ときどき調べものがあって図書館へ行く。これまで夜の7時で閉館だと思っていたが、午後8時まで開いていることが分かった。平日、仕事の後に行けるので便利である。夏季だけのことかも知れないが、確かめないでおく。終って外へ出たら驟雨が来た。駅まで短い距離なのだがいかんともしがたい。激情的な降りなので一時的なものと思い図書館の軒にいてやりすごした。
図書館で古い新聞のマイクロフィルムを見ていた。巻取りがモーターで行えるものもあるが手回し式は風情がある。カラカラと音たててクランクを回していると幻燈機のカタカタという音を思い起こさせ何十年もタイムスリップする仕掛けとして心がなごむ。DVDの“FIGHT ON, KWANSEI”を制作した時、新聞社の方のご好意で読者サービス用に使っておられるマイクロフィルムを見るビューアーを操作させていただいた。新聞を等倍で見ることができ、かつローリングがダイヤルで自動的にできるのまるでスーパー・カーに乗ったようなスピードだった。プリントアウトも非常にきれいだが、いかんせん1枚数百円と高価である。従って調べもので一度に10枚近く頼むには適しない。
調べていたのは1950年の甲子園ボウルのことである。この年は年央に朝鮮戦争がはじまり戦後の日本は転換点にさしかかっていた。甲子園ボウルは前年に引き続き関学と慶応の対戦となり、関学が2連覇して第一期黄金時代を築く第一歩を印した年である。この年を含む終戦直後のフットボールの歴史についてはいずれ詳しく書くつもりである。ゲームは12月10に行われた。社告が2日前の8日に載っている。そこに対戦校名とならんで解説という表示があり、「三隅珠一」という名前が記されている。この頃から場内解説があったようである。三隅先生は#3で紹介したピーター岡田が旧制の池田中学へ指導におもむいたとき池田中学におられた先生である。その後日本のタッチフットボール普及活動の中心となり活躍された。全国高等学校アメリカンフットボール選手権大会、つまりクリスマス・ボウルの最優秀バックス賞に三隅杯としてその名が刻まれている。三隅先生については別に記事をもうける予定なのでここまでとしたい。
前置きが長くなったが、雨宿りの閑話としてお読みいただいていれば幸いである。1869年は前回書いたようにいろいろなことがらの始まりの時期と考えてよい。1870年代にアメリカにおけるメジャーなスポーツのスタートの時期を迎える。1874年、のちにアメリカンフットボールのいしずえとなるハーバード大学とカナダのマギル大学のラグビー・ルールによる対戦が行われた。その翌年、1875年、ケンタッキー・ダービーがスタートする。1876年、メジャー・リーグのナショナル・リーグが早くも設立される。この時のチームのひとつ、シカゴ・ホワイトストッキングス(現在のカブス)に属していたのがアルバート・グッドウイル・スポルディングだった。プレーヤーであり、またスポーツ用品メーカー、スポルディング社の創設者である。スポルディングはスポーツにおけるコミュニケーションの重要性をよく理解していたので関連書籍の出版も熱心に手がけた。のちに大正年間、東京高等師範学校附属中学の生徒たちがフットボールを行った際、丸善の店頭で手にしたのはこのスポルディング社から出されたスポーツ叢書の一冊“How to Play Football”だった。
同年1876年、フットボールにおいてはプリンストン大学がはたらきかけ、大学フットボール連盟※というフットボールにおける最初の競技組織が結成された。招待状が送られたのはその後半世紀にわたりフットボール界でリーダーの役割を果たすハーバード、エール、コロンビアの各大学である。しかし、エール大学はゲームを行うことには同意したが組織には加わらなかった。理由は連盟のルールではラグビーにならい1チームを15人としており、エールはこれに賛同せず11人を主張したからである。このエールのこだわりが結果としてフィールド内の1チームの人数を11人とした。それには「フットボールの父」と呼ばれるウォルター・キャンプに代表されるエール大学の精力的な活動があったからである。
※ Intercollegiate Football Association
1880年代は#2で紹介したようにウォルター・キャンプによるルール整備の時代に入る。日本へのフットボール伝来に大きな役割をはたすYMCAがスポーツ指導者育成のためのInternational YMCA Training School をマサチューセッツのスプリングフィールドに設立するのは1885年のことである。
関大のフットボール部設立にあたり松葉徳三郎とともに働いた石渡俊一は昭和のはじめこの学校に留学した。石渡の先人として大森兵蔵は明治末期にこの学校に学んだ。大森は帰国後、日本が最初に参加したストックホルム・オリンピック(1912年)の監督を務めた。このときの団長は嘉納治五郎である。オリンピック参加のために1911年(明治44年)、日本に体育協会が誕生し、日本のスポーツは黎明期を脱しようとしていた。団とはいいながら代表として送られたのはマラソンの金栗四三と陸上短距離の三島弥彦の2名であった。スプリングフィールドではカリキュラムにフットボールが含まれていたので大森はフットボールを体験した。石渡も授業でフットボールを学んだ。その講義内容は石渡が帰国後、「アサヒスポーツ」という大正年間に発刊された、現在でいえばスポーツ・イラストレイティッドのような雑誌にフットボールの入門記事を書くことができるだけの量とレベルにあった。
2008年07月17日
#14 「金ぴか時代」とフットボールの展開 その2
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 07:15| 記事