2008年07月25日

#15 「金ぴか時代」とフットボールの展開 その3

 古川明さん※に連絡していただき渡辺年夫さんとお会いした。渡辺さんは関西学院大学が1949年(昭和24年)、甲子園ボウルに初出場、初優勝したときのキャプテンである。明快と同時に透徹したユーモアの眼をお持ちの方である。春秋に富んだ人生を客観的に淡々とお話ししてくださった。冷静である。ときに湖面をかすかな風が通り過ぎたように、目に見えるか見えないかのさざなみほどの変化が表情を通りすぎる。
※古川明さんについては#3をご参照ください。

 DVD“FIGHT ON, KWANSEI”の台本を書かせていただいたとき、FIGHTERSのCONSISTENCY(堅固さ、持続性)をテーマにさせてもらった。他の大学のさまざまな方から「強さの秘密は何ですか?」と聞かれることがこれまで何度かあった。部のOBではないが母校のことなので面映く、それまでは「さあ、なんなのでしょうね」とのみ応えさせていただいていた。DVDへはその問いかけへの回答の一部を入れさせてもらった。DVD制作時点では渡辺さんのことは仄聞(そくぶん)に留まっていた。一度ご本人にお話をお聞きしたいと思っていたことがかなった。先日も書いたが今回のインタビューも含め終戦後の数年間を時系列に書く予定である。現在その準備をしているので目途がついた時点で書き始めたいと思っている。

 今回は「金ぴか時代」のフットボールの展開をまずランキングされたチーム数と各チームの1シーズンのゲーム数から見ていきたい。1869年にラトガーズ大学とプリンストン大学のゲームがあったとき※から大学対抗の対戦記録が残っている。この年は2校、2試合のみである。翌1870年は3校、ラトガーズ大学がプリンストン大学、コロンビア大学と対戦している。1871年は対抗戦の記録がない。1872年は上記にエール大学とスティーブンズ・テックという大学が加わる。前回紹介した大学フットボール連盟が結成された1876年はランキング校が6校になる。エール大学は連盟に加わらなかったが、この年無敗だったので1位になっている。しかし、この時期、一番ゲーム戦数が多いプリンストン大学でも5試合であり、エール大学は3勝0敗でのトップである。2位はハーバード大学だった。
※#1参照

 10年後の1886年、最もゲーム数が多かったのはペンシルバニア大学の17ゲーム、ランキングされた14校の平均ゲーム数は約9ゲーム、最も少なかったラトガーズ大学とダートマス大学は4である。そして1896年にはランク校が30校と10年前に比べ倍増する。対戦数は平均すると10ゲーム前後になる。シカゴ大学が19ゲームで抜きん出て多い。

 この明らかな数字の増加は1880年代にルールの整備が進んだ結果と見ることができる。1880年代の終わりころウォルター・キャンプによるオール・アメリカンの選出も始まり、同じころフットボールの新聞報道も増えて行った。

 まだ時代は荒々しかった。西部開拓時代は1889年まで続いた。1890年の国勢調査の結果がフロンティアの消滅を証明したというのが定説になっている。この時代の空気は西部劇を考えてみると良く理解できる。手がかりとして人物の名前を順不同に列挙する。ワイルド・ビル・ヒコック、ビリー・ザ・キッド、ジェシー・ジェームズ、ワイアット・アープ。このワイアット・アープが登場する「OK牧場の決闘」は1881年のことである。日本でも決闘を禁止する法律が規定されるのは1889年のことであるので同様の猛々しい空気を共有していたことになる。

 同時代人であったジョン・D.ロックフェラー,Sr.は1863年にスタンダード・オイルを興し、1870年代の終わり頃、早くもアメリカ国内で90%のシェアを獲得した。しかし、1890年にはシャーマン・反トラスト法が下院において成立した。その結果1892年にスタンダード・オイル・トラストは解散命令を受けている。実際に解体されたのは1911年だがジョン・D.は1895年、韜晦(とうかい)して事業からの引退を声明した。一方1890年、ロックフェラーは2000万ドルの資金を拠出しシカゴ大学を創立した。アメリカンフットボール部もつくられた。コーチとして招聘されたのはのちに「コーチのコーチ」と呼ばれるようになるエイモス・アロンゾ・スタッグである。実質的な体育部長でもあった。スタッグはエール大学でフットボールとベースボールでオール・アメリカンになり卒業したあと、International YMCA Training schoolにいた。ついでながらダニエル・D.ルイスが2度目のアカデミー主演男優賞を獲得した作品である“There Will Be Blood”はスタンダード・オイルに対立する独立系石油会社を描いている。ダニエル・D.ルイスが演じる独立系石油会社を創設し事業のためには徹底して非情な主人公は、ルイスのメイクした風貌とその行動からジョン・D.を容易に連想させ、ロックフェラーに対する強いアイロニーを感じさせる作りになっていて巧みである。

 フットボールに話を戻せば、1892年には契約書が残る最初のプロ選手が誕生している。William W. Heffelfingerである。この正確な発音が難しい名前を持つプロ第1号プレーヤーはエール大学出身で1889年から3年連続、オール・アメリカンに選出されたガードの選手だった。このときの契約では当時の金額で1試合500ドルが支払われている。そのあと何人かのプレーヤーが契約をするのだがこの金額は破格だった。また、バックスのプレーヤーではなくラインがスターであったということも興味深いことである。1889年には現在もアリゾナ・カージナルスとして存続するモーガン・アスレティック・クラブが創設された。シカゴにできたセミプロのチームであった。現存する最も古いチームである。1920年、NFLがAPFA※として創設されたとき、シカゴ・カージナルスと改称された。その後もフランチャイズの変更とともにチーム名を変えながら、1988年に現在のアリゾナに本拠を移した。カージナルスというニックネームはシカゴ大学のフットボール・チームのジャージの色に由来している。
※American Professional Football Association
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 07:35| 記事