日本大学が初めて甲子園ボウルに出場した時、クォーター・バックを務められた須山匡(ただし)さんにお話を聞かせていただいた。日本大学が最初に甲子園に登場したのは、1955年(昭和30年)である。葛飾柴又のお生まれなので、渥美清演じる車寅次郎の「帝釈天で産湯を使い」の世界におられる。3代以上続いた正真正銘のイナセな江戸っ子である。八代将軍徳川吉宗から拝領したという由緒のある地名と同じ名を持つ「お花茶屋」という駅が約束の場所だった。私と同じ大学の大先輩に旧日本海軍のファンで待ち合わせには必ず15分前に来られる方がある。私の父は海軍の将校だった。生前、海軍はそうだったという話を聞いていた。その大先輩と世代が近い方なので20分前に約束の場所に行ったらすでに待っておられた。大恐縮である。おまけに風呂敷一荷分の資料をもってきていだいている。アルバム、書籍と見当をつけて重さを推測すると10キロは優に越えていそうである。
須山さんは1935年のお生まれだがぜい肉がなく背筋が伸び、フットボールのスタイルをすれば今でもそのままクォーター・バックの位置につけそうなたたずまいである。普段から江戸下町で町会、地域の世話をされ、祭礼などで年中忙しくされているので若々しく、こんな風に年を重ねられたら良いだろうな、という羨望を抱かせられた。重そうな荷なのでお持ちします、と申しあげたがお断りになり、あたかもサイドラインからスクリメージへ向かうようにさりげなく歩かれる。
準備おさおさ怠りない方で、駅から近い公民館の会議室を予約されていた。お話をうかがうにはこれ以上の場所はないという静かな環境だった。職員の方が須山さんに気遣われる様子から常日頃、高い地域貢献をされているのが推察できた。
大学のフットボールは卒業があるので、ベスト・チーム同士が合間見える機会は少ない。日本大学と関西学院大学も甲子園ボウルで昨年までに25回対戦しているが双方が最強だと思われる時に巡り合わせるということは少なかった。
話題がそれるがNFLフィルムズはときどき面白い企画をする。記憶によっているので正確ではないかもしれないが、例えば1970年代に最強であったピッツバーグ・スティーラーズと1980年代に王朝を築いたサンフランシスコ・フォーティーナイナーズが対戦するという架空のゲームを過去のフィルムを合成編集して作ってしまったりする。日大と関学でいうならば互いに甲子園ボウル5連覇時の最強チーム同士が対戦したらどちらが勝つだろうかといったことになるであろうか。
1955年(昭和30年)、この両校の甲子園ボウル初対戦のとき、最初にしてそれが実現した。日大は1952年(昭和27年)より4年計画でチーム強化をしてきた最終年であり、関学は中学部よりフットボールを続けてきた選手たちが大学生になりすでに甲子園ボウル2連覇という結果を残していた。そのメンバー全員が残り3連覇をめざし、さらにレベルアップしていた。この両チームが対戦することになった。当時の新聞の戦前評を見ると力は「五分と五分」と書かれている。
2年前ファイターズの65周年のDVDを製作したときこのゲームを取り上げた。完成までの時間が限られていた。DVDなので映像がいるのだがテレビ中継が始まる前年なのでもちろんビデオなど残っているはずもない。当時映画館でよく上映されたニュース・フィルムにも当たったがそれも見つけることができなかった。動きが欲しかったので架空のラジオ実況放送のかたちにした。入手できた写真は7枚。試合の経過のあらましは新聞などに残っていたのでシナリオを書いた。スポーツ実況放送の草分けであり名スポーツ・アナウンサーと言われたNHKの「志村正順」調が望ましいと思っていた。ナレーションを担当していただいた読売テレビの牧野誠三アナウンサーは初見でそれを理解され、あたかも目の前のゲームを見ているかのように台本を活かしてくださった。牧野さんは1990年代、関学・京大戦をはじめとする学生フットボールのアナウンスを長くされた方である。
この試合は展開を追っても選手個々の能力から考えても、甲子園ボウル史上に残る好ゲームだった。第4クォーター残り40秒、20対26、関学は6点のビハインド、攻撃は自陣18ヤードから。そこから同点に追いつき、事実がフィクションを越えた。前回書いた昭和20年代前半と異なり新聞はページ数を回復しつつあった。フットボールも写真入りで掲載されている。当時の新聞を読むとそれだけで背が熱くなる。
ずっとこのゲームの日大のクォーター・バック、須山さんは当時1年生だったと誤解していた。やはり日大には怪物のようなアスリートがいると思った。連想したのは1980年代、同様に1年生からスターターを務めた松岡秀樹さんのことである。4年生の時はリーディング・ラッシャーでリーディング・パサーだった。3年生くらいのころ、秋季リーグ戦で脚を捻挫し、ゲーム前、平服の時は脚を引きずっているのを見かけていた。ところがスタイルをしてゲームが始まるとトップ・スピードで縦横に走るのを見て衝撃を受けた。その当時はテーピングが今ほど発達していたのかどうか定かではないが想像を越えた領域にそのプレーはあった。
最近1953年度のライス・ボウル(1954年1月1日)のメンバー表を見ていて誤解していることに気づいた。ライス・ボウルと同日に行なわれた選抜の高校東西対抗戦のメンバーに須山さんが選出されていたからである。従って1955年11月23日の甲子園ボウル時点では2年生である。誤解がとけても、すごいという印象は減ずることはなかった。一度直接ご本人にお話をうかがいたい、と思ったのはそうした理由からである。ファイターズOB会のご協力でお会いできる運びとなった。
⇒#8「関学と日大」参照
2008年10月21日
#21 科学的武士道 ―日本大学のフットボール 1
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 21:35| 記事
2008年10月14日
#20 取材ノートから @ ―北稜中学校タッチフットボール部、最後の一人―
昨秋から、一刀(いっとう)康弘さんと言う方と大阪市立北稜中学校のタッチフットボール部の歴史を調べている。ことのはじまりは関西学院中学部が、北稜中学と1951年(昭和26年)11月6日に行なったゲームにさかのぼる※。一刀さんは北稜中学の三期生であり、同時にタッチフットボール部においても三期生になられる。北稜中学は戦後の新制度でできた中学校で1948年(昭和23年)に創立された。この時期は学制の新制度と旧制度の切り替え期間にあたっており、学年構成が以上書いた通りには単純ではない。それについては後述したい。
※以下の段落にいたるまでの経緯については#6を参照いただきたい
一刀さんはご自分の前後の学年の連絡先が分かっている元タッチフットボール部員の方々や同窓会幹事に問い合わされ、先日その成果をレポートにまとめられた。当初はこちらがインタビューをさせていただいていたのだが、立場を代えて調べるほうにまわられ立派な記録にされた。幸いなことに北稜中学はタッチフットボール部ができた翌々年の1950年度(昭和25年)には卒業アルバムが製作されていた。クラスごとの写真に加え、スポーツと文化の部は部員の集合写真が掲載されている。しかし調査を始められた当初、昨今の個人情報保護法の壁にはばまれ、卒業アルバムを再閲覧することも峻拒(しゅんきょ)され大幅な回り道をされた。
1950年前後は社会全体は貧しかったが、北稜中学タッチフットボール部の活動そのものは当時としては総じて恵まれていたと考えてよいと思われる。のちに述べるが北稜中学は実質的に大阪市立北第一中学としてスタートした。したがって最初にできた新制中学として物心両面で優遇されたと考えられる。第二次大戦後半から戦後にかけての長い期間は、物資が不足し新聞、雑誌などの用紙調達もままならない時代だった。1946年から1950年に当たる期間の大学フットボールのクォーター・スコアを調べるため、当時の新聞のマイクロ・フィルムを回したことがある。少なくともこの5年間はタブロイド版サイズで建てページ数がほぼ2ページか多くて4ページに限られ、よほどの大事件があったり、正月紙面となった場合にのみやっと増ページされるという状態であった。スポーツは紙面のほんの片隅で野球か相撲がわずかに扱われる程度だった。したがって学校の卒業アルバムも先立つ用紙がなくその時期はまず製作することが困難であった。関西学院大学ファイターズのDVDを制作した時、#18で触れたように学院史編纂室の池田さんにフットボール部が創部された1941年から戦後にかけての卒業アルバムを見せていただいたが1945年前後の数年間はアルバムそのものが存在しなかった。明治時代以降の新聞、出版など印刷物の歴史において定期の刊行物の発行が途切れたのは関東大震災後の数ヶ月のみである。
前述したように現在の時勢から生ずる情報開示拒否という障害はあったにせよ、一刀さんは当時の方々の同窓会をいくつもまわられたり、部員だった方の情報を丹念にたどられ、写真と照らし合わせ順次姓名の確認を続けられた。人為的なさまざまな障害を克服し、地道な努力を積み重ねられた結果、少しずついろいろなことが解明されてきた。部員だった方の消息が一人また一人と分かるたびに一刀さんよりご紹介にあずかり、ともにその方にお会いしインタビューをさせていただいた。多くの新発見があった一方、あらたな矛盾や不明なことが多々でてきた。
例えば最初に書いた「北稜中学は戦後の新制度でできた中学校で1948年(昭和23年)に創立された」というくだりは最初「1947年創立」になっていた。一刀さんが、再確認されたところ次のようなことが分かった。
1947年4月
大阪市立「北第一中学校」創立。新制の中学1年生が入学。
1948年4月
大阪市立「北第二中学校」創立。
「北第一中学校」の2年生になった生徒は「北第一中学校」とこの新設なった「北第二中学校」の2校に振り分けられた。従って北第二中学は前年北第一中学に入学し、この年北第二中学に振り分けられた新2年生と4月入学の新1年生の2学年で構成された。この2年生の内、10数名が2学期になってからタッチフットボールを経験した。
1949年4月
「北第二中学校」は「北稜中学校」と校名を改称。
一刀さんはこの年入学された。
戦後の新制と旧制の学制切り替えが完了する1950年(昭和25年)まで、こうした複雑なできごとが日本全国で起こった。したがって
北稜中学の一期生は、
1年生のとき「北第一中学」に入学し「北第一中学」生として過ごし、
2年生は「北第二中学」生になり、
3年生は「北稜中学」生となり「北稜中学」第一期生として卒業したことになる。
この間、校舎の仮住まい、移転なども加わり複雑なマトリックスが描かれる。そのために練習グランドも変わるということが起こるのだが、今回の記事で扱うには紙幅が足りないのでこの件はこの程度に留めたい。
なお、北稜中学の1949年度(1950年卒業者、つまり第一期生)のアルバムは製作されていないが、幸運にも一刀さんがこの時期のタッチフットボール部員の集合写真を持っておられたので部の活動期間四年分の写真が全てそろった。しかし、インタビューさせていただいた方々のご記憶によれば写真に写っていない部員もいるようである。現時点で写真に残された4年間40数人の部員ほぼ全員のお名前が分かったが、おひとり名前の分からない方がおられる。ただ、まだすべての可能性が検証されているわけではないのでそれもいずれ判明すると思われる。
「関西アメリカンフットボール史」の制作を契機としてこれまでフットボールにおけるさまざまな「なぜ?」を調べてきた。1947年(昭和22年)からの10数年間あまりの間にタッチフットボールを行なった新制中学校の名前を関西だけで20校あまり数えあげることができる。しかしそれ以後大阪などの地域では砂漠の砂の中に川が消えるように急激に活動を停止する。新制中学におけるタッチフットボールは長らく兵庫県の関西学院中学部、滋賀県長浜市立長浜西中学校、長浜南中学校といった数校のみが昭和20年代よりその活動を継続してきた。ここ数年タッチフットボールをする中学校が少しずつ増えてきているが、新制中学におけるタッチフットボールの消長も多くの「なぜ」のひとつである。しかし、これについては一刀さんのような強力な協力者を得て徐々に回答に必要な資料が集まりつつある。
最後に以前の記事について一刀さんの名誉のためにひとこと付け加えたい。#6で1951年11月6日に北稜中学と関学中学部で行なわれた試合について書いた。最初に北稜がタッチダウンをあげたことを記し、経過にふれず最終スコアーのみを付け加えたので初得点のあとは北稜がワンサイドに押され、逆転負けをしたような印象を残すような文章となった。一刀さんの記憶によれば、
「ハーフタイムに関学中学部のメンバーがコーチからかなりハッパをかけられていたことを覚えています。したがって前半は北稜がリードしていたと思う」
とのことなのでこの機会にそのことを書き残しておきたい。もし異なる事実をご記憶されているか、あるいは当時の記録をお持ちの方があればご一報いただければ幸いである。
《物語の断片》
1951年、11月の晩秋に向かうある日、晴れ上がっていたか曇っていたか定かではない。少なくとも雨ではなかった。北稜中学タッチフットボール部の部員たちは試合のため元海軍将校だった桑原徳勝先生に引率され関西学院中学部のある上ヶ原をめざした。十三駅と西宮北口駅の間で阪急電車が脱線したのではないかというくらい大きく振動して走行したことが試合にも増してこの日のもっとも印象深い思い出だった。電車は無事到着しゲームは行なわれたが、その経過については漠漠(ばくばく)たる記憶のかなたにある。
※以下の段落にいたるまでの経緯については#6を参照いただきたい
一刀さんはご自分の前後の学年の連絡先が分かっている元タッチフットボール部員の方々や同窓会幹事に問い合わされ、先日その成果をレポートにまとめられた。当初はこちらがインタビューをさせていただいていたのだが、立場を代えて調べるほうにまわられ立派な記録にされた。幸いなことに北稜中学はタッチフットボール部ができた翌々年の1950年度(昭和25年)には卒業アルバムが製作されていた。クラスごとの写真に加え、スポーツと文化の部は部員の集合写真が掲載されている。しかし調査を始められた当初、昨今の個人情報保護法の壁にはばまれ、卒業アルバムを再閲覧することも峻拒(しゅんきょ)され大幅な回り道をされた。
1950年前後は社会全体は貧しかったが、北稜中学タッチフットボール部の活動そのものは当時としては総じて恵まれていたと考えてよいと思われる。のちに述べるが北稜中学は実質的に大阪市立北第一中学としてスタートした。したがって最初にできた新制中学として物心両面で優遇されたと考えられる。第二次大戦後半から戦後にかけての長い期間は、物資が不足し新聞、雑誌などの用紙調達もままならない時代だった。1946年から1950年に当たる期間の大学フットボールのクォーター・スコアを調べるため、当時の新聞のマイクロ・フィルムを回したことがある。少なくともこの5年間はタブロイド版サイズで建てページ数がほぼ2ページか多くて4ページに限られ、よほどの大事件があったり、正月紙面となった場合にのみやっと増ページされるという状態であった。スポーツは紙面のほんの片隅で野球か相撲がわずかに扱われる程度だった。したがって学校の卒業アルバムも先立つ用紙がなくその時期はまず製作することが困難であった。関西学院大学ファイターズのDVDを制作した時、#18で触れたように学院史編纂室の池田さんにフットボール部が創部された1941年から戦後にかけての卒業アルバムを見せていただいたが1945年前後の数年間はアルバムそのものが存在しなかった。明治時代以降の新聞、出版など印刷物の歴史において定期の刊行物の発行が途切れたのは関東大震災後の数ヶ月のみである。
前述したように現在の時勢から生ずる情報開示拒否という障害はあったにせよ、一刀さんは当時の方々の同窓会をいくつもまわられたり、部員だった方の情報を丹念にたどられ、写真と照らし合わせ順次姓名の確認を続けられた。人為的なさまざまな障害を克服し、地道な努力を積み重ねられた結果、少しずついろいろなことが解明されてきた。部員だった方の消息が一人また一人と分かるたびに一刀さんよりご紹介にあずかり、ともにその方にお会いしインタビューをさせていただいた。多くの新発見があった一方、あらたな矛盾や不明なことが多々でてきた。
例えば最初に書いた「北稜中学は戦後の新制度でできた中学校で1948年(昭和23年)に創立された」というくだりは最初「1947年創立」になっていた。一刀さんが、再確認されたところ次のようなことが分かった。
1947年4月
大阪市立「北第一中学校」創立。新制の中学1年生が入学。
1948年4月
大阪市立「北第二中学校」創立。
「北第一中学校」の2年生になった生徒は「北第一中学校」とこの新設なった「北第二中学校」の2校に振り分けられた。従って北第二中学は前年北第一中学に入学し、この年北第二中学に振り分けられた新2年生と4月入学の新1年生の2学年で構成された。この2年生の内、10数名が2学期になってからタッチフットボールを経験した。
1949年4月
「北第二中学校」は「北稜中学校」と校名を改称。
一刀さんはこの年入学された。
戦後の新制と旧制の学制切り替えが完了する1950年(昭和25年)まで、こうした複雑なできごとが日本全国で起こった。したがって
北稜中学の一期生は、
1年生のとき「北第一中学」に入学し「北第一中学」生として過ごし、
2年生は「北第二中学」生になり、
3年生は「北稜中学」生となり「北稜中学」第一期生として卒業したことになる。
この間、校舎の仮住まい、移転なども加わり複雑なマトリックスが描かれる。そのために練習グランドも変わるということが起こるのだが、今回の記事で扱うには紙幅が足りないのでこの件はこの程度に留めたい。
なお、北稜中学の1949年度(1950年卒業者、つまり第一期生)のアルバムは製作されていないが、幸運にも一刀さんがこの時期のタッチフットボール部員の集合写真を持っておられたので部の活動期間四年分の写真が全てそろった。しかし、インタビューさせていただいた方々のご記憶によれば写真に写っていない部員もいるようである。現時点で写真に残された4年間40数人の部員ほぼ全員のお名前が分かったが、おひとり名前の分からない方がおられる。ただ、まだすべての可能性が検証されているわけではないのでそれもいずれ判明すると思われる。
「関西アメリカンフットボール史」の制作を契機としてこれまでフットボールにおけるさまざまな「なぜ?」を調べてきた。1947年(昭和22年)からの10数年間あまりの間にタッチフットボールを行なった新制中学校の名前を関西だけで20校あまり数えあげることができる。しかしそれ以後大阪などの地域では砂漠の砂の中に川が消えるように急激に活動を停止する。新制中学におけるタッチフットボールは長らく兵庫県の関西学院中学部、滋賀県長浜市立長浜西中学校、長浜南中学校といった数校のみが昭和20年代よりその活動を継続してきた。ここ数年タッチフットボールをする中学校が少しずつ増えてきているが、新制中学におけるタッチフットボールの消長も多くの「なぜ」のひとつである。しかし、これについては一刀さんのような強力な協力者を得て徐々に回答に必要な資料が集まりつつある。
最後に以前の記事について一刀さんの名誉のためにひとこと付け加えたい。#6で1951年11月6日に北稜中学と関学中学部で行なわれた試合について書いた。最初に北稜がタッチダウンをあげたことを記し、経過にふれず最終スコアーのみを付け加えたので初得点のあとは北稜がワンサイドに押され、逆転負けをしたような印象を残すような文章となった。一刀さんの記憶によれば、
「ハーフタイムに関学中学部のメンバーがコーチからかなりハッパをかけられていたことを覚えています。したがって前半は北稜がリードしていたと思う」
とのことなのでこの機会にそのことを書き残しておきたい。もし異なる事実をご記憶されているか、あるいは当時の記録をお持ちの方があればご一報いただければ幸いである。
《物語の断片》
1951年、11月の晩秋に向かうある日、晴れ上がっていたか曇っていたか定かではない。少なくとも雨ではなかった。北稜中学タッチフットボール部の部員たちは試合のため元海軍将校だった桑原徳勝先生に引率され関西学院中学部のある上ヶ原をめざした。十三駅と西宮北口駅の間で阪急電車が脱線したのではないかというくらい大きく振動して走行したことが試合にも増してこの日のもっとも印象深い思い出だった。電車は無事到着しゲームは行なわれたが、その経過については漠漠(ばくばく)たる記憶のかなたにある。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 00:30| 記事
2008年10月01日
#19 フットボール伝来記 4 −焼失した日記−
#17の最後でふれたフットボールの大学対抗戦を初めて行ったラトガーズ大学に明治時代の前半期、なぜ多くの日本人留学生が在学していたかに話を転じたい。グイド・フルベッキという人物がいた。オランダに生まれ、ユトレヒトの工業学校で機械工学を学んだ。のちに22歳でアメリカに渡り、実業についていたがコレラにかかり死に瀕する重体となる。しかし、奇跡的な回復を遂げ一命をとりとめた。その結果、以後の人生を神に仕える決心をし、オーバン神学校に入学、卒業後オランダ改革派教会から派遣されて中国に渡った。フルベッキは語学の才があり英語、ドイツ語にも堪能であった。
前回のマギル大学がスコットランド系の人々が創立したように、オランダ人がアメリカで創設した大学がラトガーズ大学である。教派はオランダ改革派だった。ヨーロッパから移民してきた信仰に篤い人々にとって大切なのは教会であり、教会を司る牧師であった。したがって牧師を養成するために神学校を建てた。アメリカにおける初期の大学は神学校であった。ハーバード、ウィリアム・アンド・マリー、エール、ペンシルバニア、プリンストン、コロンビア、ブラウン、ダートマス。ラトガーズも1776年のアメリカ独立宣言までに開校した9つの大学のひとつである。オランダ改革派教会は宣教活動に熱心であった。フルベッキも上海経由で1859年、長崎の出島に来航した。まだ禁教令のため布教を行うことができなかったが、幕府の英語伝習所、済美館で英学※を講じた。済美館には海外の情報を必要としていた各藩から選び抜かれた俊英が国内留学してきていた。のちに早稲田大学を開く大隈重信もここで学んでいる。従って明治初期に留学した人々がフルベッキの仲立ちでラトガーズに向かったことは自然なことであった。
下の写真は1871年のラトガーズにおける日本人留学生たちである。

留学生たちの名前は判明しており、1869年の最初のゲームを観戦した日本人がいるかどうか、留学生の日記を渉猟(しょうりょう)した。その結果、記録を残している可能性がある日下部太郎という学生にたどりついた。幕末に四賢候と呼ばれた藩主の一人である福井藩の松平春嶽じきじきの命で長崎に国内留学をし、済美館でフルベッキの教えを受け、ラトガーズに留学した。
1866年に幕府が海外渡航の禁を解いた翌年の1867年1月、日下部は日本人留学生第一号として、開国後4番目に発行されたパスポートをもちアメリカ留学へと出立する。長崎より南下してジャワに至り、そこで1ヶ月半の間アメリカ行きの便船を待った。この頃は定期の船がなかったからである。インド洋、喜望峰を経て大西洋を北上し、150日近くかけてニューヨークに到着した。当時は蒸気船と帆船が併用されていた期間であった。蒸気船であれば早く着くことができたが乗船料が高価であったので、日数がかかるが安価な帆船を利用することが多かったという。要した日数から考えて日下部は帆船に乗ったと考えられる。昭和の初めにはこれが40日程度に短縮されている。
日下部は日本での英語学習がわずか一年あまりにすぎなかったが初年度の1867年、大学1年生となる。当時の留学生は、勉学に必要な語学力習得のため、まずグラーマー・スクールに入学するのが常であった。おそらく日下部には天才的な語学の才があったものと考えられる。日下部の学部は科学部であった。現存する当時のノートには大砲の弾道計算などが残っている。帰国後は軍に勤務し砲兵隊の指揮をとることを目指していたという。数式を主に扱うので文科系に比べ言葉の障壁が少ないとはいえ異例なことであった。当初は藩費での留学であったが、最終学年の3年目には明治政府より海外留学生と認められ年間600ドルの支給をうけている。だが当時は送金方法も確立されておらず、常に経済的な苦労がついてまわった。アメリカ東部の物価は高く、10数年後の1884年に同じラトガーズ大学に留学した松方幸次郎※も首相、松方正義の子弟であったにもかかわらず常に逼迫した経済状況にあった。これは明治時代に留学した人々に共通の困苦であった。
※ 松方幸次郎については#16を参照。
しかし日下部は乏しい留学費の中から3年間の在学中に200冊の書物を購入している。現代と異なり書籍は非情に高価な時代であった。夏目漱石が1900年代初頭、ロンドンに留学したがやはり安い下宿を求めて5回の転居をし節約した金で400冊の本を買ったことを連想させる。漱石は年間1800円の官費支給を受けていた。これも「やむをえざる西欧の受容」だった。日下部太郎も夏目漱石もけなげにまで自らの使命を果たそうとした。
当時の大学は3学年。ラトガーズ大学は人文学部と科学部の2学部のみであった。人文学部は70人程度、科学部は10人前後、したがって総数約80名のちいさな大学だった。プリンストン大学戦に出場したのは25人であるので差し引くと55名となる。観客はおおよそ100名と記録されている。状況から類推すると試合前から初の大学対抗ということで学内の大きな話題になっていたと思われる。試合後に発行された学内新聞の”The Targum”※ にこのゲームのことについて詳しい記事が掲載された。日下部の指導教官であったウィリアム・グリフィスはフットボールを行っていたと言われている。したがって日本人がこのゲームを観戦していた可能性はかなり高いのではないだろうかと考えている。
下の写真は1870年4月19日に撮影されたラトガーズに留学していた日本人留学生たちである。
※ 試合があった1869年の1月に創刊。試合は同年の11月6日、土曜日。

ただし日下部はこの写真の中にはいない。写真が撮られる6日前、4月13日に他界していたからである。骨身を削って勉学に打ち込んだ日下部は常に首席であった。そして学問を含め日常のあれこれについて克明な日記をつけていた。冬には極寒となる東部アメリカの生活環境は物心両面にわたって厳しく、卒業を目前にして結核に倒れ、最初に大学対抗のフットボール・ゲームが行われた約5ヵ月後、1870年4月13日に息を引き取っている。大学は日下部の優秀さを高く評価し、愛惜の念を込めて卒業生とした。さらに成績優秀者の集まりであるΦΒΚ(ファイ・ベータ・カッパ)※のメンバーにも加えた。またそのメンバーに贈られる黄金の鍵を授与している。日下部の葬儀の日、大学は全学休講して弔意を表した。日下部太郎は特別に優秀な成績を収め、人格の高潔さを持って周りに深い感化を与えた。一証左としてその名が新渡戸稲造の「武士道」の序文にも取り上げられていることを記しておく。
※ 哲学は人生の導き手、というギリシャ語の頭文字
日下部の日記は蔵書その他の遺品とともに故国、福井の八木家(日下部の旧姓)に持ち帰られた。しかし、明治9年10月4日、八木家に火事があり、そのおりに他の家財とともに火につつまれ、日本人が最初のゲームを見たかどうかを証明できたかもしれない重要な文書は灰燼(かいじん)に帰した。
前回のマギル大学がスコットランド系の人々が創立したように、オランダ人がアメリカで創設した大学がラトガーズ大学である。教派はオランダ改革派だった。ヨーロッパから移民してきた信仰に篤い人々にとって大切なのは教会であり、教会を司る牧師であった。したがって牧師を養成するために神学校を建てた。アメリカにおける初期の大学は神学校であった。ハーバード、ウィリアム・アンド・マリー、エール、ペンシルバニア、プリンストン、コロンビア、ブラウン、ダートマス。ラトガーズも1776年のアメリカ独立宣言までに開校した9つの大学のひとつである。オランダ改革派教会は宣教活動に熱心であった。フルベッキも上海経由で1859年、長崎の出島に来航した。まだ禁教令のため布教を行うことができなかったが、幕府の英語伝習所、済美館で英学※を講じた。済美館には海外の情報を必要としていた各藩から選び抜かれた俊英が国内留学してきていた。のちに早稲田大学を開く大隈重信もここで学んでいる。従って明治初期に留学した人々がフルベッキの仲立ちでラトガーズに向かったことは自然なことであった。
下の写真は1871年のラトガーズにおける日本人留学生たちである。

留学生たちの名前は判明しており、1869年の最初のゲームを観戦した日本人がいるかどうか、留学生の日記を渉猟(しょうりょう)した。その結果、記録を残している可能性がある日下部太郎という学生にたどりついた。幕末に四賢候と呼ばれた藩主の一人である福井藩の松平春嶽じきじきの命で長崎に国内留学をし、済美館でフルベッキの教えを受け、ラトガーズに留学した。
1866年に幕府が海外渡航の禁を解いた翌年の1867年1月、日下部は日本人留学生第一号として、開国後4番目に発行されたパスポートをもちアメリカ留学へと出立する。長崎より南下してジャワに至り、そこで1ヶ月半の間アメリカ行きの便船を待った。この頃は定期の船がなかったからである。インド洋、喜望峰を経て大西洋を北上し、150日近くかけてニューヨークに到着した。当時は蒸気船と帆船が併用されていた期間であった。蒸気船であれば早く着くことができたが乗船料が高価であったので、日数がかかるが安価な帆船を利用することが多かったという。要した日数から考えて日下部は帆船に乗ったと考えられる。昭和の初めにはこれが40日程度に短縮されている。
日下部は日本での英語学習がわずか一年あまりにすぎなかったが初年度の1867年、大学1年生となる。当時の留学生は、勉学に必要な語学力習得のため、まずグラーマー・スクールに入学するのが常であった。おそらく日下部には天才的な語学の才があったものと考えられる。日下部の学部は科学部であった。現存する当時のノートには大砲の弾道計算などが残っている。帰国後は軍に勤務し砲兵隊の指揮をとることを目指していたという。数式を主に扱うので文科系に比べ言葉の障壁が少ないとはいえ異例なことであった。当初は藩費での留学であったが、最終学年の3年目には明治政府より海外留学生と認められ年間600ドルの支給をうけている。だが当時は送金方法も確立されておらず、常に経済的な苦労がついてまわった。アメリカ東部の物価は高く、10数年後の1884年に同じラトガーズ大学に留学した松方幸次郎※も首相、松方正義の子弟であったにもかかわらず常に逼迫した経済状況にあった。これは明治時代に留学した人々に共通の困苦であった。
※ 松方幸次郎については#16を参照。
しかし日下部は乏しい留学費の中から3年間の在学中に200冊の書物を購入している。現代と異なり書籍は非情に高価な時代であった。夏目漱石が1900年代初頭、ロンドンに留学したがやはり安い下宿を求めて5回の転居をし節約した金で400冊の本を買ったことを連想させる。漱石は年間1800円の官費支給を受けていた。これも「やむをえざる西欧の受容」だった。日下部太郎も夏目漱石もけなげにまで自らの使命を果たそうとした。
当時の大学は3学年。ラトガーズ大学は人文学部と科学部の2学部のみであった。人文学部は70人程度、科学部は10人前後、したがって総数約80名のちいさな大学だった。プリンストン大学戦に出場したのは25人であるので差し引くと55名となる。観客はおおよそ100名と記録されている。状況から類推すると試合前から初の大学対抗ということで学内の大きな話題になっていたと思われる。試合後に発行された学内新聞の”The Targum”※ にこのゲームのことについて詳しい記事が掲載された。日下部の指導教官であったウィリアム・グリフィスはフットボールを行っていたと言われている。したがって日本人がこのゲームを観戦していた可能性はかなり高いのではないだろうかと考えている。
下の写真は1870年4月19日に撮影されたラトガーズに留学していた日本人留学生たちである。
※ 試合があった1869年の1月に創刊。試合は同年の11月6日、土曜日。

ただし日下部はこの写真の中にはいない。写真が撮られる6日前、4月13日に他界していたからである。骨身を削って勉学に打ち込んだ日下部は常に首席であった。そして学問を含め日常のあれこれについて克明な日記をつけていた。冬には極寒となる東部アメリカの生活環境は物心両面にわたって厳しく、卒業を目前にして結核に倒れ、最初に大学対抗のフットボール・ゲームが行われた約5ヵ月後、1870年4月13日に息を引き取っている。大学は日下部の優秀さを高く評価し、愛惜の念を込めて卒業生とした。さらに成績優秀者の集まりであるΦΒΚ(ファイ・ベータ・カッパ)※のメンバーにも加えた。またそのメンバーに贈られる黄金の鍵を授与している。日下部の葬儀の日、大学は全学休講して弔意を表した。日下部太郎は特別に優秀な成績を収め、人格の高潔さを持って周りに深い感化を与えた。一証左としてその名が新渡戸稲造の「武士道」の序文にも取り上げられていることを記しておく。
※ 哲学は人生の導き手、というギリシャ語の頭文字
日下部の日記は蔵書その他の遺品とともに故国、福井の八木家(日下部の旧姓)に持ち帰られた。しかし、明治9年10月4日、八木家に火事があり、そのおりに他の家財とともに火につつまれ、日本人が最初のゲームを見たかどうかを証明できたかもしれない重要な文書は灰燼(かいじん)に帰した。
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