を見て年換算を、通年の数字だと思い社内の当該部署に質問したが答えられる人間がおらず、最後は元証券会社出身者に質問が行ったそうだ。

2月16日(月)
 早朝、箕面は雪だったらしい。家を出てから通勤の途上どこにも雪や雨の気配はなかった。会社の玄関に傘をもっている人がいるので不思議に思って聞いた。「雪」ということばが出てきて驚いた。昨日は26℃あった。北攝はやり寒いようだ。落語の『池田の猪買い』の小雪が舞い散る情景が浮かんだ。

 スーパー・ボウルを日本で最初にテレビ放送したのはいつか、ということを調べている。局は現在のテレビ朝日。プロ・フットボール、スーパー・ボウルを放送していた1970年代の中盤はNETテレビという名称だった。英語の略称はNETからANBを経て現在のEXとなった。
 放送の予告を見つけるために、記憶を手がかりに『タッチダウン』のバックナンバーを繰っていて思わぬ記事を見つけた。日本で最初にフットボールを紹介した岡部平太に指導を受けた牧野正巳という人の写真と手記が載っていた。牧野氏は日本初のタッチ・ダウン・パスを受けたということである。1920年、岡部はアメリカ留学から帰国後、母校の東京高等師範学校にしばらくおり、附属中学の生徒たちにフットボールの手ほどきをした。牧野氏はその附属の生徒の一人だった。この生徒たちの中には後に東京都知事となる美濃部亮吉もいた。
 アメリカ初のフットボールのゲームは1869年とされている※。しかし、1861年ボストンの高校生たちはOneida Football Club をという組織を結成し対外試合を行なっていた。この活動は1860年代中葉まで続いた。NFLはそれからおよそ70年後、現存していた当時の高校生を招きその功績を顕彰した。
 ※#1 アメリカン・スポーツの誕生 参照

2月15日(日)
 テレビでダヴォス会議の特集を見る。期待したものと違っていた。そのあとシンガポールの特集。リー・クァン・ユー、その息子という卓越した指導者の下に、日本以上の超資源小国が世界の中で異彩を放っている。しかしGDPはマイナスになる見通しだ。国内外とも経済状況は羅針盤なき航海のようだ。

2月14日(土)
 真夜中に目が覚める。暖かいので温度計を見ると火の気のない部屋が17℃だった。おかしいな、と思いつつストーブについている温度表示も確かめたがほぼ同様だった。外は風雨の音が高く荒れ模様である。目が覚めてしまったので増田明美『カゼヲキル』の最終巻、第3巻の続きを読み始める。仕事でかかわった世界陸上のヘルシンキ大会、大阪大会のことが出てきて、いろいろなことを思い出した。大阪大会ももう一昨年となり、はや今年はベルリンだ。
 2007年8月28日夜。世界陸上大阪、大会4日目。
 会場での仕事を切り上げ、午後10時過ぎに会社へ帰る途中、JR鶴ケ丘駅のプラットフォームで電車待ちをしていた。ひどく不安そうな中年のアフリカ系女性がボランティアらしい人に何か言っているが話がうまく伝わっていない様子だった。一緒に来た仲間と駅ではぐれホテルに帰れなくなったようだ。パニックになりホテルの名前も思い出せない。聞いてみるとアメリカ選手のお母さんだった。選手をはじめ関係者の宿泊しているホテルは把握しているので彼女が泊まっているのはホテル阪神であることが分かった。会社の近くである。お送りします、と伝えた。天王寺まで出て環状線に乗り換える。パニック状態がおさまらず、どこかにかどわかされるのではないかという恐怖に近いものにとらわれているようである。私の背丈とほぼ同じくらいの彼女の横のサイズは優に1.5倍はありそうでとてもたくましいのだがパニックは理屈ではない。首から下げたオフィシャルのIDカードを見せてもまだ疑っている。彼女が長居陸上競技場へ行ったコースではないようで、見覚えのない窓外の夜景を何度も見直している。しかたがないので車中あたりさわりのないことを質問して安心させようとした。そのうち娘さんの名前が分かった。「ミッシェル・ペリー」。記憶になかった。これは後で知らなかったことを一人で恥じることになる。ようやく福島駅についた。ホテルの外観を見ても自分のホテルかどうかもおぼつかない様子なのでのロビーまで送って行った。やっとひとごこちがついたようである。間違いないのを確かめ「グッド・ナイト」と告げたが、まだ不安でこわばっていて「サンキュー」という余裕もないようだった。手を振って別れる。会社にもどりプログラムで確かめたら100メートル・ハードルの有力選手で前回大会のヘルシンキで金メダルを獲得していた。翌日が決勝だった。
 29日午後9時、女子100メートル・ハードル決勝。ちょうど空き時間があったのでゴールのあたりに席を取った。カメラの望遠でスタート・ラインのペリーさんを確認する。スタートの号砲が鳴り連写で追いかける。トップを走っているが何人かと競り合っている。

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 もつれあってゴールに飛び込んできた。カメラのシャター・スピードが追いつかず結果が分からない。しばらくして電光掲示板で彼女が優勝したことが分かった。ウイニング・ランをする彼女の視線を追ってお母さんを捜した。

 『カゼヲキル』はピッチが正確な走りのように歯切れの良い文章なので、一気に読み終えた。競技者経験者が書いたものなので外から見ていては分からない競技中の心理や練習の方法、バックヤードの様子などが分った。時計を見たら午前3時20分だったのでもう一度寝なおす。

2月12日(木)
早朝、昨年末、『日本アメリカンフットボール史』のためにインタビューさせていただいた鈴木智之さん※の項のキーワードがふと思い浮かんだ。今日は息子さんと会う予定だったので不思議な偶然である。
 ※鈴木氏については、#6「ダック」のセカンド・ネームは、を参照

 発表が一日伸ばしになっていたアメリカの金融安定化政策が明らかになった。具体性を欠いていたことと当初予算より数字が削減されたため、一昨日のニューヨーク・ダウは400ドル近く下げた。日本が祝日だった昨日の間に少し持ち直したため日経平均は予想したほどには下がらなかった。

 せがれと飲む。テーマはせがれが最近開発した半径30メーターの円をコンパスを使わず最も廉価、短時間で描く方法とアメリカの話。金融安定化政策やイラク撤退のことなど緊急課題についてオバマ大統領は即断が下せないらしい。ブレーンから難問に対する複数の解決法の選択をもとめられると、逡巡し後回しにするとのこと。大統領選演説の明快さとのギャップが大きいと指摘されはじめている。大統領は最初の3ヶ月が最もプレスティジがあるのでその間に足場固めをする必要があるという。
 初めて行ったバーのバーテンさんがいわくありげな雰囲気で気になった。店を出てから話したら、せがれも同じことを感じていたらしい。
 
2月11日(水)
 昼過ぎに友人とフラグ・フットボールおよびフットボールのプロパティのことについて意見交換。フラグが2011年から文部科学省の学習指導要領に復活する。このチャンスをいかに活かすか。最後に文部省の指導要領からタッチフットボールがなくなったのは1958年(昭和33年)だったのでフットボール関係の競技の復活は半世紀ぶりになる。

 『チェ 39歳 別れの手紙』の最終回を見に行く。インターネットで座席予約と支払いができるので並ばなくてよい。若い人のこの2部作への評価はネット上では低いことを『チェ 28歳の革命』を見た後、知人から聞いていた。評価ポイントが高かったのは「レッド・クリフ」とのこと。

2月10日(火)
 昭和20年代から30年代にかけてのフットボールの歴史を卒業論文のテーマにした学生さんが卒論の提出が無事できたので、とコピーを持って会社までやってきてくださった。昨年の9月のはじめに『関西アメリカンフットボール史』の奥付にあるアドレスにメールが届き協力の依頼があった。すでにかなりの資料を持っていたのでそれを渡したり、そのテーマで取材を予定していた方のスケジュールを繰り上げていただいたり、とできる限りのお手伝いをした。それから半年近くかけて卒論が完成した。他にも12月のはじめに新聞社の方から別の学生さんが北陸のアメリカンフットボールの歴史を卒論のテーマにしているので連絡があれば相談にのってあげてください、という話もあった。日本におけるフットボールの歴史を卒論のテーマにする人がそろそろ出てきたのかも知れない。知っている限りではかなり以前に筑波大学で卒論のテーマに取り上げられたことがあるがその後は耳にしていなかった。

 日本大学OBの須山さん※から宅急便でお返ししたスクラップ・ブックが届いたとの電話をいただく。貴重な資料をしばらくお借りしていた。いつも丁寧な方である。日大の他のOBの方の何人かが資料を丁寧に保存されているという。フェニックスとファイターズはこの点でも似ている。
 ※須山さんについては#21〜25 科学的武士道―日本大学のフットボール参照

2月9日(月)
早朝に寒いので目が覚めた。室温は6度である。この冬で一番寒いかも知れない。ヒゲ剃りはカミソリ派なので極寒になるとヒゲは同じ太さの銅線よりも堅いということを実感する。ヒゲソリのジレットは確かNFLの古くからのスポンサーである。
 オバマ大統領の金融安定化政策の発表が1日延びる。ガイトナー財務長官はオバマにしっかりしろと言われた、と言うことだ。財務長官就任前に脱税が発覚したりと大統領も多難だ。辞退が重なって商務長官はまだ決まっていない。就任すれば即、渦中の人となる商務長官を現在のような時期に引き受けるのはよほどの勇気と体力がいる。

 『チェ 28歳の革命』を見る。
監督のスティーヴン・ソーダバーグは失敗作はあっても愚作は作らないフランソワー・トリュフォやアルフレッド・ヒッチコックの系譜だ。映画への愛情の深さがそういう結果をもたらしている。

 Oさんのアドバイスに従って、ジェリー・ライスの自伝を発注する。

2月7日(土)
 スーパー・ボウルでカージナルスのレシーバー、ラリー・フィッツジェラルドはたいへん脚が速く見えた。40ヤード走の記録を検索したら4.6秒だった。NFL博士のOさんに確認したら4.5秒だそうだ。NFLのバックスの標準からいえばフィッツジェラルドは俊足というほどではない。ディオン・サンダースは4.2秒だった。しかし4.1秒台の記録は聞いたことがない。NFLに挑戦していた頃の山田晋三さんが言ったように4.1秒台の記録を出せば日本人も文句なくNFL入りができるだろう。
 ジェリー・ライスはNFLの歴史に残る名レシーバーだったが脚がそれ程速くないことはよく知られていた。Wikipedia によれば4.71秒、reportedly という表現になっていたのでこれもOさんにライスの記録を確認した。ライスの方はさすがのOさんでも分からなかった。少なくともNFLに入る前に新聞か雑誌にドラフト候補のデータ記録が載るのでそれが残っているのではと思ったのだが。Oさんはライスをスカウトした49ersのヘッド・コーチ、ビル・ウォルッシュが書いた本にも数字はなかったと教えてくれ、ライスの自伝ででも確かめるしか方法はないかも知れませんね、と言った。バックスに必要なスピードはいろいろな場面、走るべき距離で異なること、判断のスピード、過去のプレーの記憶も大切な要素であることで意見が一致する。

2月5日(木)
 デジタル・メモが宅急便で届いていた。この原稿もためしにそれで書いている。デジタル・メモはテキスト・データのみを作る単機能のツールである。パソコンからワード機能だけ取り出したようなものである。5万円以下のパソコンが出たとき買おうかと思い家電量販店へ商品を見に行った。聞くとワードやエクセルはオプションだという。それを加えると合計価格がノート・パソコンと変わらないのでやめる。ブラック・ベリーのようなスマート・フォンは価格が幾分下がるが、プラス通信費がかかるので割安ではない。移動中に乗り物の中でものを書きたいと思っていてノート・パソコンでやってみたがいかにも重い。1kgを超えると持ち運びには適さないように思う。従ってこれまでは携帯でメールを書いてそれをパソコンへ送信していた。中高生の女の子には携帯でパソコンより早く文字が打てる子がいるらしい。こちらは早く打てないので携帯ではまどろっこしくなる。今回のデジタル・メモはパソコンとほぼ同じキーボードを持ち、重さは単4のバッテリー2本を含め350gなので必要な要求を満たしている。かつ上着のポケットに楽々おさまる。
 流通で変化が起きている、と思う。このデジタル・メモは去年の11月に発売された。すぐに人気が出て商品を知った12月の始めにはすでに品切れになっていた。ネット通販では入荷は来春のことになると書いてあった。おととい本を買うためAmazonを見ていたらこの商品も扱っていることが分かった。価格は32%引きである。検索してみたらこれが最低価格だったので注文した。家電量販店は入荷待ちで15%ほどの値引きだった。Amazonはドロップ・シッピングうまく活用しているようだ。リアル店舗維持のためのコスト負担がなく、膨大な販売実績データを持つAmazonには有利な仕組みだ。数年前に社長のジェフ・ベゾズ自身が来日して、本にプラス、スポーツ用品を扱うという記者発表をしていた。気づかぬうちに電気製品から機能性食品に渡る11カテゴリーにまで範囲を広げていた。

2月4日(水)
Gaoraのスーパー・ボウルを見る。零時から放送が始まって2時頃まで頑張って見たが、その後途中何度が寝てしまっていた。気づいたら第4Qである。ゲーム・オーバーのあと、しばらく仮眠してから会社に出る。
 今年はルールはお任せ、浜田さんの実況、村田さんはディフェンス優位のスティーラーズ担当の解説、オフェンスに勝機を見つけるべきカーディナルス担当は有馬さん、スーパーを担当するのにふさわしい三人である。浜田さんは2年ほど前から実況することの打診を受けていたそうである。今季、レギューラー・シーズン・ゲームで実況を受け持っていたのはこの布石だった。Gaoraのディレクターは工夫の人のようだ。村田さんは雑誌、地元紙、その他のデータに目を通し豊富な情報量と鋭い分析力で聞くものをあきさせない。
 有馬さんは2年前のスーパー・ボウルの際、ゲーム終了のあと総括の意見を求められたとき、あまりにもすばらしいコメントだったので感心したことを覚えている。同席の解説の村田さん、河口さんも感心してうなっていた。ただ残念ながらあまりにも感心しすぎてその内容を覚えていない。笑いすぎて途中でなぜ笑っていたか分からなくなるのに似ている。

 今回の有馬語録。記憶で書いているので内容的にはあっているかも知れないが言葉通りではないと思う。

 ゲーム開始直後、負傷しているエース・レシーバー、ハインツ・ウォードに早めのパスが通ったとき。
 「ケガをしている選手にまずパスを投げ、相手に意識させてそのあとは使わない」
 このゲーム、ウォードのケガのレベルを考慮すると、デコイとして使うことは最良の策だったと思う。

 「カージナルスはいろいろなオフェンスを繰り出し、ピッツのディフェンスの引き出しを空っぽにしてから、後半を迎えたい」

 前半残り1分を切り、カージナルスが逆転へのドライブを続け敵陣ゴール前まで迫った。ワーナーがエンド・ゾーン左に投げた逆転となるパスをピッツバーグ、ハリスンがゴール・ライン上でインターセプトし100ヤードのリターン・タッチダウン。
 「残り18秒だったので15秒をかけて走った。ハリスンにはあとはオフェンスに任せ、サイド・ラインを出る気持ちはなかったのかな」

 4Qにフィッツジェラルドが逆転のタッチダウン・パスをキャッチして。
 「パスがキャッチできた理由が分からない」
 これは確かに大変にむつかしいスーパー・キャッチだった。

 そのあとアントニオ・ホームズに再逆転のTDパスを投げたロスリスバーガーのプレーを見て。
 「投げる技術もすごいが、投げようと思うことがさらにすごい」

2月3日(火)
ケーブル・テレビのタイム・テーブルには Gaoraのスーパー・ボウルは3日午後6時から10時に放送となっていた。今日は少し帰るのが遅くなるのでタイマー録画をした。帰宅して再生を始めたらカージナルスとイーグルスが「スーパー・ボウル」を戦っていた。しばらくするとテロップが流れ、予定変更になり、NFCのチャンピオンシップの再放送を行っていると遠慮がちに告げている。Gaora での最初の放送は日が持ち越され4日の深夜零時から4時までになった。
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2009年01月07日

#31 新春雑感

 2009年は1869年にラトガーズ大学とプリンストン大学の間で最初の大学対抗のフットボール・ゲームが行われてから140年、日本で最初の大学のリーグ戦が始まってから75年になる。アメリカにおいてフットボールはおよそ半世紀単位で発展を遂げてきた。1920年代、ローリング・トゥエンティズと呼ばれるこの時代にカレッジ・フットボールは大きな人気を博し、一方プロにおいては現在のNFLとなる新しいリーグが生まれた。1970年代以降になると、おりからのテレビの普及によりカレッジ、プロともに経済的飛躍をとげ現在に至っている。

 正月休みの間、読むともなくフットボールの資料を広げていた。いろいろと気付いたことがあったのでこれからの掲載に反映して行こうと思っている。特に日本にフットボールを伝えた人たちの多くがYMCAに関係していたことを改めて認識することになった。

 今年もそうしたことを反映しつつこの掲載を続けて行きたいと思っていますのでよろしくお願い致します。
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2008年12月26日

#30 1902年(明治35年) 日本フットボールことはじめ 2 ―とりかえばやの物語―

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 この写真は1904年(明治37年)2月6日に撮影されたものである。前回紹介した中村覚之助は最後列真中の学生服、学帽の人物である。この日、日本で初めて日本人チームと外国人チームのゲームが行なわれた。東京高等師範学校とYC&AC(横浜外国人クラブ)の試合である。その記念として撮影された。サッカーに不慣れな日本チームに配慮してYC&ACはファースト・チームではなかったが結果は0対9でYC&ACの圧勝で終った。これに写っている人たちの何人かはちょっとした行き違いからアメリカンフットボールを経験した。もっとも練習にとどまり、ゲームまでには至らなかったようである。

 東京高等師範学校の中村覚之助たちはサッカーに取り組もうとした。それがなぜアメリカンフットボールにつながったかについては1902年(明治35年)12月刊行の高等師範「交友会誌第2号」の記事を要約する。

 この記述によれば高等師範は1896年(明治29年)に「フートボール部」を立ち上げていたが実際の活動は休眠状態が続いていた。1902年、これを呼び覚ましたのが中村覚之助だった。『アッソシエーションフットボール』を翻訳した同年春、アメリカのウィスコンシン大学のフットボール部で「助教」をしていたという「坂上」なる人物からサッカーのつもりで指導を受けた。

 しかしケンカのようにあまりにも激しいスポーツであったので日本人には実行が難しいと思われたためメンバーで検討を行なった。これを改良することも考えたができあがった競技を変更することは難しいと判断した。そのころ『戸外遊戯法』の編集を行なった坪井玄道が海外視察から帰国したので相談したところ、坂上が指導をおこなったのは「ラグビー式」であり、あまりにも過激であるから「アッソシエーション式」の方が日本人に適当である、という答えであった。折りしも坪井玄道がサッカーの資料を持ち帰っていたのでこれに基づき10月の始めより練習を再開した。10月18日の秋季大運動会で2回のゲームを行なった。

 時代の雰囲気を伝えるため原文より引用。基本文字使いなど原文のまま。旧字、旧かなを一部修正。

 「フートボールという遊戯は、・・・(中略)・・・ラグビー流とアッソシエーション流との二派に分かれ、今も、尚(なお)此二流が英国に中々盛んであるとの事。二十年ばかり前に、米国にも此の遊戯が流行し始めたが、米国のは純粋のラグビー式でもなければ、アッソシエーション式でもなく、云(い)はゞ、ラグビ流を骨子として、多少、亜米利加化したものである・・・(中略)・・・
米国のフートボールに付いては、此年の春、合衆国のウィスコンシン大学に遊学して居る坂上某氏が帰朝した時、其(その)大体を聞き得たから、此所に其状況をしるそう。同氏はなかなかの運動家で、特に、此のフートボールは、最も得意であるから、今日では、同大学のフートボールの助教をして居るそうだ。
 ・・・(中略)・・・速早、氏を聘して、三時間計りフートボールの蹴方や、ゲームの仕方などの説明を聞き、夫(そ)れで、充分、会得出来ないから、運動場で実に、其の仕方を示して貰ったのである・・・(中略)・・・坂上氏より教授を受けたのは、即ち、云はゞ、ラクビ式であって、随分、激烈であるから、喧嘩すきは、日本人には、其の儘(まま)、実行することが余程むつかしい」

 #16ですでに1884年に松方幸次郎がラトガーズ大学フットボール部に入部したことは述べた、従って坂上という人物がウィスコンシン大学でフットボールをかなりの程度まで習得していたというのはありえることと思われる。残念ながら姓だけが伝わっていて名は不明である。従って経歴など詳らかではない。また、「助教」という肩書きも元の英語が不明である。推測だが現在のアシスタント・コーチのように思われる。

 以上のように偶然によるアメリカンフットボールとの出会いは幸福ではなかった。「歴史のもし」は繰言にしか過ぎないのだが、このとき高等師範のメンバーがアメリカンフットボールを受け入れていたら日本におけるフットボールの位置づけはかなり変わっていたであろうと思われる。まだ、フォワード・パスがルールに入っていない段階のフットボールは死者を数多く出す競技だった。安全のためもありフォワード・パスを認めるなど大幅なルール改革に着手されるのは1905年からである。それまであと3年だった。

 こうして日本でのアメリカンフットボールの偶然による最初の伝播は少しユーモア含んだほろ苦いエピソードとして終った。

 中村覚之助は教職に就くため清国山東省に渡る。そこで病を得てルールが変わった1906年、世を去った。わずかに29歳であった。

 今年は本欄をお読みいただきありがとうございました。明年掲載第1回は1月7日(水)を予定しております。よいお年をお迎えください。

川口 仁
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2008年12月25日

#29 1902年(明治35年) 日本フットボールことはじめ 1 ―とりかえばやの物語―

 甲子園ボウルに出かけた。予報では午後雨だったが、ときおり思い出したように雨粒を落としただけで泣き出しそうな雲行きのままゲーム・オーバーになった。甲子園ボウルはもう30年来見つづけている。テレビで見たことも含めると40回近くなる。甲子園ボウルの最初のテレビ中継は1956年(昭和31年)だが、このときはまだ子供で、フットボールのことは知る由もない。継続して見るという意味もあったが、ある選手を彼が高校2年生の時から注目していてそのプレーを見るのも、もうひとつの目的だった。スタジアムを出たころ雨がやってきた。3時間近くほぼ同じ姿勢のまま見ていたので固まった身体を解凍するために銭湯に寄った。露天風呂につかり、顔に雨粒を感じながら雨をやり過ごした。それからせがれと軽くビールを飲み帰宅した。

 今回から何回かにわたり時系列的に日本で行われたアメリカンフットボールの試みやゲームについて紹介したい。まず明治時代のわが国における近代スポーツやサッカーのはなしから。

 『アッソシエーションフットボール』というサッカーの本がある。1903年(明治36年)10月4日に出版された日本で最初のサッカーの専門書である。「アソシエーション」の間違いではなく当時はこのように表記した。本邦への最初のサッカー紹介は1885年(明治18年)に出版された『西洋戸外遊戯法』、『戸外遊戯法』という2書において行われた。外来スポーツの一つとしてサッカーにもふれているが数ページにとどまっており『アッソシエーションフットボール』のような専門書ではない。この頃サッカーは「フートボール」と表記されることもあった。かなり長い間『戸外遊戯法』(坪井玄道、田中盛業編)が最初の本であると思われていたが、『西洋戸外遊戯法』(下村泰大編)という本が見出され『戸外遊戯法』は先駆けの座をゆずった。ただ、『西洋戸外遊戯法』、1885年3月発行、『戸外遊戯法』、4月発行ときわどく、陸上100m、ゴール写真判定ほどの差しかない。なお、日本で最初にチームを作ったのは1889年に創部した兵庫県尋常師範学校、のちの御影師範学校であるとされているが異説もある。

 まだ『西洋戸外遊戯法』が見出されていなかったころ国会図書館で『戸外遊戯法』を読んだ。東京に勤務していた頃、休みにはよく通ってフットボール関係の本を探した。読んだといっても「マイクロフィッシュ」という本をモノクロ・ポジのスライドにしたものである。新聞雑誌の多くは映画フィルムのようなマイクロ・フィルムと呼ばれるものにコピーされる。古い書籍や新聞雑誌は長年たつと紙が酸化して触れるとくずれるような状態になる。これにくらべるとパピルス、羊皮紙、こうぞ、みつまたのほうが文明かもしれない。「マイクロフィッシュ」は一枚がハガキほどの大きさで、ここに見開き2ページ分を10数ミリの方形に縮小しそれを何十枚か焼き込んである。したがって数百ページほどの本でもマイクロフィッシュでは10枚前後になってかさばらない。デジタル化が行われる前には非常に便利なメディアだった。古い本で劣化したものや貴重な書籍がマイクロ化されている。このフィルムをバックライトのついたビューアーにかけてひとコマひとコマ読んでいく。もとがフィルムで鮮明度に限界があるため読みづらいことに加え光源が強い光のハロゲン球であるためかなり疲れる。

 先日、ウェブで国会図書館の蔵書検索を行い『アッソシエーションフットボール』を立ち上げたら、結果に見慣れない表示とマークがつけられていた。それぞれ「本文をみる」、「近代デジタルライブラリー」となっている。クリックすると本文ページが現れた。マイクロフィッシュとはくらべものにならないほど鮮明な画面だった。かねてから世界中の図書館の蔵書がネットを通じて閲覧できるようになるということが言われていたが実際に体験したのは今回がはじめてで、すこぶる便利である。最近のネット書店では本の中身を「立ち読み」できるから、こうしたことは今後ますます促進されるだろう。1980年代初頭、アメリカ留学した人の話によると大学図書館のレファレンス検索ではすでに現在のネット検索の初期のものが使用されていたそうである。インターネットそのものの起源はそれよりもさらに10数年さかのぼるので当然かもしれない。

『アッソシエーションフットボール』に載っているイラスト
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 『西洋戸外遊戯法』や『戸外遊戯法』そして『アッソシエーションフットボール』が出版された明治時代も、そのあとの大正年間も一般にはサッカー、ラグビー、フットボールの区別がはっきりと理解されていたわけではない。それに加え、外来語にいろいろな訳語が考案され始めた時代だった。人口に膾炙(かいしゃ)したところでは、例えば“baseball”に「野球」という訳語が与えられたのも明治中期である。考案者は正岡子規説もあったが現在は子規と同じ旧制第一高等学校野球部の中馬庚(かなえ)であることが分かっている。子規は一時期、名が「升」(のぼる)であったので、これをもじって雅号に「野」(の)+「球」(ぼーる)、「野球」を用いていた。ここより推測しての子規命名説はどこかほほえましい。「まり投げて見たき広場や春の草」など野球を扱った句や歌を残している。子規の名声の大きさは野球殿堂に子規を叙した。中馬庚も子規よりも早く殿堂入りしている。スポーツに関連する訳語はさまざまに変遷し、それが理解と普及の速度を遅くした一因となった。ついでながら現在ではすでに日本語に同化している「スポーツ」という言葉にはまだ訳語がない。この言葉の持つ多義性に対応する日本語を発明できなかったためと思われる。日本ではビリヤードやチェスをスポーツの範疇に入れるには違和感があるようだが西欧ではこれらもスポーツに属している。また、#27で紹介したように富国強兵の国家政策のもとでは軍事教練が重視され体育は副次的な立場に置かれていた。これは戦後も後遺症として残り、スポーツが鍛錬と混同されそれに特化されている場面に出会うのは珍しいことではない。かてて加えて戦前において体育に触れることができたのは、ほぼ旧制中学の生徒に留まっていた。旧制中学への進学率は最盛期でも10%前後であったからスポーツの普及には自ずと限界が生じた。

 民俗フットボールはイングランドで規則化され1863年にフットボール・アソシエーションができ、アソシエーションという言葉からサッカーという呼称が生まれた。このアソシエーション・フットボールを略し、サッカーは長い間「ア式蹴球」と呼ばれていた。これにならいラグビーを「ラ式蹴球」、時代がかなりくだってアメリカンフットボールを「米式蹴球」と呼んだ。戦前に創部したフットボールのチームの中にはたとえば早稲田大学のように現在も「米式蹴球部」という名称を使用していることがある。

 「ア式蹴球」という言葉が現在でも流通しているところに出会う。数年前にある都市の図書館でアメリカンフットボールに関する資料をお願いしたところ、たくさんありますよ、と言って出してこられたのが「ア式蹴球」という言葉がタイトルに入った本だった。「ア」とつくのでアメリカンフットボールの「ア」と取り違えられたようである。対応いただいた方は20代と見受けられる司書の方だったのでまだまだ根強く残っているようである。

 ことのついでに言えば「アメラグ」という言葉もある。アメリカ式のラグビーがつづまったもののようである。新聞、雑誌と言った印刷物に大正末期、あるいは昭和の初期から見られる呼称である。これも現在でも使われることがあり、メディアの方やフットボールの競技経験者の方も使われる。この言い方を好まれない方が大勢おられ、ゴキブリ退治のように矯正しようとされるが、なかなかにタフな言葉で根絶はむつかしいようである。

 『アッソシエーションフットボール』を訳したのは中村覚之助という和歌山県那智勝浦出身の東京高等師範学校生であった。前書きによれば、各地の中学校師範学校よりサッカーのゲームの仕方をもとめられたので書いた、とあるので1885年の最初の紹介以降ある程度広まっていたと思われる。中村は翻訳を行い、ア式蹴球部を作り校内で仲間を募った。先に触れたように出版は1903年(明治36年)10月。翻訳は1902年4月に行なったとされているのでこの間出版社をさがしていた可能性がある。まだサッカーというものを知る人が少数だった時代なので版元も出すことをためらったであろうことは容易に想像がつく。結果として大阪に本店を置く鍾美堂という出版社から発行された。中村の出身が関西であることと関連があるのかも知れない。また同時に作成したテキスト通りに実行できるか実際のゲームを通して確認するという作業を行なっていたからとも考えられる。これは後年、東京高等師範学校のラグビー部がアメリカンフットボールの研究を行なった際にも同じように翻訳後、テスト的なゲームを行なうという手順を踏んでいる※。

※#27参照

 サッカー日本代表のシンボルマークとなっている「八咫烏(やたがらす)」という三本足の烏は中村覚之助の生家から200mほどのところにある熊野那智大社のシンボルである。早世した中村覚之助に敬意を表し、東京高等師範学校の人たちによってデザインされたと言われている。神話では八咫烏は神武天皇が東征したときその道案内をしたという伝説がある。神話時代のことなのでなんの証拠もないがこの遠征で征服されたネイティブ紀州人、ナガスネヒコ一族は自分たちの祖先だと父が冗談めかして言っていたことがある。

 中村覚之助たち東京高等師範学校ア式蹴球部のメンバーは偶然からアメリカンフットボールに出会う。コロンブスがインドに至ろうとして西インド諸島にたどりついたように、サッカーをもとめてアメリカンフットボールに遭遇した。このことについては次回扱いたいと思う。

 次回は明日掲載。
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2008年12月17日

#28 社会人選手権:JXBにいたるまで

 13日(土)、社会人選手権、Japan X Bowlが行われた。結果はすでにご承知のことと思うがパナソニック電工インパルスの勝利に終った。今年10月に社名を変更されたパナソニック電工にとってこれ以上はないタイミングでのパブリシティ力満点の勝利だった。いろいろなメディアで大きく報道された。スポーツ面の紙数が限られている日経新聞でも3段3分の1あまりのスペースが割かれていた。インパルスは堅実なチームである。

1994年度 創部20周年
 社会人選手権優勝 
 日本選手権(ライス・ボウル)優勝 
1995年度 会社設立60周年
 社会人選手権優勝
2004年度 創部30周年
 4度目の社会人選手権優勝
 2度目の日本選手権連覇

 こう並ぶと運もさることながら強い意志の結果であると言えよう。しかし意図しても結果が出せないのはこの世の常である。もの作りをされている会社だけにフットボールにおいても生産計画がしっかりされているのであろう。

 社会人フットボールの歴史をスケッチしてみる。主にこれまであまり触れられなかった1970年までのことについて触れてみたい。社会人のフットボールの歴史は戦前からある。ただし卒業生が取り組むという性格上、学生の歴史にくらべると短くなるのは自然の成り行きである。学生のリーグ戦は1934年に始まった。社会人は『日本アメリカンフットボール50年史』に書かれている、1940年(昭和15年)、1941年の6人制ゲームにおけるチームが現在確認できる最も古いものである。

 1940年に普及のため主に中学生への底辺拡大をはかって、日本独自の6人制ルールが考案された。6月15、16日と「紀元二千六百年奉祝六人制米蹴大会」と名づけられた催しが神宮競技場で行なわれた。トーナメントが組まれその中にOBで構成された「ビクター」というチーム名が見られる。翌1941年は5月に開催され、ビクターが三洋商会というチームと対戦し、13−6という記録を残している。

 「紀元二千六百年」は『日本書紀』の記述に基づき1872年(明治5年)太政官布告により制定された日本の歴史年数の数え方である。西暦紀元前660年を日本の元年として数えると1940年が2600年になり、この年それをことほぎさまざまな行事が行なわれた。「ゼロ戦」と略して呼ばれる「零式艦上戦闘機」いう戦闘機の名機もこの年に開発されたので下2桁の「00」を採って名づけられた。このことは年配の方には馴染み深い逸話である。

 戦後は昭和20年代前半に「アンドリュース商会」という会社がスポンサーをした社会人チームがあった。アンドリュース商会は詳細不明だが熱処理材などを扱う代理店であったようである。立教大学アメリカンフットボール部のOBが数名勤務していた関係でスポンサーになったものと思われる。しかし、戦績などは未確認である。

 昭和20年代。1950年(昭和25年)当時は「大阪市警視庁」と呼ばれた現在の大阪府警にフットボール部ができ、関西学院大学が最初に甲子園ボウルに優勝したチームのキャプテンであった渡邊年夫が警視庁に入庁しここでもキャプテンを務めた。

 昭和30年代から40年代前半。関東では1957年(昭和32年)秋に明治大学、立教大学OBを中心として「東京ラムス」が結成され、それに続いて日本大学OBを中心とした「不死倶楽部」もスタートした。慶応OBで結成された「東京クラブ」というチームもあった。ラムスは3年間ほどの活動を行なった。不死倶楽部は活動を続け、その後チームはシルバースターに継承される。また1966年アパレル・メーカーのVANに実業団チームができた。関西では1961年、滋賀県の三菱樹脂の長浜工場に社会人チームが生まれた。

 昭和40年代後半。1970年代に入り社会人のリーグが生まれる。関西では関西アメリカンフットボール連盟が創設された。この後1980年代前半にかけ東西でひとつの大学のOBを中心とし、勤務先の異なるメンバーで構成されたクラブ・チームがリーグを立ち上げた。一方、同一企業に勤務するメンバーからなるチームにより実業団リーグができた。松下電工、現在のパナソニック電工はこの動きのなかで1974年に創部された。

 1984年までいくつかのリーグが並立していた。1984年、日本アメリカンフットボール協会の50周年を期してそれまで東西学生のオールスター戦であったライス・ボウルが学生代表と社会人代表による日本選手権に衣替えされた。これにともない社会人の代表を決めるため東西3つのリーグが1985年8月に統一され、日本社会人アメリカンフットボール協会(金沢好夫理事長:当時)が創設された。

 その後何度かの改革を経て1996年に「Xリーグ」がスタートした。リーグ戦のあとに上位6チームによりトーナメントを行いチャンピオンを決定する方式が新リーグ開始の時から始まり現在に至っている。

 ※社会人の歴史について詳しくは『関西アメリカンフットボール史』を参照
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2008年12月10日

#27 1930年(昭和5年)のフットボール ―父とフットボール―

 生前の父とフットボールの試合を観戦したのは1993年の関学・京大戦が最後になった。振り返って見るとそうであって当時それが最後になるだろうと思っていた訳ではない。1993年11月21日、時ならぬ土砂降りとなった。現在は地球温暖化といわれ、冬にもスコールのような雨が降るがその当時はかなり珍しかった。沛然たる豪雨のために今は取り壊されてなくなった西宮スタジアムの人工芝が冠水し流れができた。観客は大雨をさける鳥たちのように狭い銀傘の下に蝟集(いしゅう)した。後半になって雨が上がりかけたとき東の空に虹がかかった。父が最初に見つけ、試合を忘れて見とれていたことを鮮明に覚えている。

 父は旧制中学のとき授業でフットボールをしたと言っていた。生まれたのは1917年(大正6年)和歌山である。第二次世界大戦の終結する前年であり、ロシア革命が起こった年でもある。日本にはじめてフットボールを紹介する岡部平太がこの年の6月、嘉納治五郎の命によりアメリカ留学に旅立った。

 フットボールをしたというのは1930年(昭和5年)のことである。この年、旧制県立和歌山中学校(現在の桐蔭高校)に入学し、1935年(昭和10年)卒業した。旧制の和歌山中学は父の表現によれば「中等野球」すなわち現在の高校野球の強豪校で、昭和のはじめには甲子園の夏の大会で連覇を遂げるなどスポーツも盛んな文武両道の学校だった。当時の和歌山人は和歌山弁で、
「野球、見にいこらよ」
とさそいあって甲子園まで出かけたそうである。昭和のはじめラジオが開局した頃、電気店の前に野球のダイヤモンドを模したボードがしつらえられた。走者が出ると塁と塁の間に切られた溝に沿ってランナーに擬されたマークが棒によって進められ、スコアー・ボードと合わせて見るとゲームの進行が分かるようになっていたということである。この棒の操作をしていたのは父の母、つまり私の祖母である。和歌山市の繁華街でビクターの特約店をしていた。

 父がフットボールをしたことを話したのは1993年前後である。私がフットボールの歴史を書くきっかけとなったのは1995年の阪神大震災だったのでその頃はまだフットボールに対しての歴史意識がなく聞き流してしまった。今、思えばもっと詳しく聞いておくべきであった。父は京都帝国大学でサッカーをし、ラグビー観戦も好きだったのでフットボールと取り違えることはない。そのためフットボールの歴史研究を始めた1998年以来ずっとこのことを実証したいと思っていた。

 2006年、東京転勤中の冬のある休日、吉川太逸先生※にお借りした資料を読んでいたときだった。『第十回全国高校タッチフットボール大会記念号』に「タッチフットボールの思い出」とあり橋本順治という方が下記の文章を書かれていた。橋本氏の肩書きは滋賀県タッチフットボール連盟会長だった。
 「 」内は引用。文字使い、文章は原文のまま。( )内のふりがなを追加。
※吉川先生については#4参照

 「昭和五年頃和歌山の中学校へ体育教員をしていた頃のことですが、当時体育の時間は殆ど徒手体操と器械体操が主でありスポーツの時間は極く少く生徒達は体育の時間をあまり喜ばなかった。殊に服装も体操服でなく上衣をぬぐだけのことで充分なる運動も出来かねた。それと云うのも軍事教練が主であって体育なんてまるでアクセサリー位にしか考えられなかった時代だから止むを得なかった。而(しか)し何とか生徒の気合を高めるスポーツをやらせたいと考えてラグビーをやらせてみたが、グランドが堅く且(か)つスクラムが仲々組めないので何とかいゝ方法はないものかと思っていた時、たまたま映画でアメリカンフットボールを見てこのスクラムを見てこのスクラムをもちいラグビーをモデフィしてやらすと仲々面白く生徒も喜んで且つ危険も少ないようなので冬季スポーツとして体育時間に取り上げたこと思い出し現在のタッチフットボールによく似たものだったと今更(いまさら)なつかしみと親しみを感ずる次第であります」

 思わず座り直すような驚きだった。探していたものだ、と思った。電話番号案内で桐蔭高校の番号を確認し、掛けてみたがすでに個人情報保護法にガードされていて、いかなる情報も得ることができなかった。父の在籍期間の再確認と橋本順治氏の奉職時期を調べたいと思った。父との関係を証明するためには戸籍謄本などが必要だという。父のことは教えてもらえたとしても橋本氏のことは無理であることが分かった。

 東京と和歌山とは離れていて出向くには時間がかかるため、しばらくそのままにしておいたのだが、あるとき思いついて筑波大学に行ってみることにした。やはりまだ東京勤務していたときである。理由は筑波大学の前身である東京高等師範学校のラグビー部のメンバーが1927年(昭和2年)に『アメリカンフットボール』※という本を編纂し、同年6月、本社を越後長岡に置く目黒書店というところから出版していたからである。目黒書店には東京支店があった。この本と高等師範学校のことについては項を改め詳しく書く予定だが、今回必要なことがらは次のことである。
※この本は主として図書館などに現存するが、その数は10冊に満たない。古書店にも出ないため、2004年、古川明さんと復刻版を出版した。

 『アメリカンフットボール』序文より抜粋。
「一、 二ヶ月前東京に於いてかの米国イリノイ大学の名選手グレンージの活動写真が開封されたので高師のラグビー部員は痛切に刺激され主となって又、始める事に決定し・・・・・」
 
 このくだりを思い出し、直感的に橋本氏は東京高等師範学校の出身ではないかと思ったからである。

 はたしてそうであった。1929年(昭和4年)1月卒業、体育科甲組。甲組は体操を専科としていた。高等師範学校の1931年の記録では勤務先が和歌山中学校となっている。あとは和歌山中学校側での確認のみである。

 1927年、高等師範学校が前記の『アメリカンフットボール』を出版するきっかけとなった映画があった。それが1927年正月明けに封切られた「かの米国イリノイ大学の名選手グレンージの活動写真」だった。日本語タイトルが『誉(ほまれ)の一蹴』、原題“One minute to play”である。今秋、つい先ごろもグレンージ※をモデルとした少し気恥ずかしい題名『かけひきは、恋のはじまり』、原題“Leather Heads”という映画が公開されていた。
※Harold Edward “Red” Grange 1903〜1991
イリノイ大学のスター・ハーフバック。特に1924年のシーズンに大活躍し、鳴り物入りでプロとなる。シカゴ・ベアーズ、ニューヨーク・ジャイアンツに在籍。出場したゲームでは6〜8万人の当時としての大観衆を集めたという。“Red”は彼の頭髪の色に由来するニックネーム。大学、プロ両方で最初にフットボールの殿堂入りを果たした。フットボールの全期間に渡ってのベスト・チーム・メンバーにも選ばれている。ジム・ソープと並ぶ名プレーヤー。

 1927年『アメリカンフットボール』の出版に先立ってフットボールのゲームが行なわれた。4月30日、旧制成蹊高校グランドおいてである。成蹊高校は三菱財閥の岩崎小弥太が理事長をし、英国流のパブリック・スクールを範としていたので芝生のグランドがあった。高等師範学校であるためアメリカのテキストの通りに行った場合、実際にできるのかどうかのテストを行った。防具も用意された。このゲームに参加したラグビー部員の中に塩崎光蔵という人がいた。橋本順治は塩崎と甲組で同級生だった。塩崎はこの本の翻訳チームにも加わり、のちに筑波大学ラグビー監督※になった。
※厳密に言えば塩崎監督のときは筑波大学という名称ではないが、名称の履歴にそい旧名で表してもイメージがわかない方も多いかと思われるので分かりやすさのため本稿ではこうした。

 『アメリカンフットボール』の復刻を新聞記事にしていただいた。それをご覧になった伊與田康雄氏というかたから出版社を通じて連絡をいただいた。以前筑波大学のラグビー部監督をされていたということであった。連絡いただいた当時は大阪の大学に勤務しラグビー部の監督を引き受けられていたので、お訊ねし話をうかがった。塩崎光蔵氏は大先輩にあたり、塩崎氏は後継者である伊與田氏に自分たちは日本において最初期にアメリカンフットボールのゲームをしたメンバーであることを口伝されたそうである。「塩ジイは」と伊與田氏は切り出された。「私に、君はぼくの後継者だから伝えておきたい。ぼくらはね、岡部さんの後を引き継いで昭和のはじめにアメリカンフットボールをしたんだよ、と言っておられました」

 こうしたことがあったのち休暇で大阪に帰った。母にこの一連の話をしたところ、心あたりがあるのでちょっとまちなさい、と言った。母は父の遺品である本の類をすべて残していた。旧制和歌山中学校卒業生名簿。母が取り出してきたのはそれだった。旧職員の名簿も記載されていた。

 橋本順治、昭和4年11月赴任、昭和6年8月まで在籍。

 母よ、でかした! 息子孝行な人である。こうして欠けていたジグソーパズルの最後のピースが埋まった。
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2008年12月03日

#26 日本大学のひとびと

 勝者はつかの間の勝利の喜びを感じ、同時にその重さを受け止める。敗者は敗北から学ぶべき長い季節が始まる。2008年度の関西学生アメリカンフットボール・リーグが11月30日に終わった。

 0−57。1955年(昭和30年)11月23日の甲子園球場、関東代表聖学院高校が関学高等部に敗れたスコアーである。この日は先に記したように関西学院大学と日本大学が甲子園ボウルではじめて対戦した日である。第8回の東西高校タッチフットボール王座決定戦は大学の試合に先立ち、同じ甲子園で午前11時半にキックオフされた。保坂侑男は聖学院の選手だった。敗れたあと保坂は大学のゲームを観戦した。第4Q、残り40秒、ゴールまで82ヤード、20−26とリードされ追い詰められた関学は、QB鈴木が乾坤一擲(けんこんいってき)のロング・パスを投げエンドの西村が50ヤード付近でキャッチした。残り50ヤード、あごを上げた特徴のある走り方で西村は保坂の前を駆け抜けて行きタッチダウン、同点とした。保坂は鈴木や西村にあこがれ日大でフットボールを続けようと思った。そして57点差を逆転し、打倒関学を果たす決意をした。チームメイトの吉岡龍一をさそった。二人は日大でQB、RBとして日大の中心選手となり第一期黄金時代を築く。

 保坂侑男さんとお会いした。日本大学の須山さんの次のクォーターバックである。須山さんはアンバランスTの最初のQBであり、保坂さんは後にショットガンとなるショート・パント・フォーメーションの最初のQBである。須山さんが紹介の労をとってくださった。飛田給の駅で待ち合わせた。おふたりの顔は似ていないがたたずまいに共通するものがある。繊細とイナセである。

 日大、篠竹監督は詩作し、シャンソンやロシアの「百万本のバラ」を好んだ。「百万本のバラ」にはフェニックスの真紅がオーバーラップしている。QBにはシャンソンを歌うことを要求しリズムを重視したという。QBがHB(ハーフバック)にハンドオフ、あるいはそのフェイクをするとき一定の距離に渡ってステップをシンクロナイズさせる必要があった。ソシアル・ダンスの息の合ったパートナーに求められる足運びである。

 須山さん、保坂さんとも「なぜ、QBに選ばれたのか分からない」と言われた。保坂さんは足が速かったので入部当初、HBだったがのちにQBにコンバートされた。お二人とも同じ木から彫リ出されたように見える。竹本監督、篠竹監督それぞれが二人に詩(うた)心を感じたのではあるまいか。

 すぐれたスポーツマンは詩人のこころを持っている。ベースボールのイチローしかり、マラソンの君原健二しかり。最近、君原健二著「マラソンの青春」という本を読んだ 筑摩少年文庫というシリーズに収録されている。時事通信社から出版されたものの抜粋であった。うちの奥さんが少年文化館というところのリサイクル本の山から見つけてきてくれた。本を精読した人の軌跡が感じ取れた。体験に根ざしたことばの経済があって、ストレートに心に入ってくる。

 『日本大学アメリカンフットボール部50年史』に詩人の書いた文章があったのでそのまま転載させていただく。以下引用

 その時、関学のQB鈴木智之の指を離れたボールは、私にとってあまりにも印象的な軌跡を残して、疾駆するRE(ライトエンド)西村一朗の頭上へと劇的な弧を描いた。その瞬間甲子園は得も言われぬ静寂に包まれた、たしかその時タイムアップのピストルが鳴ったように思った。あの30年(1955年)に私の日本大学アメリカンフットボール時代が始まったのだと思う。
 此の衝撃的なシーンに遭遇したことが、その数時間前に高校日本一を決める為に、此の同じグランドで関東代表校聖学院の一員として梶主将の率いる関西学院高校と戦って51−0(※1)とコテンパンに敗かされたこと等は既に遠い過去の出来事の様に成って仕舞ったのである。高校卒業の後は芸大の彫刻に進み塑造を勉強することに決めていた此の頃の私にとっては大袈裟に言う様だが、実に重大な数秒間の光景だったと言える。
 一瞬の後、そのほとんどが関学の応援である甲子園のスタンドは昂奮と歓声の坩堝と化していったのは、ごく自然な成り行きだった。その騒ぎの渦の中で私は頭の中が真っ白に成りながら、少し上を向いて顎を突き出して弾む様に一直線に駆け抜けて行く西村の後姿を呆然と見ていた。此の素晴らしい関西学院大学のチームを木端微塵に打ち砕くことが私の目標になったのは此の時だった。私が日本大学アメリカンフットボール部の門を叩いたのはしごく当然の行動だった。・・・(中略)・・・
 篠竹コーチが監督に成られた春。(※2) 
 上級生が誰もいなくなった、しかも日大は関東リーグ四連覇、全日本二連覇中なのである。我々には敗戦という事は有ってはならない。勝利のみが唯一無二の使命なのだ、こんな辛いフットボールは初めてだった。横山主将を中心に他の四年生と悩み、模索した。その結果この不器用な我々に出来ることは、己のベストを尽くして足が摺りきれるまで走って走りまくることだという結論に至った。決して私的には仲の良い気の合った4年生が揃っていた訳では無いが、それからの一年間お互いに競い合い体をぶつけ合って同一の目標に向かって走り続けたと思う。
 肝心の横山主将がリーグ戦に入ると早々に入院してしまった。然しもうその時には日大は奔流の様に一つの方向をめざして猛り狂う様に走り始めていた。
 横山主将がギブスを付けたまま関学の梶主将にぶつかって行った、我々は関学を倒した。
 翌日はうららかな良い気持ちの朝だった、甲翠荘(※3)の庭で目を閉じて顔を空に向け温かい初冬の陽光をいっぱいに浴びながら、色々なことを思い出して居た。ふと「あッ俺はもうパスディフェンスのことは考えなくて良いのだ。」と気付いた時に全ては終わったのだなと思った。そして、ついにあの31年度の関西学院大学のチームとは相対することは出来なかったのだと思った時、一抹の淋しさが残った。(※4)

「日本大学アメリカンフットボール部50年史」より第一期黄金時代、吉岡龍一氏の書かれたものより抜粋。文字使いなど原文のまま。

※1 吉岡さんの記憶違いで実際は57-0
※2 篠竹氏が監督になったのは1954年(昭和34年)
※3 甲子園球場の近くの旅館
※4 昭和31年度、関学、鈴木氏、西村氏は最終学年であった吉岡さんは昭和31年1年生のため対戦機会がなかったと思われる

保坂さん、吉岡さんが在学時代の関学‐日大の対戦成績
1956年(昭和31年)関学33−0日大
1957年(昭和32年)関学14−6日大
1958年(昭和33年)関学12−13日大
1959年(昭和34年)関学0−42日大

吉岡さんは2008年5月他界された。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 09:18| 記事