1951年(昭和26年)11月6日のゲームである。相手は関西学院中学部。当日のゲームで大阪市立北稜中学の挙げたタッチダウンはこの一本のみだった。結果は24−7で関学が勝った。両校は1949年から年に一度、ゲームを行ってきた。
1949年 11月3日 関学中学部 19−6 北稜中学 関学グランド
1951年 3月21日 々 45−0 々 西宮球技場
前回の記事に書いた集まりのとき一刀さんにも来ていただいていた。一刀さんは1949年度から1951年度まで北稜中学に在学された。大阪市の市立中学で昭和20年代にタッチフットボールが行われていたのは「関西アメリカンフットボール史」に書いた通りである。米田さんとのインタビューをはからってくださった方が一刀さんもご存知で、すでに昨秋はじめにご紹介いただいていた。遠い以前に部がなくなっていることもあり、本を制作した2003年時点では北稜中学でプレイされた方々の消息がつかめていなかったからである。
1951年11月6日のゲームの時、関学中学部のチームにハドルで「ダック」と呼ばれている少年がいたと一刀さんは記憶されている。一刀さんが進学された大阪府立北野高校に泉陽一郎という同級生がいた。泉は関学中学部出身で二人はともにサッカー部に入部した。その泉が関学中学部のタッチフットボール部に一刀さんを知っているものがいたといった。その生徒のあだ名が「ダック」だった。昨秋お話をしているとき一刀さんはふとその「ダック」のフルネームを知りたいといわれた。できれば会うことができれば、とも。その後、関学中学部の同学年の方たちはもちろんのこと前後の学年の方々にもお問い合わせしたが該当する人がいなかった。
集まりで一刀さんから「ダック」の話が出た数日後、米田さんが両校の記事が載った雑誌を捜してくださった。フットボールの専門誌「タッチダウン」に掲載された記事である。関学中学部タッチフットボール部のセイル・アウト・メンバーで、大学において史上初の甲子園ボウル4連覇を果たした学年の丹生恭治が書いた記事である。丹生は卒業後、共同通信社に勤務し、同時に「タッチダウン」社の顧問となってフットボールの啓蒙、普及に膨大なエネルギーをそそいできている。4半世紀以前「タッチダウン」に「フットボール夜話」というエッセイの連載を行った。この連載の中で「関学の話」というシリーズ・イン・シリーズの企画が1984年春から始められた。企画の第8回に両校の最初のゲーム実現までのはなしと簡略な試合内容が記載されている。
1949年11月3日に行われた関学中学部と北稜中学のゲームは双方ともに創部第一戦の試合だった。まだ新制中学は一年前にスタートしたばかりであり、タッチフットボールの組織もあるかなきかの時代だった。指導教官の助けはあったものの、日本フットボール史に名クォーターバックとして名前を残す鈴木智之が奔走してほぼ独力でこのゲームを実現した。鈴木は実業家として成功し、フットボールのために今なお多大の貢献を続けている。英独二ヶ国語に堪能であり日本の枠をはるかに超えたコスモポリタンである。その優れたプロデューサーの資質の片鱗をこのときすでにかいま見させていた。「関学の話」が書かれた1985年時点でもこの最初のゲームからはすでに36年が過ぎており、いくつかの断片を除き試合経過や北稜中学についての詳細は遠い記憶のベールのかなたにある。
残念ながら3回目のゲームの記載はなかった。一刀さんに「ダック」のことを話した泉もすでに2年前に他界している。したがって現在、まだ「ダック」のセカンド・ネームは不明のままである。
ただ下記のように1949年度のメンバーは写真ながら59年ぶりに邂逅(かいこう)した。左が北稜中学、右が関学中学部である。1年生の一刀さんは前列左から2番目で賞状を持っている。関学のほうには米田さんが現時点で判明している名前をいれてくださった。一刀さんと同学年の「ダック」もすでにこのメンバーの中にいてファインダーにむかって笑っているかも知れない。
