2009年07月30日

#39 新彊ウイグルと日本における近代スポーツ

 新彊ウイグルに事件が起こり、北狄(ほくてき)、東夷(とうい)、南蛮、西戎(せいじゅう)という言葉を思い出した。中華思想というものがあり、漢族は自らを中華とし、その四辺の外をこう呼んだ。実体は中原に鹿を追うことであった。列強が権力を追い求める様を猟師たちが鹿を追うのに見立てた比喩である。これから転じて「鹿」はイコール「帝位」、権力の象徴となった。まだ日本が縄文、あるいはそれ以前の時代、広大なアジアにおける文明の中心のひとつは春秋戦国の諸国が抗争を繰り広げる2本の大河の流域の大地、すなわち中原であった。しかし、悠久たる数千年の歴史の中では漢族が野蛮と呼んだ民族に征服されることしばしばであった。征服者は英雄であった。英雄とは多くの人間に食いぶちを与えうる人物を意味した。そしてその中でもっとも多くの人間を養う英雄が中原の皇帝となった。 

 新彊ウイグルはイスラムなので漢族とは異なる精神世界に暮らしている。これが現実の世界にも持ちこまれるため埋めがたい軋轢が起こり今回のような事件となった。人は不寛容であることしばしばである。国家、民族、種族、地域、その他、我と異なる要素があれば不寛容は生じ、漱石ではないが向こう三軒両隣、家族の中でも「兄弟(けいてい)牆(かき)に鬩(せめ)ぐ」、抗争が起こる。「牆(かき)」は垣根のことで、兄弟が内輪喧嘩をする、転じて財産争いを意味することもある。

 漱石の『草枕』の冒頭を引くまでもなく、人の社会はせめぎあいである。政治とは欲望、好悪とそこから生ずるパワー・バランスである。政治という俗世にあって純粋であることはできない。それは聖人がフィクションであり、ユートピアはどこにもないところを意味するのと同様である。この消息を司馬遷は『史記』の中でつぶさに描いた。『史記』を熟読すれば人間の心の深層にひそむ天邪鬼なワニの暗い世界を目の当たりにすることができる。司馬遷が絵解きした世界より2000年以上が過ぎたが人が変容した形跡はない。

 中華は一個の完結しうる世界である。世界であることの一要件は自給自足できるということである。アメリカやフランスも世界である。近代が作り出した国家という概念では収まりきらない広さと多様な要素から構成されている。中華から見れば固有の文字も持たず、思想もなく、当時にあって先進の条里制都市も持たない蓬莱(ほうらい)の国、日本は中華の周縁部にあった。そして魏志倭人伝の中で倭の国と呼ばれた。倭の国は主たる農作物に米作を選んだ。これによって関東平野までは満ちたが、狩猟、漁労と果実の採集生活で豊かだった道の奥にも寒冷地に適さぬ米作を強いたので、この元来は豊かな地を常に飢餓の危険にさらす地域におとしめてしまった。これは昭和になるまで続き、日本で最初のフットボールのリーグ戦行われた1934年(昭和9年)においても東北地方は大飢饉にみまわれ、人身売買が横行し、新聞各紙は救済のため大きな紙面を割いて募金活動を行った。

 日本は江戸時代、国を閉ざしフラスコの中のビオトープの世界を維持し続けた。葦のズイのような細い管から取り入れた舶載の文化はごく一部の為政者、貴族、武士、学者、神官僧侶、富裕な商人というような特権階級に独占されたが、これを細密化し、蒸留し独自の精神と美学を醸成した。しかし近代という地球規模の大きなうねりに飲み込まれる成り行きとなり、やむを得ざる選択として開国し、維新して明治という国家を急造した。明治という国は江戸人が作った。しかし、その不肖の息子たちは江戸人のリアリズムを体得できず、不合理に思考し、神佑を頼みとして国を誤り、20年近くに渡り踏み迷い続けて行き着くところを得ず、敗戦という形で決算した。これは帝国主義政策の列強が領土の肥大化とその結果としてもたらされた金融大恐慌を2度の大戦で清算しなければならなかった事情と同様である。ヤマトにあった古代における木の国は、中華という竹を接木し、その後欧米という鉄を接いで今日に至っている。したがって時々に古代人がその幻影を現すので、しばしば自我の不調和を自覚せざるを得ない。

 日本の近代スポーツは明治時代において当初はお雇い外国人のもたらした輸入文化の荷についたこぼれ種のようにして伝わってきた。またそれに続いて官が公的に輸入した。それまでの日本人は90数パーセントが農業を営み、基本的に大半の時間を戸外労働において過していたので日照受容時間も運動も足りていた。近代スポーツは日照量の不足するイギリス、北ヨーロッパの人々が発達させた。

 「冬の太陽は乳色にかすれて厚い雲におおわれたまま、狭い町の上にわずかにとぼしい光を投げていた。破風造りの家の立ち並んだ路地々々は、じめじめとして風が強く、時おり氷とも雪ともつかぬ柔らかい霰みたいなものが降ってきた」――高橋義孝訳。一部旧漢字をかなに改めた

 ドイツの文豪トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』の冒頭である。場所はリューベック。ハンブルグの近くに位置し、ドイツ北部と北欧三国が囲むバルト海に面した港町である。こうした天候が半年以上に渡って続く地方では夏季に戸外に出て1年分の日照量を確保することが生存の基本条件となる。それにともない19世紀、ドイツ体操、スェーデン体操、デンマーク体操などが考案され、日本でも明治期に移入、研究し学校体育で実行された。

 日本においてアメリカンフットボールは遅れてやってきたスポーツのひとつである。現在盛んな野球は明治初期、サッカーも中期に伝来している※。またラグビー、バスケットボール、バレーボールも明治後期に紹介され、大学、旧制高校、高等師範をいただく師範学校、神戸と横浜の外国人倶楽部、YMCAなどによって大正年間に各地へ伝播された。しかし昭和になっても一般にはサッカーもラグビーもなじみのないスポーツであった。その中にあって旧制高校はさまざまな競技大会を主催し旧制中学の生徒を招き啓発に努めた。あるいは新聞社が新聞普及のため各種のスポーツ大会を催した。戦前はこうしてスポーツの普及活動が細々として続いた。

※ #29 1920年 日本フットボールことはじめ1 参照   

 前回紹介したようにアメリカンフットボールはリーグ戦がはじまったのが1934年(昭和9年)であり、日系二世が大多数を占めている競技であった。昭和恐慌、大陸進出による世界からの孤立化という落ち着かぬ世相のもとでそうしたことを忘れさせてくれるもののひとつはスポーツだった。フットボールはその中にあって遅れて伝来したスポーツであった。そのためゲームは目新しさから主に首都圏、関西圏を中心に数千から万余の観衆を集めた。

 日本が最初にオリンピックに参加したのは1912年(大正元年)のスェーデンのストックホルム大会である。したがって次回、2012年のロンドン・オリンピックは初参加より100年目の大会となる。当時パリにあった国際オリンピック委員会の要請で嘉納治五郎は参加を決めた。委員会の求めに従って政府や既存の競技団体の承認を取ろうとして得られなかった。そのためこの初めて選手を派遣したオリンピックは自らが大日本体育協会を設立し参加を果たした。選手はマラソンの金栗四三、陸上短距離の三島弥彦の2名であった。嘉納治五郎は日本のスポーツの先達として明治、大正、昭和と3代に渡り、周囲からの理解を得られないもどかしさの中で努力を続けた。1938年(昭和13年)、嘉納はエジプトのカイロで開催された国際オリンピック委員会に出席する。すでに78歳になっていた。この総会においてオリンピックの東京開催が決まった。帰途、使命を果たし終えて安堵したかのように太平洋の船上で客死する。しかし、1940年に開催を予定されていた大会は戦局の悪化のため返上され、実現されることのない幻のオリンピックとなった。戦前、1926年(大正15年)日本におけるスポーツ振興の手段として水泳連盟の田畑政治が「オリンピック第一主義」を唱える。これは6年後、1932年(昭和7年)に開催されたロサンゼルス・オリンピックにおける日本水泳のめざましい活躍という成果を上げた。この戦前において唱えられたオリンピック第一主義は現在も根強く残り、その関心は依然として高い。一方国際オリンピック委員会におけるキャスティング・ボードを握っている欧米ではオリンピックは生活のいろどりのひとつと位置付けられている。

 現在、世界規模のスポーツ大会はこのオリンピックとサッカーのワールド・カップに代表されるヨーロッパ型と4大プロ・スポーツを中心とするアメリカ型のせめぎあいとなっている。日本は前者に組みしている。アメリカにおける4大スポーツ、フットボール、ベースボール、バスケットボール、アイスホッケーはそれぞれが事実上のワールド・チャンピオンシップなのだが、パスポート主義、つまり国籍に基づくチーム編成をするヨーロッパ型スポーツの支持者は、クラブに基礎を置き、国籍を問わないアメリカ型のスポーツを寛容しようとしない。

 ついでながら、日本においては大相撲以外に真のプロ・スポーツは成立しにくい環境にある。それは人口の少なさとシーズン・スポーツ制という考えがないこと、取り組む競技数が多すぎて人材が分散してしまうこと、言語の壁があることに起因している。また、チーム力の均衡化を計るという思考の欠如、本来の意味における地域マーケティングの考え方がないことも加えることができる。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 00:12| 記事

2009年07月23日

#38 NEBとU19

 タイトルの「NEBとU19」を見て、すぐに「ニュー・エラ・ボウル」と「アンダー・ナインティーン」、つまり、先日までアメリカで行われていた19歳以下を出場資格とするジュニア・ワールド・チャンピオンシップ、と理解された人はどのくらいおられるだろう。どの分野にも略号がある。最近ではiPS細胞などがよく知られている。文章は相互理解の上に成り立っている。このブログの対象読者はフットボールのファンであることを前提のひとつにしている。その方々の少なくとも95%以上に理解していただけるように書いているつもりだが、ときどき身内話になっていることにあとで気づくことがある。

 NEBに行くためにバスに乗った。2人掛けの席もかなり空いている。小学校3,4年と思われる子供が2人並んでいる前の席に座った。2人はナゾナゾを出し合っている。一人の子が「長くてつらいものはなぁんだ」と訊く。もう一人の子が、「人生」と応えた。それだけでも2人の顔を見たくなったのだが、その応えについての問題を出した子の返しがちょっとびっくりだった。「短くてもつらい人生があるよ」。

 NEBは観戦ではなく秋から始まる関西学生リーグでの新しい試みを行うための予習を手伝う予定になっていた。しかし、ゲーム開始後まもなく携帯が鳴って、予期せぬミーティングに加わることになった。昨今はどの分野でも大きな変化が起こっている。グーグルがパソコンの分野に参加し、無料のOS提供を始めたので、この分野におけるマイクロ・ソフト寡占の状態が崩れる可能性が出てきた。グーグルはネットブックなどの低価格パソコンがさらに普及し検索頻度が上がることを目的としているのでOSが無料であることはその戦略の1パーツにしか過ぎない。グーグルは書籍をデジタル化することで起きた裁判でもあっさり和解金として1億2500万ドルを支払うことを認めたり、これまでのビジネス世界であれば、企業の死活にかかわるような金額のことがらをいともあっさりとパスして行っている。マクロにものごとをとらえ、グーグルにとってはささいなことに頓着しないという方針が明快だ。このささいなという金額はグーグルにとってであって普通の企業にあてはまるものではないことはいうまでもない。日本企業でも欠陥商品で死者を出した巨大企業が信用を賭して数百億円の支出を認めたことがあった。マイクロ・ソフトの創始者、ビル・ゲイツは自社を超える存在が現れる時が来ることを予測し、また口にもしていた。別の角度から言えば、両社の創設者の出身校、ハーバードとスタンフォードの戦いに持ち込まれた。ただ、まだノロシが上がった段階で実際の商品が市場に出るのは来年半ばとのことなのでどういった影響がでるかはそのあとの話である。

 以前、企業30年説というものがあってどんなビジネス・モデルや発明も30年経てば機能しなくなると言われた時期があった。現状はこのサイクルがさらに早まった。変化しないものは衰退し舞台から去って行くのが現実だ。

 NEBもその前身であった平成ボウルのスタート時の内容から大きく変化している。開催回数が20回を数えたので試みとして行われた部分も歴史となった。開催場所もすでに何度か移った。対戦も最初のものとまったく異なったものになった。当初は単独チームにアメリカのプレーヤーが加わった。現在は関西学生リーグのディビジョン1から3までの全チームを2つに分け、そこから選抜した2チームを母体としてアメリカ人プレーヤーが加わっている。開催場所も替わった。今年の王子スタジアムはその収容力と観客数のバランスがうまくとれた。ゲームもビッグ・プレーが要所にあり、点数も拮抗し盛り上がったようだ。打ち合わせのために試合の大半を見ることができなかったが一週間後以降にCS放送が何回かあるのでミーティングにも集中できた。

 U19のWeb Cast、つまりネットによる動画送信を見る。JAPANの初戦、対ドイツ戦、準決勝のカナダ戦を見ることができた。オン・デマンドなので好きなときから見始めることができる。アクセスがかなりありそうなのだが動画が重くなってフリーズするようなことがない。動画送信にはEZ Streamというインフラを使用していた。Sky・AのKさんからESPNが制作すると聞いていたが、3,4位決定戦、優勝決定戦は違ったようだ。すくなくとも決勝はFOXだった。この2ゲームはストリーミングがなかった。JAPANとメキシコの3,4位決定戦と決勝はライブでと思って夜中に起きたが送信されておらず、この原稿を書いている時点でもまだ流されていない。放送からずっとあとに流すのか、あるいはこの2ゲームの動画送信はないのかも知れない。いずれにしても便利になった。JAPANとドイツ、カナダ戦は1台のカメラで撮っていたが向こうはカメラマンがフットボールに明るいのでほとんどプレーの撮り逃しがない。記憶では一度リバース・プレーにひっかかっていた。しかし、これもある種、カメラがどこまでフェイクにひっかからないか見ているのも面白かった。ロング・パスはさすがに画角の範囲の問題があるので完全について行くのは難しい。しかし、ミドル・パスまではほぼカバーしていた。アナウンスも楽しんでやっているから、そのリラックスした空気が伝わってきて良い雰囲気だった。

 1936年(昭和11年)に全日本の最初のアメリカ遠征が行われた。日本の国際的立場は1931年の満州事変から刻々と悪化し、特にアメリカと袂を分かつのは時間の問題になっていた。日本に留学していた日系二世の立場は微妙だった。前回書いたように全日本は日本人、安藤眉男(立教大学)を除いて全員が明治大学、早稲田大学の各7名を中核とする日系二世だった。一行は選手20名その他に、コーチが明治の武田道朗、役員は川島治雄と朝日新聞社記者で連盟の理事でもある加納克亮の計23名だった。シーズンが終った1936年12月3日に出発した。リーグ戦2年目よりシーズン制が守られ10月に始まって11月末には終了していたからである。その当時は通常であった14日間の航海ののち、アメリカ西海岸に到着した。翌年1937年1月3日、南カリフォルニア高校選抜チームと対戦、6−19の結果を残した。帰国の途はハワイを経由、その地でルーズベルト高校と対戦、0−0と引き分けた。そしておよそ50日後の1月21日に帰国した。アメリカの高校生すなわちU19なので今回のワールド・ジュニア・ワールド・チャンピオンシップのさきがけということもできるだろう。

 あとから振り返ってみればこれが遠征の最後のチャンスだった。帰国した1937年7月、盧溝橋事件が起きた。新聞、雑誌の軍国主義の色がさらに鮮明になり日本の国際社会における孤立化が加速して行った。

 NFLは普及のためのさまざまな試みをトライアル・エラーしつつ行っている。まず、やってみて良い意味での君子豹変を繰り返す。NFLのファームとしての位置づけで、1991年にワールド・リーグをアメリカ、カナダ、ヨーロッパにまたがってスタート。それを引き継ぐかたちでNFLヨーロッパになり、スーパー・ボウルMVPになったカート・ワーナーを代表とするNFLでも活躍するプレーヤーを生み出した。しかし、コスト・パフォーマンスの点から2008年廃止。ジュニア・ワールド・チャンピオンシップの以前にも同じ趣旨の大会があった。今回のアメリカチームはかなり強化され、カレッジの1部リーグ・チームに進学するプレーヤーが36人含まれているということである。ゲーム・スタッツを見れば、攻撃獲得ヤードが408ヤード対49ヤード、カナダのラッシング・ヤードはマイナス8ヤード、従って大会前にシード順位が第1位であったカナダに41−3と快勝したのも当然と言えるだろう。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 01:16| 記事

2009年07月03日

#37 日本アメリカンフットボール創始75周年の記念ゲーム

 下記の写真の人は関東学生アメリカンフットボール連盟の前川誠さんである。もう知り合って20年ほどになる。かなり以前、関西のある会社が関東大学リーグのスポンサーになっていた。日本のバブルまっただ中のころである。3年契約で、そのときの学生連盟の窓口の一人が前川さんだった。勤め人だったが、フットボール発展のためにサラリーマンをやめて、学連の事務局長の道を選んだ。

前川さんとレジェンド・ゲームのパンフレット
20090703_01.jpg


 前川さんの表現を借りると、理事の人々から「また、前川は分からんことをやっている」といわれながら着実にインフラ整備や広報活動を続けてきた。関東学生のホーム・フィールドになっているアミノバイタル建設やさまざまな集客企画が考え出された。何か新しいことをするたびにそのひとなつっこい笑顔でこんなことをしたんですよ、という。今回、日本初のリーグ戦のセイル・アウト・チームによる75周年のレジェンド・ゲームも前川さんが企画した。

 全明治対全早稲田。

 6月13日、土曜日。ゲーム前、明治大学の野崎監督もにこにこされていた。昨年の12月、明治のコーチをされている秋山篤弘さんのご紹介でインタビューをさせていただいた。年齢は76歳になられているが現役監督として再び強力なチームをつくられた。今春、ファイターズも7−12と定期戦で敗れた。有名なペン・ステイツ大学のジョー・パターノのように学生に精神的感化を与えるタイプの監督になっておられる。パターノは弁護士になるかフットボールのコーチになるかの選択でコーチを選んだ。通称ジョーパーの影響力はペンシルバニア州に行けば大統領よりも大きいかも知れない。学生が相手チームを口汚くののしったり、スポーツマンらしくない振る舞いをするとパターノは容赦なく激しく叱る。そのシーンはテレビ放映されるのでよく知られている。確か今年83歳だ。野崎監督は長く勝ち負けの世界におられ星霜を経た厳格な表情だが、パターノとは反対にほとんど感情を露わにされない。試合後のハドルは気迫がこもっているが緊張感のある静謐が支配している。

 ついでながらシカゴ大学でヘッド・コーチ生活の大半を送ったエイモス・アロンゾ・スタッグは71年間現役のコーチ生活を続け、98歳で引退した。コーチのコーチとして尊敬を受け103歳で天寿を全うした。次に述べる日本で最初にフットボールを紹介した岡部平太の先生でもあった。

 実施された当時日本で最初と言われたゲームがいくつかある。
 
 1920年 おそらく秋。東京高等師範学校附属中学が学年対抗で行ったゲーム。岡部平太が米国から帰国後、付属中学で手ほどきした。その参加者であった牧野正巳氏の手記が東京高等師範学校付属中学校創立70周年の記念誌(1958年刊)に載っている。牧野氏は日本で初のTDパス・レシーブをした。
20090703_02.gif


 文中、岡部の米国からの帰国が「大正八年」と記述されているが、牧野氏の感違いで1920年(大正9年)である。

 1927年4月30日。於:成蹊学園グランド。
 東京高等師範学校ラグビー部の紅白戦
 東京高等師範学校ラグビー部は大正天皇の崩御に伴い予定されていた試合が中止になったため、喪が明けるまでの期間、ラグビー研究のため半年間と期限を区切ってアメリカンフットボールも研究することとした。それからも察せられるように、まだこの時代、両競技間に現在ほどの大きな差異が生じていなかった。

 「アメリカンフットボール」というタイトルの日本で最初のアメリカンフットボールについての本である。1927年6月に出版され、練習の仕方、ルールなどが記されている。この写真は復刻版。オリジナルのものは経年のため装丁がひどく痛んでいる。本の元の所有者は関西大学アメリカンフットボールの創部者、松葉徳三郎である。
20090703_03.gif


 その前書き。傍線部分に日本最初の試合と記されている。筆者の安川伊三はこのゲーム実施の実質的リーダーを務め、同時に先述の本「アメリカンフットボール」翻訳編集の中心的役割を果たした。高等師範学校の助教授として現在のタッチフットボールに似た旧制中学生向けの簡易ゲームを考案しフットボールの普及に努めたが30代前半を迎えたところで夭逝した。
20090703_04.gif


 基本練習の写真。右の選手に抱えられたボールは現在のものと異なりほぼ球体に近い。
20090703_05.jpg


 1933年12月25日。於立教大学グランド。
 明治大学のΣNK(シグマ・ヌ・カッパ)というチームと東京在住の日系二世で編成されたチームとのゲーム。これは新聞各紙に前触れ記事が掲載され、翌日はスコアだけでなく文章を伴った記事が載った。狽mKはギリシヤ語で「団結と勝利」という意味が込められていると思われるが、現存される方がすでにおられないため未確認である。

 クラブ旗に「狽mK」という文字が見える。前列左端がこの写真の保有者であった加藤二朗氏。2列目左から2番目が松本瀧蔵教授。
20090703_06.jpg


 ゲーム前日12/25付け 読売新聞 東京版
20090703_07.gif


 ゲーム翌日、12/26付け 読売新聞 東京版
20090703_08.gif


 大学対抗の最初のゲームは、1934年(昭和9年)4月に行われた。場所は当時、明治大学グランドがあった代田橋である。そののち現在の八幡山に移る。結果は0ー0の引き分けだった。

 明治大学、代田橋グランドでの記念写真。Daidabashiと1934という手書き文字が読める。
20090703_09.jpg


 75年目に邂逅したレジェンド・ゲームは31−7で、全明治の勝利に終わった。

 ソーシアル・ハウスというアメリカから日本に留学していた日系二世が起居をともにする寄宿舎のような施設が戦前、東京にあった。ひとつの大学に偏らずいろいろな大学の学生たちが同じ屋根の下に暮らしていた。本願寺派のブッディストが営む互助組織だった。この組織のネットワークはハワイ、アメリカのメイン・ランドの東西海岸にもあり移民の手助けを行っていた。※ここに在住していた明治の学生たちがチームを始めた。そのまとめ役に当たったのが明治大学教授の松本瀧蔵だった。
 ※#24 科学的武士道―日本大学のフットボール4 参照

 言葉の不自由さから鬱屈していた日系人学生たちを活気づけるためアメリカ留学の中で同じ体験をした松本瀧蔵が彼らをフットボールで元気にしようとした。松本はアメリカの高校でスポーツにも秀でた文武両道の超優秀な成績を収めた。大学はハーバードを卒業した。この学生生活の中でフットボールも経験している。戦後は出身地の広島選出の衆議院議員となる。松本の寄付で日本アメリカンフットボールの殿堂のある清里にキャンピング施設が作られその名前が冠されている。1933年12月25日、クリスマスの日のゲームのレフリーは松本だった。

 松本は日本フットボールの父とされている立教大学のポール・ラッシュ博士に働きかけ、立教大学にもチームができた。ポール・ラッシュは明治大学の二世たちを愛し、Meiji Boyと親しみを込めて呼んだ。1934年、リーグ戦が行なわれた時、明治の16人のメンバーは全員が日系アメリカ人だったのでクラブでの共通言語はスラングに満ちあふれた英語だった。創部3年目、明治に入学しフットボール部に入部した数少ない日本人、竹下正晃の言によれば上品でない英語はとても上手になったとのことである。そのとき日本人は竹下を含め2名のみだった。竹下は後に明治大学のコーチになり、1964年、日本協会30周年事業として行われた全日本チームのハワイ遠征を、先輩であった日系の人たちの手助けを借りて実現し、総監督としてチームを率いた。全日本は東西リーグで優勝していた日本大学、関西学院大学、のコンバインド・チームでその他の大学からも2名が参加した。遠征は12月9日より21日まで行われた。それにともない例年は12月に行われる甲子園ボウルがこの年度のみ翌1965年の1月15日に実施という変則的な日程になった。

 全日本を迎え入れた明治ボーイたち自身も1936年、全日本選抜の主力としてアメリカ遠征に加わった。この年、同率でリーグ優勝した明治、早稲田を中心としてチームが編成された。ほぼ全員に近くが日系二世で、日本人で唯一このメンバーに加わったのが立教のガード、安藤眉男だった。安藤は大学卒業後早世し、人々は惜しんでその名を安藤杯というトロフィーに残した。安藤杯は関東大学リーグのシーズン最優秀選手に贈られる賞である。

 ポール・ラッシュは組織力と企画性にたけていたので立教大学チームを加え、明治、早稲田、立教の3大学で初のリーグが創設された。リーグ戦は先にも述べたように1934年12月に行なわれた。そのオープニング・セレモニーとして11月29日、木曜、アメリカでは感謝祭に当たる日に行われたエキジビション・ゲームが日本最初のゲームとして現在では定着し、ここを起点として周年は数えられている。全日本と対戦したのは横浜の外国人倶楽部のメンバーだった。平均年齢は30歳を越えており、アメリカン・フットボール経験の少ないヨーロッパ系のメンバーで構成されていたため、若さと経験に勝る学生選抜の日本チームは26−0と快勝した。こうしたマッチングにもポール・ラッシュがきめ細かな配慮を行った結果だった。全日本チーム25名の内、12名は明治大学から選出された。その顔ぶれの大半を狽mKのメンバーが占めたのは自然のなりゆきと言えた。なお、日本アメリカンフットボール協会が1984年に50周年の記念誌として発行した『限りなき前進 日本アメリカンフットボール50年史』中に26名という回顧譚があるが、語られた方の記憶違いで当時のメンバー表は25名が記載されている。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 02:06| 記事