「火輪の海」という本がある。「火輪」(かりん)は「火輪船」の略で、外輪式蒸気船の幕末期における呼称である。「鉄鋼製の蒸気船」という限定した定義もある。「火輪」は同時に「火輪車」の略でもあり、汽車の明治初期の呼称だった。中国語の「火車」が汽車であるのと気分として似ているがこの三つの呼称の「火」が共通の字義なのかは定かではない。
1989年、神戸新聞社は創刊90周年事業として同社の初代社長、松方幸次郎と彼の事績について「火輪の海―松方幸次郎とその時代」という企画を組み、朝刊連載を行った。連載は9月にはじまり翌1990年3月まで約半年間続き、7月に上梓された。同年に村尾育英会学術賞と井植文化賞(報道出版部門)を受賞している。学術賞の名にふさわしく詳細な参考文献リストが巻末に備わった労作である。
松方幸次郎の名前を知る人は少なくなったかもしれない。明治、大正、昭和にわたり、現在の川崎重工業、神戸新聞をはじめとして多くの会社のトップを務めた財界の重鎮であった。明治年間の首相、松方正義の三男であり、川崎正蔵が築いた川崎財閥の後継者として大正年間に神戸市を日本第3位の経済都市に押し上げた。
川崎重工業の前身である川崎造船所は、戦前三菱造船と双璧をなし、商船をはじめとし多くの軍艦を建造した。松方は社長としての繁忙の間をぬい、パリ、ロンドンを中心に、私財を傾け西欧絵画2千点、浮世絵8千点を蒐集したといわれている。浮世絵は日本においてひととき粗末に扱われた。陶磁器の包装紙にもされ海外流失がはなはだしかったが、松方の手によって多数が取り戻された。総点数についてはコレクションの規模が大きく正確な数は不明である。購入後すぐに日本に送られなかったので、第二次大戦のため「松方コレクション」と呼ばれる膨大な作品はフランスに留め置かれていた。フランスにあった多くの作品群の返還のために立ち働いたのは当時の首相、吉田茂である。吉田は持ち前の政治力を発揮し、大統領シャルル・ド・ゴールに「ウィ」と言わせた。このコレクションを収めるためそれに先立ち1954年、国立西洋美術館を設立することが閣議決定され、1959年に落成した。
「火輪の海」の中にフットボールのことが出てくる。最初のきっかけは前回に紹介させていただいた古川明さんである。2003年に「関西アメリカンボール史」を出版したのち、数年して国立西洋美術館のことがテレビで取り上げられた。当然ながら話題は松方幸次郎におよびアメリカ留学時代の写真が紹介された。この写真を古川さんがご覧になって、松方が着ているジャージはフットボールのものではないだろうか、と思われた。フットボール史研究会で話題にされ、調べていくと1884年に撮られたラトガーズのフットボール・チームの写真にたどりついた。この間の事情が「火輪の海」に書かれている。
松方幸次郎は在籍していた大学予備門(現在の東京大学教養学部)において現在でいえば学園紛争を起こし退学になったため留学を考えラトガーズ大学を選んだ。1880年代当時ラトガーズ大学は日本ではかなりなじみのある大学であった。幕末からの10年間で少なくとも40人以上の日本人ラトガーズ大学に留学した。同時期にアメリカに留学していた日本人は約300名とされているのでラトガーズへの日本人留学生は相当の割合といえる。
「火輪の海」によるとラトガーズへ入学した松方は学内における地位確立のため、明治人らしい積極的な行動に出た。まず学生の社交クラブ「デルタ・イプシロン」に入会。次にフットボール部の扉をたたいた。下記はテレビでも登場したそのときの写真である。松方は最前列右から2番目である。写真で見ると一目瞭然の体格差があるがポジションはフォワードであったという。現在ならばラインというところだが、1880年代はまだラグビーの用語を併用していたのでこう呼ばれた。松方の左にいる人物の持つボールも球体に近く、また説明がなければラグビー・チームと見まがうスタイルである。

ジャージの「89」という数字は卒業予定の年である1889年を示している。しかし、弁護士の資格をとるため1886年にエール大学法学部に転ずるため実際にどの程度フィールドに立ったかは定かではない。
以前から「火輪の海」についてこの本を執筆された方にお会いし、お話を伺いたいと思っていた。今回、機会があり本をまとめられた編集チームのお一人で実際にラトガーズ大学へ取材に行かれた服部孝司さんにお会いすることができた。ラトガーズ大学の関係各所をはじめとして欧州、日本国内にわたって膨大な調査をされた。存在するか、しないかも判然としない一枝をさがすために樹海に分け入るような作業を積み重ねられた。こうした文献に当たるだけでない事実の断片の間を埋めるフィールドワークの結果、上下2巻、約600ページの記録が生まれた。明治、大正、昭和をつらぬく日本の産業史と軍事史が松方幸次郎という規格外れのスケールの人物を案内役として壮大な叙事詩に織り上げられている。この本は一時品切れとなっていたが昨年末に一巻本として再刊されたので現在入手は容易である。
幕末以来1880年代までに、数100人の日本人がラトガーズそのほかのアメリカの大学に留学した。従って松方以前にフットボールを経験したものがいたかもしれない。しかし、現時点の調査ではこの写真は日本人がフットボールに触れた最初期の記録の一つであるということができる。次回はさらに時代をさかのぼり、1869年にラトガーズ大学とプリンストン大学が行った最初のゲームを観戦したひとびとのことについて触れたい。(この最初のゲームについては#1参照)