2008年12月26日

#30 1902年(明治35年) 日本フットボールことはじめ 2 ―とりかえばやの物語―

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 この写真は1904年(明治37年)2月6日に撮影されたものである。前回紹介した中村覚之助は最後列真中の学生服、学帽の人物である。この日、日本で初めて日本人チームと外国人チームのゲームが行なわれた。東京高等師範学校とYC&AC(横浜外国人クラブ)の試合である。その記念として撮影された。サッカーに不慣れな日本チームに配慮してYC&ACはファースト・チームではなかったが結果は0対9でYC&ACの圧勝で終った。これに写っている人たちの何人かはちょっとした行き違いからアメリカンフットボールを経験した。もっとも練習にとどまり、ゲームまでには至らなかったようである。

 東京高等師範学校の中村覚之助たちはサッカーに取り組もうとした。それがなぜアメリカンフットボールにつながったかについては1902年(明治35年)12月刊行の高等師範「交友会誌第2号」の記事を要約する。

 この記述によれば高等師範は1896年(明治29年)に「フートボール部」を立ち上げていたが実際の活動は休眠状態が続いていた。1902年、これを呼び覚ましたのが中村覚之助だった。『アッソシエーションフットボール』を翻訳した同年春、アメリカのウィスコンシン大学のフットボール部で「助教」をしていたという「坂上」なる人物からサッカーのつもりで指導を受けた。

 しかしケンカのようにあまりにも激しいスポーツであったので日本人には実行が難しいと思われたためメンバーで検討を行なった。これを改良することも考えたができあがった競技を変更することは難しいと判断した。そのころ『戸外遊戯法』の編集を行なった坪井玄道が海外視察から帰国したので相談したところ、坂上が指導をおこなったのは「ラグビー式」であり、あまりにも過激であるから「アッソシエーション式」の方が日本人に適当である、という答えであった。折りしも坪井玄道がサッカーの資料を持ち帰っていたのでこれに基づき10月の始めより練習を再開した。10月18日の秋季大運動会で2回のゲームを行なった。

 時代の雰囲気を伝えるため原文より引用。基本文字使いなど原文のまま。旧字、旧かなを一部修正。

 「フートボールという遊戯は、・・・(中略)・・・ラグビー流とアッソシエーション流との二派に分かれ、今も、尚(なお)此二流が英国に中々盛んであるとの事。二十年ばかり前に、米国にも此の遊戯が流行し始めたが、米国のは純粋のラグビー式でもなければ、アッソシエーション式でもなく、云(い)はゞ、ラグビ流を骨子として、多少、亜米利加化したものである・・・(中略)・・・
米国のフートボールに付いては、此年の春、合衆国のウィスコンシン大学に遊学して居る坂上某氏が帰朝した時、其(その)大体を聞き得たから、此所に其状況をしるそう。同氏はなかなかの運動家で、特に、此のフートボールは、最も得意であるから、今日では、同大学のフートボールの助教をして居るそうだ。
 ・・・(中略)・・・速早、氏を聘して、三時間計りフートボールの蹴方や、ゲームの仕方などの説明を聞き、夫(そ)れで、充分、会得出来ないから、運動場で実に、其の仕方を示して貰ったのである・・・(中略)・・・坂上氏より教授を受けたのは、即ち、云はゞ、ラクビ式であって、随分、激烈であるから、喧嘩すきは、日本人には、其の儘(まま)、実行することが余程むつかしい」

 #16ですでに1884年に松方幸次郎がラトガーズ大学フットボール部に入部したことは述べた、従って坂上という人物がウィスコンシン大学でフットボールをかなりの程度まで習得していたというのはありえることと思われる。残念ながら姓だけが伝わっていて名は不明である。従って経歴など詳らかではない。また、「助教」という肩書きも元の英語が不明である。推測だが現在のアシスタント・コーチのように思われる。

 以上のように偶然によるアメリカンフットボールとの出会いは幸福ではなかった。「歴史のもし」は繰言にしか過ぎないのだが、このとき高等師範のメンバーがアメリカンフットボールを受け入れていたら日本におけるフットボールの位置づけはかなり変わっていたであろうと思われる。まだ、フォワード・パスがルールに入っていない段階のフットボールは死者を数多く出す競技だった。安全のためもありフォワード・パスを認めるなど大幅なルール改革に着手されるのは1905年からである。それまであと3年だった。

 こうして日本でのアメリカンフットボールの偶然による最初の伝播は少しユーモア含んだほろ苦いエピソードとして終った。

 中村覚之助は教職に就くため清国山東省に渡る。そこで病を得てルールが変わった1906年、世を去った。わずかに29歳であった。

 今年は本欄をお読みいただきありがとうございました。明年掲載第1回は1月7日(水)を予定しております。よいお年をお迎えください。

川口 仁
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 01:13| 記事

2008年12月25日

#29 1902年(明治35年) 日本フットボールことはじめ 1 ―とりかえばやの物語―

 甲子園ボウルに出かけた。予報では午後雨だったが、ときおり思い出したように雨粒を落としただけで泣き出しそうな雲行きのままゲーム・オーバーになった。甲子園ボウルはもう30年来見つづけている。テレビで見たことも含めると40回近くなる。甲子園ボウルの最初のテレビ中継は1956年(昭和31年)だが、このときはまだ子供で、フットボールのことは知る由もない。継続して見るという意味もあったが、ある選手を彼が高校2年生の時から注目していてそのプレーを見るのも、もうひとつの目的だった。スタジアムを出たころ雨がやってきた。3時間近くほぼ同じ姿勢のまま見ていたので固まった身体を解凍するために銭湯に寄った。露天風呂につかり、顔に雨粒を感じながら雨をやり過ごした。それからせがれと軽くビールを飲み帰宅した。

 今回から何回かにわたり時系列的に日本で行われたアメリカンフットボールの試みやゲームについて紹介したい。まず明治時代のわが国における近代スポーツやサッカーのはなしから。

 『アッソシエーションフットボール』というサッカーの本がある。1903年(明治36年)10月4日に出版された日本で最初のサッカーの専門書である。「アソシエーション」の間違いではなく当時はこのように表記した。本邦への最初のサッカー紹介は1885年(明治18年)に出版された『西洋戸外遊戯法』、『戸外遊戯法』という2書において行われた。外来スポーツの一つとしてサッカーにもふれているが数ページにとどまっており『アッソシエーションフットボール』のような専門書ではない。この頃サッカーは「フートボール」と表記されることもあった。かなり長い間『戸外遊戯法』(坪井玄道、田中盛業編)が最初の本であると思われていたが、『西洋戸外遊戯法』(下村泰大編)という本が見出され『戸外遊戯法』は先駆けの座をゆずった。ただ、『西洋戸外遊戯法』、1885年3月発行、『戸外遊戯法』、4月発行ときわどく、陸上100m、ゴール写真判定ほどの差しかない。なお、日本で最初にチームを作ったのは1889年に創部した兵庫県尋常師範学校、のちの御影師範学校であるとされているが異説もある。

 まだ『西洋戸外遊戯法』が見出されていなかったころ国会図書館で『戸外遊戯法』を読んだ。東京に勤務していた頃、休みにはよく通ってフットボール関係の本を探した。読んだといっても「マイクロフィッシュ」という本をモノクロ・ポジのスライドにしたものである。新聞雑誌の多くは映画フィルムのようなマイクロ・フィルムと呼ばれるものにコピーされる。古い書籍や新聞雑誌は長年たつと紙が酸化して触れるとくずれるような状態になる。これにくらべるとパピルス、羊皮紙、こうぞ、みつまたのほうが文明かもしれない。「マイクロフィッシュ」は一枚がハガキほどの大きさで、ここに見開き2ページ分を10数ミリの方形に縮小しそれを何十枚か焼き込んである。したがって数百ページほどの本でもマイクロフィッシュでは10枚前後になってかさばらない。デジタル化が行われる前には非常に便利なメディアだった。古い本で劣化したものや貴重な書籍がマイクロ化されている。このフィルムをバックライトのついたビューアーにかけてひとコマひとコマ読んでいく。もとがフィルムで鮮明度に限界があるため読みづらいことに加え光源が強い光のハロゲン球であるためかなり疲れる。

 先日、ウェブで国会図書館の蔵書検索を行い『アッソシエーションフットボール』を立ち上げたら、結果に見慣れない表示とマークがつけられていた。それぞれ「本文をみる」、「近代デジタルライブラリー」となっている。クリックすると本文ページが現れた。マイクロフィッシュとはくらべものにならないほど鮮明な画面だった。かねてから世界中の図書館の蔵書がネットを通じて閲覧できるようになるということが言われていたが実際に体験したのは今回がはじめてで、すこぶる便利である。最近のネット書店では本の中身を「立ち読み」できるから、こうしたことは今後ますます促進されるだろう。1980年代初頭、アメリカ留学した人の話によると大学図書館のレファレンス検索ではすでに現在のネット検索の初期のものが使用されていたそうである。インターネットそのものの起源はそれよりもさらに10数年さかのぼるので当然かもしれない。

『アッソシエーションフットボール』に載っているイラスト
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 『西洋戸外遊戯法』や『戸外遊戯法』そして『アッソシエーションフットボール』が出版された明治時代も、そのあとの大正年間も一般にはサッカー、ラグビー、フットボールの区別がはっきりと理解されていたわけではない。それに加え、外来語にいろいろな訳語が考案され始めた時代だった。人口に膾炙(かいしゃ)したところでは、例えば“baseball”に「野球」という訳語が与えられたのも明治中期である。考案者は正岡子規説もあったが現在は子規と同じ旧制第一高等学校野球部の中馬庚(かなえ)であることが分かっている。子規は一時期、名が「升」(のぼる)であったので、これをもじって雅号に「野」(の)+「球」(ぼーる)、「野球」を用いていた。ここより推測しての子規命名説はどこかほほえましい。「まり投げて見たき広場や春の草」など野球を扱った句や歌を残している。子規の名声の大きさは野球殿堂に子規を叙した。中馬庚も子規よりも早く殿堂入りしている。スポーツに関連する訳語はさまざまに変遷し、それが理解と普及の速度を遅くした一因となった。ついでながら現在ではすでに日本語に同化している「スポーツ」という言葉にはまだ訳語がない。この言葉の持つ多義性に対応する日本語を発明できなかったためと思われる。日本ではビリヤードやチェスをスポーツの範疇に入れるには違和感があるようだが西欧ではこれらもスポーツに属している。また、#27で紹介したように富国強兵の国家政策のもとでは軍事教練が重視され体育は副次的な立場に置かれていた。これは戦後も後遺症として残り、スポーツが鍛錬と混同されそれに特化されている場面に出会うのは珍しいことではない。かてて加えて戦前において体育に触れることができたのは、ほぼ旧制中学の生徒に留まっていた。旧制中学への進学率は最盛期でも10%前後であったからスポーツの普及には自ずと限界が生じた。

 民俗フットボールはイングランドで規則化され1863年にフットボール・アソシエーションができ、アソシエーションという言葉からサッカーという呼称が生まれた。このアソシエーション・フットボールを略し、サッカーは長い間「ア式蹴球」と呼ばれていた。これにならいラグビーを「ラ式蹴球」、時代がかなりくだってアメリカンフットボールを「米式蹴球」と呼んだ。戦前に創部したフットボールのチームの中にはたとえば早稲田大学のように現在も「米式蹴球部」という名称を使用していることがある。

 「ア式蹴球」という言葉が現在でも流通しているところに出会う。数年前にある都市の図書館でアメリカンフットボールに関する資料をお願いしたところ、たくさんありますよ、と言って出してこられたのが「ア式蹴球」という言葉がタイトルに入った本だった。「ア」とつくのでアメリカンフットボールの「ア」と取り違えられたようである。対応いただいた方は20代と見受けられる司書の方だったのでまだまだ根強く残っているようである。

 ことのついでに言えば「アメラグ」という言葉もある。アメリカ式のラグビーがつづまったもののようである。新聞、雑誌と言った印刷物に大正末期、あるいは昭和の初期から見られる呼称である。これも現在でも使われることがあり、メディアの方やフットボールの競技経験者の方も使われる。この言い方を好まれない方が大勢おられ、ゴキブリ退治のように矯正しようとされるが、なかなかにタフな言葉で根絶はむつかしいようである。

 『アッソシエーションフットボール』を訳したのは中村覚之助という和歌山県那智勝浦出身の東京高等師範学校生であった。前書きによれば、各地の中学校師範学校よりサッカーのゲームの仕方をもとめられたので書いた、とあるので1885年の最初の紹介以降ある程度広まっていたと思われる。中村は翻訳を行い、ア式蹴球部を作り校内で仲間を募った。先に触れたように出版は1903年(明治36年)10月。翻訳は1902年4月に行なったとされているのでこの間出版社をさがしていた可能性がある。まだサッカーというものを知る人が少数だった時代なので版元も出すことをためらったであろうことは容易に想像がつく。結果として大阪に本店を置く鍾美堂という出版社から発行された。中村の出身が関西であることと関連があるのかも知れない。また同時に作成したテキスト通りに実行できるか実際のゲームを通して確認するという作業を行なっていたからとも考えられる。これは後年、東京高等師範学校のラグビー部がアメリカンフットボールの研究を行なった際にも同じように翻訳後、テスト的なゲームを行なうという手順を踏んでいる※。

※#27参照

 サッカー日本代表のシンボルマークとなっている「八咫烏(やたがらす)」という三本足の烏は中村覚之助の生家から200mほどのところにある熊野那智大社のシンボルである。早世した中村覚之助に敬意を表し、東京高等師範学校の人たちによってデザインされたと言われている。神話では八咫烏は神武天皇が東征したときその道案内をしたという伝説がある。神話時代のことなのでなんの証拠もないがこの遠征で征服されたネイティブ紀州人、ナガスネヒコ一族は自分たちの祖先だと父が冗談めかして言っていたことがある。

 中村覚之助たち東京高等師範学校ア式蹴球部のメンバーは偶然からアメリカンフットボールに出会う。コロンブスがインドに至ろうとして西インド諸島にたどりついたように、サッカーをもとめてアメリカンフットボールに遭遇した。このことについては次回扱いたいと思う。

 次回は明日掲載。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 11:33| 記事

2008年12月17日

#28 社会人選手権:JXBにいたるまで

 13日(土)、社会人選手権、Japan X Bowlが行われた。結果はすでにご承知のことと思うがパナソニック電工インパルスの勝利に終った。今年10月に社名を変更されたパナソニック電工にとってこれ以上はないタイミングでのパブリシティ力満点の勝利だった。いろいろなメディアで大きく報道された。スポーツ面の紙数が限られている日経新聞でも3段3分の1あまりのスペースが割かれていた。インパルスは堅実なチームである。

1994年度 創部20周年
 社会人選手権優勝 
 日本選手権(ライス・ボウル)優勝 
1995年度 会社設立60周年
 社会人選手権優勝
2004年度 創部30周年
 4度目の社会人選手権優勝
 2度目の日本選手権連覇

 こう並ぶと運もさることながら強い意志の結果であると言えよう。しかし意図しても結果が出せないのはこの世の常である。もの作りをされている会社だけにフットボールにおいても生産計画がしっかりされているのであろう。

 社会人フットボールの歴史をスケッチしてみる。主にこれまであまり触れられなかった1970年までのことについて触れてみたい。社会人のフットボールの歴史は戦前からある。ただし卒業生が取り組むという性格上、学生の歴史にくらべると短くなるのは自然の成り行きである。学生のリーグ戦は1934年に始まった。社会人は『日本アメリカンフットボール50年史』に書かれている、1940年(昭和15年)、1941年の6人制ゲームにおけるチームが現在確認できる最も古いものである。

 1940年に普及のため主に中学生への底辺拡大をはかって、日本独自の6人制ルールが考案された。6月15、16日と「紀元二千六百年奉祝六人制米蹴大会」と名づけられた催しが神宮競技場で行なわれた。トーナメントが組まれその中にOBで構成された「ビクター」というチーム名が見られる。翌1941年は5月に開催され、ビクターが三洋商会というチームと対戦し、13−6という記録を残している。

 「紀元二千六百年」は『日本書紀』の記述に基づき1872年(明治5年)太政官布告により制定された日本の歴史年数の数え方である。西暦紀元前660年を日本の元年として数えると1940年が2600年になり、この年それをことほぎさまざまな行事が行なわれた。「ゼロ戦」と略して呼ばれる「零式艦上戦闘機」いう戦闘機の名機もこの年に開発されたので下2桁の「00」を採って名づけられた。このことは年配の方には馴染み深い逸話である。

 戦後は昭和20年代前半に「アンドリュース商会」という会社がスポンサーをした社会人チームがあった。アンドリュース商会は詳細不明だが熱処理材などを扱う代理店であったようである。立教大学アメリカンフットボール部のOBが数名勤務していた関係でスポンサーになったものと思われる。しかし、戦績などは未確認である。

 昭和20年代。1950年(昭和25年)当時は「大阪市警視庁」と呼ばれた現在の大阪府警にフットボール部ができ、関西学院大学が最初に甲子園ボウルに優勝したチームのキャプテンであった渡邊年夫が警視庁に入庁しここでもキャプテンを務めた。

 昭和30年代から40年代前半。関東では1957年(昭和32年)秋に明治大学、立教大学OBを中心として「東京ラムス」が結成され、それに続いて日本大学OBを中心とした「不死倶楽部」もスタートした。慶応OBで結成された「東京クラブ」というチームもあった。ラムスは3年間ほどの活動を行なった。不死倶楽部は活動を続け、その後チームはシルバースターに継承される。また1966年アパレル・メーカーのVANに実業団チームができた。関西では1961年、滋賀県の三菱樹脂の長浜工場に社会人チームが生まれた。

 昭和40年代後半。1970年代に入り社会人のリーグが生まれる。関西では関西アメリカンフットボール連盟が創設された。この後1980年代前半にかけ東西でひとつの大学のOBを中心とし、勤務先の異なるメンバーで構成されたクラブ・チームがリーグを立ち上げた。一方、同一企業に勤務するメンバーからなるチームにより実業団リーグができた。松下電工、現在のパナソニック電工はこの動きのなかで1974年に創部された。

 1984年までいくつかのリーグが並立していた。1984年、日本アメリカンフットボール協会の50周年を期してそれまで東西学生のオールスター戦であったライス・ボウルが学生代表と社会人代表による日本選手権に衣替えされた。これにともない社会人の代表を決めるため東西3つのリーグが1985年8月に統一され、日本社会人アメリカンフットボール協会(金沢好夫理事長:当時)が創設された。

 その後何度かの改革を経て1996年に「Xリーグ」がスタートした。リーグ戦のあとに上位6チームによりトーナメントを行いチャンピオンを決定する方式が新リーグ開始の時から始まり現在に至っている。

 ※社会人の歴史について詳しくは『関西アメリカンフットボール史』を参照
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 10:19| 記事

2008年12月10日

#27 1930年(昭和5年)のフットボール ―父とフットボール―

 生前の父とフットボールの試合を観戦したのは1993年の関学・京大戦が最後になった。振り返って見るとそうであって当時それが最後になるだろうと思っていた訳ではない。1993年11月21日、時ならぬ土砂降りとなった。現在は地球温暖化といわれ、冬にもスコールのような雨が降るがその当時はかなり珍しかった。沛然たる豪雨のために今は取り壊されてなくなった西宮スタジアムの人工芝が冠水し流れができた。観客は大雨をさける鳥たちのように狭い銀傘の下に蝟集(いしゅう)した。後半になって雨が上がりかけたとき東の空に虹がかかった。父が最初に見つけ、試合を忘れて見とれていたことを鮮明に覚えている。

 父は旧制中学のとき授業でフットボールをしたと言っていた。生まれたのは1917年(大正6年)和歌山である。第二次世界大戦の終結する前年であり、ロシア革命が起こった年でもある。日本にはじめてフットボールを紹介する岡部平太がこの年の6月、嘉納治五郎の命によりアメリカ留学に旅立った。

 フットボールをしたというのは1930年(昭和5年)のことである。この年、旧制県立和歌山中学校(現在の桐蔭高校)に入学し、1935年(昭和10年)卒業した。旧制の和歌山中学は父の表現によれば「中等野球」すなわち現在の高校野球の強豪校で、昭和のはじめには甲子園の夏の大会で連覇を遂げるなどスポーツも盛んな文武両道の学校だった。当時の和歌山人は和歌山弁で、
「野球、見にいこらよ」
とさそいあって甲子園まで出かけたそうである。昭和のはじめラジオが開局した頃、電気店の前に野球のダイヤモンドを模したボードがしつらえられた。走者が出ると塁と塁の間に切られた溝に沿ってランナーに擬されたマークが棒によって進められ、スコアー・ボードと合わせて見るとゲームの進行が分かるようになっていたということである。この棒の操作をしていたのは父の母、つまり私の祖母である。和歌山市の繁華街でビクターの特約店をしていた。

 父がフットボールをしたことを話したのは1993年前後である。私がフットボールの歴史を書くきっかけとなったのは1995年の阪神大震災だったのでその頃はまだフットボールに対しての歴史意識がなく聞き流してしまった。今、思えばもっと詳しく聞いておくべきであった。父は京都帝国大学でサッカーをし、ラグビー観戦も好きだったのでフットボールと取り違えることはない。そのためフットボールの歴史研究を始めた1998年以来ずっとこのことを実証したいと思っていた。

 2006年、東京転勤中の冬のある休日、吉川太逸先生※にお借りした資料を読んでいたときだった。『第十回全国高校タッチフットボール大会記念号』に「タッチフットボールの思い出」とあり橋本順治という方が下記の文章を書かれていた。橋本氏の肩書きは滋賀県タッチフットボール連盟会長だった。
 「 」内は引用。文字使い、文章は原文のまま。( )内のふりがなを追加。
※吉川先生については#4参照

 「昭和五年頃和歌山の中学校へ体育教員をしていた頃のことですが、当時体育の時間は殆ど徒手体操と器械体操が主でありスポーツの時間は極く少く生徒達は体育の時間をあまり喜ばなかった。殊に服装も体操服でなく上衣をぬぐだけのことで充分なる運動も出来かねた。それと云うのも軍事教練が主であって体育なんてまるでアクセサリー位にしか考えられなかった時代だから止むを得なかった。而(しか)し何とか生徒の気合を高めるスポーツをやらせたいと考えてラグビーをやらせてみたが、グランドが堅く且(か)つスクラムが仲々組めないので何とかいゝ方法はないものかと思っていた時、たまたま映画でアメリカンフットボールを見てこのスクラムを見てこのスクラムをもちいラグビーをモデフィしてやらすと仲々面白く生徒も喜んで且つ危険も少ないようなので冬季スポーツとして体育時間に取り上げたこと思い出し現在のタッチフットボールによく似たものだったと今更(いまさら)なつかしみと親しみを感ずる次第であります」

 思わず座り直すような驚きだった。探していたものだ、と思った。電話番号案内で桐蔭高校の番号を確認し、掛けてみたがすでに個人情報保護法にガードされていて、いかなる情報も得ることができなかった。父の在籍期間の再確認と橋本順治氏の奉職時期を調べたいと思った。父との関係を証明するためには戸籍謄本などが必要だという。父のことは教えてもらえたとしても橋本氏のことは無理であることが分かった。

 東京と和歌山とは離れていて出向くには時間がかかるため、しばらくそのままにしておいたのだが、あるとき思いついて筑波大学に行ってみることにした。やはりまだ東京勤務していたときである。理由は筑波大学の前身である東京高等師範学校のラグビー部のメンバーが1927年(昭和2年)に『アメリカンフットボール』※という本を編纂し、同年6月、本社を越後長岡に置く目黒書店というところから出版していたからである。目黒書店には東京支店があった。この本と高等師範学校のことについては項を改め詳しく書く予定だが、今回必要なことがらは次のことである。
※この本は主として図書館などに現存するが、その数は10冊に満たない。古書店にも出ないため、2004年、古川明さんと復刻版を出版した。

 『アメリカンフットボール』序文より抜粋。
「一、 二ヶ月前東京に於いてかの米国イリノイ大学の名選手グレンージの活動写真が開封されたので高師のラグビー部員は痛切に刺激され主となって又、始める事に決定し・・・・・」
 
 このくだりを思い出し、直感的に橋本氏は東京高等師範学校の出身ではないかと思ったからである。

 はたしてそうであった。1929年(昭和4年)1月卒業、体育科甲組。甲組は体操を専科としていた。高等師範学校の1931年の記録では勤務先が和歌山中学校となっている。あとは和歌山中学校側での確認のみである。

 1927年、高等師範学校が前記の『アメリカンフットボール』を出版するきっかけとなった映画があった。それが1927年正月明けに封切られた「かの米国イリノイ大学の名選手グレンージの活動写真」だった。日本語タイトルが『誉(ほまれ)の一蹴』、原題“One minute to play”である。今秋、つい先ごろもグレンージ※をモデルとした少し気恥ずかしい題名『かけひきは、恋のはじまり』、原題“Leather Heads”という映画が公開されていた。
※Harold Edward “Red” Grange 1903〜1991
イリノイ大学のスター・ハーフバック。特に1924年のシーズンに大活躍し、鳴り物入りでプロとなる。シカゴ・ベアーズ、ニューヨーク・ジャイアンツに在籍。出場したゲームでは6〜8万人の当時としての大観衆を集めたという。“Red”は彼の頭髪の色に由来するニックネーム。大学、プロ両方で最初にフットボールの殿堂入りを果たした。フットボールの全期間に渡ってのベスト・チーム・メンバーにも選ばれている。ジム・ソープと並ぶ名プレーヤー。

 1927年『アメリカンフットボール』の出版に先立ってフットボールのゲームが行なわれた。4月30日、旧制成蹊高校グランドおいてである。成蹊高校は三菱財閥の岩崎小弥太が理事長をし、英国流のパブリック・スクールを範としていたので芝生のグランドがあった。高等師範学校であるためアメリカのテキストの通りに行った場合、実際にできるのかどうかのテストを行った。防具も用意された。このゲームに参加したラグビー部員の中に塩崎光蔵という人がいた。橋本順治は塩崎と甲組で同級生だった。塩崎はこの本の翻訳チームにも加わり、のちに筑波大学ラグビー監督※になった。
※厳密に言えば塩崎監督のときは筑波大学という名称ではないが、名称の履歴にそい旧名で表してもイメージがわかない方も多いかと思われるので分かりやすさのため本稿ではこうした。

 『アメリカンフットボール』の復刻を新聞記事にしていただいた。それをご覧になった伊與田康雄氏というかたから出版社を通じて連絡をいただいた。以前筑波大学のラグビー部監督をされていたということであった。連絡いただいた当時は大阪の大学に勤務しラグビー部の監督を引き受けられていたので、お訊ねし話をうかがった。塩崎光蔵氏は大先輩にあたり、塩崎氏は後継者である伊與田氏に自分たちは日本において最初期にアメリカンフットボールのゲームをしたメンバーであることを口伝されたそうである。「塩ジイは」と伊與田氏は切り出された。「私に、君はぼくの後継者だから伝えておきたい。ぼくらはね、岡部さんの後を引き継いで昭和のはじめにアメリカンフットボールをしたんだよ、と言っておられました」

 こうしたことがあったのち休暇で大阪に帰った。母にこの一連の話をしたところ、心あたりがあるのでちょっとまちなさい、と言った。母は父の遺品である本の類をすべて残していた。旧制和歌山中学校卒業生名簿。母が取り出してきたのはそれだった。旧職員の名簿も記載されていた。

 橋本順治、昭和4年11月赴任、昭和6年8月まで在籍。

 母よ、でかした! 息子孝行な人である。こうして欠けていたジグソーパズルの最後のピースが埋まった。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 09:28| 記事

2008年12月03日

#26 日本大学のひとびと

 勝者はつかの間の勝利の喜びを感じ、同時にその重さを受け止める。敗者は敗北から学ぶべき長い季節が始まる。2008年度の関西学生アメリカンフットボール・リーグが11月30日に終わった。

 0−57。1955年(昭和30年)11月23日の甲子園球場、関東代表聖学院高校が関学高等部に敗れたスコアーである。この日は先に記したように関西学院大学と日本大学が甲子園ボウルではじめて対戦した日である。第8回の東西高校タッチフットボール王座決定戦は大学の試合に先立ち、同じ甲子園で午前11時半にキックオフされた。保坂侑男は聖学院の選手だった。敗れたあと保坂は大学のゲームを観戦した。第4Q、残り40秒、ゴールまで82ヤード、20−26とリードされ追い詰められた関学は、QB鈴木が乾坤一擲(けんこんいってき)のロング・パスを投げエンドの西村が50ヤード付近でキャッチした。残り50ヤード、あごを上げた特徴のある走り方で西村は保坂の前を駆け抜けて行きタッチダウン、同点とした。保坂は鈴木や西村にあこがれ日大でフットボールを続けようと思った。そして57点差を逆転し、打倒関学を果たす決意をした。チームメイトの吉岡龍一をさそった。二人は日大でQB、RBとして日大の中心選手となり第一期黄金時代を築く。

 保坂侑男さんとお会いした。日本大学の須山さんの次のクォーターバックである。須山さんはアンバランスTの最初のQBであり、保坂さんは後にショットガンとなるショート・パント・フォーメーションの最初のQBである。須山さんが紹介の労をとってくださった。飛田給の駅で待ち合わせた。おふたりの顔は似ていないがたたずまいに共通するものがある。繊細とイナセである。

 日大、篠竹監督は詩作し、シャンソンやロシアの「百万本のバラ」を好んだ。「百万本のバラ」にはフェニックスの真紅がオーバーラップしている。QBにはシャンソンを歌うことを要求しリズムを重視したという。QBがHB(ハーフバック)にハンドオフ、あるいはそのフェイクをするとき一定の距離に渡ってステップをシンクロナイズさせる必要があった。ソシアル・ダンスの息の合ったパートナーに求められる足運びである。

 須山さん、保坂さんとも「なぜ、QBに選ばれたのか分からない」と言われた。保坂さんは足が速かったので入部当初、HBだったがのちにQBにコンバートされた。お二人とも同じ木から彫リ出されたように見える。竹本監督、篠竹監督それぞれが二人に詩(うた)心を感じたのではあるまいか。

 すぐれたスポーツマンは詩人のこころを持っている。ベースボールのイチローしかり、マラソンの君原健二しかり。最近、君原健二著「マラソンの青春」という本を読んだ 筑摩少年文庫というシリーズに収録されている。時事通信社から出版されたものの抜粋であった。うちの奥さんが少年文化館というところのリサイクル本の山から見つけてきてくれた。本を精読した人の軌跡が感じ取れた。体験に根ざしたことばの経済があって、ストレートに心に入ってくる。

 『日本大学アメリカンフットボール部50年史』に詩人の書いた文章があったのでそのまま転載させていただく。以下引用

 その時、関学のQB鈴木智之の指を離れたボールは、私にとってあまりにも印象的な軌跡を残して、疾駆するRE(ライトエンド)西村一朗の頭上へと劇的な弧を描いた。その瞬間甲子園は得も言われぬ静寂に包まれた、たしかその時タイムアップのピストルが鳴ったように思った。あの30年(1955年)に私の日本大学アメリカンフットボール時代が始まったのだと思う。
 此の衝撃的なシーンに遭遇したことが、その数時間前に高校日本一を決める為に、此の同じグランドで関東代表校聖学院の一員として梶主将の率いる関西学院高校と戦って51−0(※1)とコテンパンに敗かされたこと等は既に遠い過去の出来事の様に成って仕舞ったのである。高校卒業の後は芸大の彫刻に進み塑造を勉強することに決めていた此の頃の私にとっては大袈裟に言う様だが、実に重大な数秒間の光景だったと言える。
 一瞬の後、そのほとんどが関学の応援である甲子園のスタンドは昂奮と歓声の坩堝と化していったのは、ごく自然な成り行きだった。その騒ぎの渦の中で私は頭の中が真っ白に成りながら、少し上を向いて顎を突き出して弾む様に一直線に駆け抜けて行く西村の後姿を呆然と見ていた。此の素晴らしい関西学院大学のチームを木端微塵に打ち砕くことが私の目標になったのは此の時だった。私が日本大学アメリカンフットボール部の門を叩いたのはしごく当然の行動だった。・・・(中略)・・・
 篠竹コーチが監督に成られた春。(※2) 
 上級生が誰もいなくなった、しかも日大は関東リーグ四連覇、全日本二連覇中なのである。我々には敗戦という事は有ってはならない。勝利のみが唯一無二の使命なのだ、こんな辛いフットボールは初めてだった。横山主将を中心に他の四年生と悩み、模索した。その結果この不器用な我々に出来ることは、己のベストを尽くして足が摺りきれるまで走って走りまくることだという結論に至った。決して私的には仲の良い気の合った4年生が揃っていた訳では無いが、それからの一年間お互いに競い合い体をぶつけ合って同一の目標に向かって走り続けたと思う。
 肝心の横山主将がリーグ戦に入ると早々に入院してしまった。然しもうその時には日大は奔流の様に一つの方向をめざして猛り狂う様に走り始めていた。
 横山主将がギブスを付けたまま関学の梶主将にぶつかって行った、我々は関学を倒した。
 翌日はうららかな良い気持ちの朝だった、甲翠荘(※3)の庭で目を閉じて顔を空に向け温かい初冬の陽光をいっぱいに浴びながら、色々なことを思い出して居た。ふと「あッ俺はもうパスディフェンスのことは考えなくて良いのだ。」と気付いた時に全ては終わったのだなと思った。そして、ついにあの31年度の関西学院大学のチームとは相対することは出来なかったのだと思った時、一抹の淋しさが残った。(※4)

「日本大学アメリカンフットボール部50年史」より第一期黄金時代、吉岡龍一氏の書かれたものより抜粋。文字使いなど原文のまま。

※1 吉岡さんの記憶違いで実際は57-0
※2 篠竹氏が監督になったのは1954年(昭和34年)
※3 甲子園球場の近くの旅館
※4 昭和31年度、関学、鈴木氏、西村氏は最終学年であった吉岡さんは昭和31年1年生のため対戦機会がなかったと思われる

保坂さん、吉岡さんが在学時代の関学‐日大の対戦成績
1956年(昭和31年)関学33−0日大
1957年(昭和32年)関学14−6日大
1958年(昭和33年)関学12−13日大
1959年(昭和34年)関学0−42日大

吉岡さんは2008年5月他界された。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 09:18| 記事