2008年05月01日

#3 高校フットボールとNOBLE STUBBORNNESS

 27日の日曜日は良い天気だった。素晴らしいフットボール日和である。万博公園にあるEXPOフィールドへ高校のゲームを観に出かけた。大阪府の北部一帯は北摂と呼ばれる。その昔、摂津の国がありその北の部分に位置する地域なので「北摂」なのであろう。北摂はフットボールの盛んな地域である。フットボール部のある高校が蝟集(いしゅう)している。

 日本が戦争に敗れた翌年の1946年秋、まだ夏の気配が残る頃、一人の日系アメリカ軍人が映画「シェーン」のようにふらりと北摂にある旧制池田中学と豊中中学に現れる。そしてフットボールの種子を蒔き帰国した。関西学生アメリカンフットボール連盟理事長、日本アメリカンフットボール協会理事長を歴任した古川明、甲子園ボウルで関西学院大学が初めて勝利を収めた1949年、その原動力となった故徳永義雄はそれぞれ池田中学、豊中中学在学時にこのフットボールの伝道師と出会った。二人はのちに関西学院大学でチームメートとなり甲子園ボウル初制覇を成し遂げ、終生かわらぬ親友となった。生涯を通じ協力しあってフットボールのために尽くした。名神高速道路の工事にともない閉鎖されていた西宮球技場が1966年に再開されるに当たり、しばし途絶えていたフットボールでの使用の道を復活させた。その後、西宮球技場は長年関西のフットボールの中心となっていた。時が移った2003年、西宮球技場は取り壊されたがそれまでの30数年にわたるたゆまぬ努力の結果フットボールはすでに自らの翼で飛べる力を蓄えていた。フットボールのシェーンの名はピーター岡田である。

 ピーター岡田の指導は短期間だったが、古川がその後の人生をフットボールにささげる端緒をピーター岡田は開いた。古川は柔道の有段者だがピーターとの出会いによりフットボールに傾斜していく。はじめてグランドに立った日、ピーターは少年たちの緊張をやわらげるため「フットボールで遊びましょう」と言った。

 生前の徳永から聞かせてもらった思い出話がある。まず少年たちに楕円のボールを投げさせた。徳永が投げたボールは自然にスパイラルがかかり、きれいな軌跡を描いて飛んだ。「クォラ・バック」とピーターは言った。クォーター・バックという言葉がそう聞こえた。ピーターの言葉に天啓を受け「その瞬間すべてのものから解放された」、と徳永は語った。スポーツが少年に生きる道しるべを与えた。

 この日、筆者の出身校府立豊中高校と大阪産業大学附属高等学校が大阪府大会のトーナメント準決勝で対戦した。結果は豊中高校7−98大産大高。完敗である。
 
 前半すでに0−63、第2クォーターに大産大高は49点を挙げていた。関学大、日大が最強の時期に記録したかどうかというようなスコアである。それでも豊中高校のベンチではお互いに鼓舞しあう声が途絶えなかった。万博のフィールドはスタンドの距離が近いため、ハーフタイムのハドルで豊中高校監督の佐藤剛が話すサイドラインからの声が春風に乗り切れ切れに聞こえる。「取りにいこう」。

 大産大高校監督の山嵜隆夫は強い信念を持って生徒を指導している。20数年かけてチームを着実に強化し、すでに高校選手権は5連覇を含め多くの優勝をおさめている。関西は長く関西学院高等部がその強さを保ちつづけてきた。1950年代から‘60年代にかけて204連勝を記録した。大学で関学が目標になってきたように高校でも関学が目標である時代が長く続いた。大産大高校も強くなるにつれて、この新たに高く成長した樹に対して風当たりが強くなったが山嵜はたわまず、生徒達にも常に全力を出し尽くすことを求めている。

 関学高等部の強さの源泉に前回紹介した米田満がコーチした中学部が大きな役割を果たしている。現在では少しずつだがフットボールもNFLフラグなどでジュニア層に広がり、昔ほどの優位性はなくなってきている。その優位を崩したのがこのフットボールの一般的な普及とチェスナット・リーグというジュニア・リーグである。1988年にこのジュニア・リーグは生まれた。当初小学生を対象としたクラブ・チームで構成されるリーグとしてスタートし、中学生のチームを作るまでに広がっていった。現在はさらに発展し、このチェスナット・リーグに属する中学生チームと学校のチームが手を携えて2003年から関西中学校アメリカンフットボール選手権大会を開催している。チェスナット・リーグ出身者の進学先は高校、大学とも多岐にわたり、それぞれのチームの主力として活躍するものが多数にのぼっている。チェスナットは文武両道、特によき人格形成に重きを置いている。この一連の活動を辛抱強く推し進めてきたのは池野邦彦である。池野は滋賀県の長浜南中学でタッチフットボールを始めた。進学した高校にタッチフットボール部がなかったため、創部に賛成しない学校と粘り強く交渉してフットボール部を創った。グランドに余裕がないというのが学校側の言い分だった。そこで池野は一年をかけて荒地を整地しフィールドをひらきその主張を認めさせた。社会人になってからもフットボールに献身し、現在日本社会人アメリカンフットボール協会の理事長を務めている。

 関西学院大学の体育会のスローガンは「NOBLE STUBBORNNESS」である。「気品の高い根性」と訳されている。英国の詩人、J. Drydenの詩の一節から取られた。勝利にはこのSTUBBORNNESSが不可欠である。STUBBORNNESSとSTUBBORNNESSがぶつかり合うとき、観る者もその張り詰めた強い磁場を共有する。

 第4クォーターを迎えた。豊中高校が投げつづけていたパスが立ちはだかっていた厚い壁を刺し貫く閃光となってタッチダウンを奪った。試合前に豊中高校が7−56でゲームを終えられたら豊中の勝ち、とひとり考えていた。大産大高校はこれまでの2つのゲームで82−0、63−0と相手チームを一蹴していた。失点は前半すでに勝手な想像を超えていた。

 ゲーム後の豊中高校のハドルで監督佐藤が「まだ終わったわけやない」といっているのがかすかに聞こえた。このあと勝ちつづけることができれば関西大会での再戦が可能である。

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豊中高校唯一のタッチダウン
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 11:11| 記事