※#2 site seeing 米田満先生参照
優れた新人が入部した。先回までに紹介したエンド、篠竹幹夫。3、4人からタックルを受けても倒れず、必ず3、4ヤードゲインする大型ハーフ・バック小島(おじま)秀一。小島は山形県の新庄北高校出身で体が大きかったためキャンパスを歩いているところをリクルートされた。夏場はサッカー、相撲を行い、冬はノルディックで国体に出場したアスリートだった。ノルディックの距離競技の習性で走り方はすり足だったが、鍛えぬかれた足腰の強さを発揮しタックルされても数人を跳ね飛ばして進んだ。
関西遠征し連戦して実力を蓄えた。甲子園ボウルの覇者関学との対戦は時期尚早とみる者が多かったが竹本監督は押し切った。立教との対戦が望ましかったが、当時はリーグ戦での対戦校にプレシーズンで挑むというのは常識の範囲外であったからである。関学は基礎がしっかりしており、スカウティングにすぐれている、というのが竹本監督の関学評だった。
代々木八幡駅に近い初台の民家を借りて合宿所にしたのは1953年だった。生活をともにすることでチームワークが高まった。
新しい攻撃フォーメーションの創造に力を注いだ。それまでのシングル・ウイング、Tフォーメーションの長短を比較した。
@ シングル・ウイングは展開が遅い
A Tフォーメーションはスピードを活かせる
B アンバランス・ラインは相手がとまどう
得た結論がアンバランスTフォーメーションだった。
1954年(昭和29年)、少ない部費の中から16ミリカメラが購入された。2万5千円だった。同年の公務員の初任給は8千7百円である。マネージャーが対戦チームをスカウティングした。マネージャーの役割が重んじられていた。チームの主要メンバーがそう考えたからである。1955年、リーグ初優勝を事実上決定した立教戦の朝、主務の米原達朗は選手達の激しく高まった戦意を感じた。昂ぶりをこぼすことなく神宮競技場の控え室にそのまま持ち込みたいと考えた。もし、電車で移動したら外気のためにその熱気が消えうせることを危惧したからである。マネージャー全員にタクシーを拾いに走らせた。1、2軍を燃え立つまま神宮に送り込むことに成功した。監督に説明している時間を惜しんだ。相談したのは笹田と篠竹の2人だけで米原の独断に近かった。結果は大方の予想に反して日大の勝利になった。このあと残る法政戦に勝ち、駒を進めた甲子園ボウルが引き分けに終ったことはすでに述べた。
甲子園ボウルでは同じ極点まで到達した両チームに勝利の女神も決断をためらった。
チームの中心を担った4人は三国志の「桃園の誓い」のようにつどった。 卒業後、笹田は審判、篠竹はコーチ、小島は協会を担当して理事、米原はマネージャー指導、とおのおの役割を担ってそれぞれがやり遂げた。
2度目のインタビューのあと竹本さんは生田の駅まで送ってくださった。手を差し出され握手をして別れた。握手している竹本さんのうしろにハワイの雲ひとつない青空が広がっていた。青空の悲しみが一瞬通り過ぎて、竹本さんが「サヨナラ」と言った。
翌年のヨコハマ・ボウルで竹本さんと米田先生は数十年後の再会をされた。雑誌『タッチダウン』が二人並ばれた記念写真を撮ってくれた。それから短い時が流れ、横浜スタジアムにつきそってこられていたお嬢さんから竹本さんの訃報が届いた。

竹本さんの描いたアンバランスT