今から18年前にタック牧田(本名、牧田隆)さんが「神戸ボウルことはじめ」を書かれた。アメリカの大学院でマスターをいくつも取られた上、NFLで公式カメラマンをされている。島田勘兵衛氏とご同輩のはずなので少なくとも70歳代後半である。はやりことばに乗ずれば、後期高齢者ということになろうか。ごく最近まで、あるいはまだ現役でおられるかも知れない。以前に読んだ牧田さんの書かれたものによれば、ピッツバーグで撮影し、自分で車を運転、マイアミに翌日に到着、この間の寒暖の差が摂氏50度近くということであった。まさに読むだけでめまいが起こる行動力である。
神戸ボウルは前回書いたように第1回が1952年1月1日に行われた。第1回の優勝楯が残っている可能性についてお聞きしていたが、今回の調査の結果、第1回は神戸新聞社がまだ後援をされておらず、表彰式はなく,従って楯、カップのたぐいはなかったと判明した。豊さんが保存されているものは大会の回数表示が入っていないのだが前後から推測し第3回大会のものと思われる。今回記事に添付したものである。
関学の戦前からの先輩諸氏が早くから米田満先生を自分達の後継者と目し、現役時代からコーチの役割を託しておられた。米田先生は関西学院中学部、高等部の指導もされ、また弟の豊さんが在学されていた星陵高校にタッチフットボール部を作る手助けをされた。今年、関学の2年生クォーターバックで、アンダー19のスターターとして活躍した加藤君は星陵出身なので豊さんの孫の世代の後輩になる。
星陵高校の創部は1950年、同じ頃兵庫高校にもタッチフットボール部が誕生した。星陵、アパッチ、兵庫、マキショウ(タック牧田さんのあだ名)はそれぞれ両校の仲間達のためにアメリカのようにボウル・ゲームをしたいと考えた。タック牧田さんが書かれた記事の表現お借りすれば、「自分でフットボールを探し当てた人達」であった。このアパッチとマキショウが出会い、米田先生が作られた環境の中で「神戸ボウル」を実現した。
まだ創部間もなく部員の少ない両校はOBを含めての、全星陵と全兵庫の対戦となった。結果は6−0。前夜からの豪雨のため「七人の侍」の雨中の戦闘シーンのようであったであろう。
以下島田勘兵衛殿からの参戦記である。
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初期の神戸ボウルについて星陵サイドの思い出話です。昭和26年末、阪急甲東園駅前に10名以上の星陵OB、現役が集結、徒歩約20分かけて関学の部室に両軍の防具を調達に出かけた。全部人海戦術である。荷物車を手配できる優れ者などいない。調達した防具を全員で持てるだけ抱えて持ち帰ったものである。勿論返却の際も同じ動作を繰り返している。如何に防具をつけたアメリカンフットボールをやりたいかの一念あったればこそと想起される。
試合会場を村野工業高校に設定したのはアメリカンフットボールへの熱き思いからである。村野工業の位置は山陽電車長田駅(現在は地下鉄になっている)プラットホームから俯瞰して見下ろせるグランドになっている。すぐ近辺に正月は参拝でごった返す有名な長田神社がある。アメリカンフットボールのような競技など見たことのない人々に格好のPR材料になるとの確信をお互いの共通認識としてもったからに他ならない。
当日は米田満只一人による審判の試合であった。全く草野球ならぬ草フットボールである。しかしあのわくわくした熱い感情はいまだに決して忘れられないものである。
牧田隆の文のうち訂正しておきたいのは第2回東遊園地グランドでの一節である。2回から5〜6回までグランドの借り受けは星陵側で取り仕切っている。神戸市→神戸外人クラブのこの東遊園地グランドの管理責任者は橘さんという気性のすっきりした太っ腹なお方で我々の申し出を快く理解してくださって彼の一存でグランド使用を許可してくださったものである。礼金など一切受け取らないありがたいお方であったと記憶している。
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<私からの注>
牧田さんの文章では管理人に謝礼を渡したことになっている。この件でお二人が喧嘩をなさらぬことを祈っている。のちに無二の親友となる二人はこの第1回神戸ボウルでゲーム中にど派手なケンカをされたということである。現在なら退場かも知れない。