フットボールの世界で「赤と青」というコトバを聞くとき、多くの人は日大と関学のライバル関係を思い浮かべるのではないだろうか。先日、6月1日の日曜日、第22回のヨコハマ・ボウルで両校の対戦があった。このゲームの模様は日本テレビが制作し、地上波とCS局のG+でまだあと計2回放送される予定となっている。したがってその時初めてご覧になる方のために試合経過については書かないでおくのが礼儀だと思うのでこれ以上には触れない。
関学と日大は春の定期戦があるので毎年対戦があるのだが、甲子園ボウルでは1989年以来対戦が遠のいていた。関東学生リーグにおいて法政大学をはじめとする他大学の台頭があり、常勝日大は長く甲子園ボウル出場を阻まれていた。しかし昨年、1990年以来17年ぶりに甲子園ボウルに登場し関学との対戦となった。両校が過去に積み重ねてきた名勝負におとらぬ接戦を繰り広げ、稀に見る好ゲームとなったのは記憶に新たなところである。
両校の創部はほぼ同じころである。日大、1940年(昭和15年)、関学、1941年。1934年(昭和9年)、1935年に関東で明治、早稲田、立教、慶応、法政、関西で関大が相次いで創部したあと、しばらく大学のフットボール部設立に空白期間があった。6、7年をおいて日大、関学、関西で同志社が日大と同じ1940年に創部したのをもって戦前の創部活動は終った。戦局が悪化しフットボールは敵性スポーツとみなされたからである。競技の名前も「鎧球(がいきゅう)」と呼びかえられ、1943年には強制的に活動を停止させられた。
戦後、フットボールの復活は比較的早く、関西,関東とも終戦の翌年、1946年に、学生連盟を再発足させている。関学はその年から計画的にチームの強化を計り、1949年(昭和24年)には甲子園ボウル初制覇という成果をあげた。翌年連覇を果たしたが、立教大学がTフォーメーションという当時においては新たな戦術を取り入れ、1951年、1952年と甲子園ボウルを制した。このあと関学は中学部からタッチフットボールに親しんできた世代が高等部、大学と一貫してフットボールを続け、1953年から甲子園ボウル4連覇という第一期黄金時代を築く。
日大は踵(きびす)を接するように1952年から4年計画で本格的な強化に取り組んだ。大学の系列高校を中心に優れた人材をリクルートし、ハードかつ科学的なトレーニングを続けた。そして4年目の1955年、甲子園ボウルに初出場し、関学と同点優勝を果たす。その日大に間接的にだが、ひとつのきっかけを提供したのは関学だった。
関学が甲子園ボウルを初制覇した1949年、暮れも押し詰まったころ、関学アメリカンフットボール部に突然の来訪者があった。人物は大阪警視庁のものだと名乗った。現在の大阪府警は当時、大阪警視庁と呼ばれていた。警察からの不意の訪れに、部員は甲子園ボウルの祝勝会で羽目を外したことへの咎めかと緊張したという。しかしことはまったく意外な展開となった。時の警視総監、鈴木栄二の肝いりで大阪警視庁にフットボール部をつくるのでその相談に預かってほしいというものであった。
翌1950年1月、大阪警視庁にアメリカンフットボール部が発足する。関学甲子園初優勝の闘将、渡辺年夫主将が中心となった。渡辺が厳しい指導を行い機動隊員を鍛え上げ、大阪警視庁は非常に当たりの強い厳しいフットボールをする強いチームに育った。
日大が大阪警視庁と相まみえた。このとき対戦した日大のかたのことばをお借りする。「・・・対戦してその体当たり精神に木端微塵に粉砕されたが、相手が新生チームと侮っていたばかりにその強烈な闘争意識に圧倒された・・・」。こうした経緯があったのち、関学、日大両校が最初に対戦したのは1954年(昭和29年)9月6日である。そのとき関学は日大が大阪警視庁と対戦したとき日大が警視庁から受けた印象と非常によく似た激烈な衝撃を日大から受けたという。このとき以降の日大がまさしく大阪警視庁のようなチームであるのはらせん状に進む歴史の不思議である。
ついでながら当時の関西学生リーグは秋のリーグ戦が9月の下旬から始まっていたので9月はじめにこうした交流戦を行うことが可能であった。この年と翌年、春秋数度の交流戦を経たのち、第1回の定期戦が行われるのは1967年である。各年の対戦結果については、折り良く「タッチダウン」誌が最新号、No.468、7月号の巻末で東西大学1部各校の定期戦を一覧表にまとめておられるのでそちらを参照いただければ幸いである。