2008年07月10日

#13 「金ぴか時代」とフットボールの展開 その1

 まるで真夏のようである。降れば土砂降りから晴れれば蒸し風呂に変わった。セミの声は少し先だが、暑さを好むクマゼミの北限がどんどん北上し、関東平野でも大増殖しているという話だ。大阪でもクマゼミの数が急増しているという。調べるには脱皮した蝉の殻を集め、アブラゼミの数との比率を出すという。ここ20数年にわたり大阪各所の蝉の繁殖地でセミ殻を地道に集めている方々がおられると聞いた。歴史の調査もその作業と似ている。人手が必要で、ひとつのことばに至るまで多くの方の労力を要する。

 さて、前回の続きである。南北戦争が終わりアメリカは次第に都市化していった。この頃から19世紀末にかけての約30年間を、ハレー彗星とともに生まれ、彗星とともに去ったマーク・トウェインは「金ぴか時代」と名づけ、同名の小説を残した。「ハックルベリー・フィンの冒険」や「トム・ソーヤの冒険」で知られているこの作家は生まれた年にハレー彗星が観測されたので、かねがね去るときも彗星の年だと半ば得意のユーモアをこめて語っていた。

 「金ぴか時代」は急激な経済成長にともなう拝金主義の、いわばバブルの時代だった。ヴィクトリア朝イギリスのちょうど真中、折り返し点に当たる1869年、ラトガーズ大学とプリンストン大学の初の大学対抗フットボール・ゲームが行われたことは#1で述べたとおりである。大英帝国のたそがれへの序章が始まろうとしていた。そして南北戦争を終えたアメリカはパクス・アメリカーナを築く長い道のりのとば口にさしかかっていた。

 フォワード・パス採用以前の19世紀原初フットボールは現在から考えれば乱暴で危険な競技であったにもかかわらずなぜ廃止に追い込まれなかったか、という疑問がこれまでにも投げられかけてきた。代表的な回答は以下の2つである。

 第一は民俗フットボールから近代フットボールに移行する過程にあったため同時代人には存続の帰趨(きすう)を制するほどの乱暴とは映らなかった、というものである。

 第二。19世紀後半は、二度の世界大戦を含む戦争の世紀である20世紀につらなる国際紛争激化の時代であった。普仏(プロシア・フランス)戦争、希土(ギリシア・オスマン)戦争、米西(アメリカ・スペイン)戦争などが起こった。オリンピックを提唱したクーベルタンには普仏戦争に敗れた祖国再興のために青少年間にスポーツを振興させ強国を作るというもくろみもあったといわれている。こうした背景の中で南北戦争が終わり都市化が進み、金ぴか時代の進行とともにアメリカ人の間では国を守るために必要な勇敢さが次第に失われつつあるという危機感があった。したがって勇敢さの確保のためにフットボールは支持された、と考えられている。この考えは20世紀に入ってからもセオドア・ルーズベルト大統領、その後のウィリアム・タフト大統領にも引き継がれた。そして関西大学アメリカンフットボール部の創設者である松葉徳三郎は1932年、ロサンゼルス・オリンピック視察のおり、USC他のフットボール・ゲームを観て、まさにこの勇敢の精神を感得し、創部を決意したという。

 当初、東海岸で興ったフットボールは初秋から晩秋にかけての天候の安定しない中で行われた。英語に“sloppy”という単語がある。水っぽい、水浸しの、泥んこの、といった訳語が与えられている。筆者の観戦したハーバード大学とエール大学の対抗戦も霧とも雨ともつかない、大気に多量の水分を含んだ11月の空の下で行われた。戦争は天候を選ばず泥濘の塹壕戦ということもしばしばである。そうした状況下で悪条件をものともせず戦える肉体と精神の涵養が必要と切実に考えられていた時代であった。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 09:12| 記事