古川明さん※に連絡していただき渡辺年夫さんとお会いした。渡辺さんは関西学院大学が1949年(昭和24年)、甲子園ボウルに初出場、初優勝したときのキャプテンである。明快と同時に透徹したユーモアの眼をお持ちの方である。春秋に富んだ人生を客観的に淡々とお話ししてくださった。冷静である。ときに湖面をかすかな風が通り過ぎたように、目に見えるか見えないかのさざなみほどの変化が表情を通りすぎる。
※古川明さんについては#3をご参照ください。
DVD“FIGHT ON, KWANSEI”の台本を書かせていただいたとき、FIGHTERSのCONSISTENCY(堅固さ、持続性)をテーマにさせてもらった。他の大学のさまざまな方から「強さの秘密は何ですか?」と聞かれることがこれまで何度かあった。部のOBではないが母校のことなので面映く、それまでは「さあ、なんなのでしょうね」とのみ応えさせていただいていた。DVDへはその問いかけへの回答の一部を入れさせてもらった。DVD制作時点では渡辺さんのことは仄聞(そくぶん)に留まっていた。一度ご本人にお話をお聞きしたいと思っていたことがかなった。先日も書いたが今回のインタビューも含め終戦後の数年間を時系列に書く予定である。現在その準備をしているので目途がついた時点で書き始めたいと思っている。
今回は「金ぴか時代」のフットボールの展開をまずランキングされたチーム数と各チームの1シーズンのゲーム数から見ていきたい。1869年にラトガーズ大学とプリンストン大学のゲームがあったとき※から大学対抗の対戦記録が残っている。この年は2校、2試合のみである。翌1870年は3校、ラトガーズ大学がプリンストン大学、コロンビア大学と対戦している。1871年は対抗戦の記録がない。1872年は上記にエール大学とスティーブンズ・テックという大学が加わる。前回紹介した大学フットボール連盟が結成された1876年はランキング校が6校になる。エール大学は連盟に加わらなかったが、この年無敗だったので1位になっている。しかし、この時期、一番ゲーム戦数が多いプリンストン大学でも5試合であり、エール大学は3勝0敗でのトップである。2位はハーバード大学だった。
※#1参照
10年後の1886年、最もゲーム数が多かったのはペンシルバニア大学の17ゲーム、ランキングされた14校の平均ゲーム数は約9ゲーム、最も少なかったラトガーズ大学とダートマス大学は4である。そして1896年にはランク校が30校と10年前に比べ倍増する。対戦数は平均すると10ゲーム前後になる。シカゴ大学が19ゲームで抜きん出て多い。
この明らかな数字の増加は1880年代にルールの整備が進んだ結果と見ることができる。1880年代の終わりころウォルター・キャンプによるオール・アメリカンの選出も始まり、同じころフットボールの新聞報道も増えて行った。
まだ時代は荒々しかった。西部開拓時代は1889年まで続いた。1890年の国勢調査の結果がフロンティアの消滅を証明したというのが定説になっている。この時代の空気は西部劇を考えてみると良く理解できる。手がかりとして人物の名前を順不同に列挙する。ワイルド・ビル・ヒコック、ビリー・ザ・キッド、ジェシー・ジェームズ、ワイアット・アープ。このワイアット・アープが登場する「OK牧場の決闘」は1881年のことである。日本でも決闘を禁止する法律が規定されるのは1889年のことであるので同様の猛々しい空気を共有していたことになる。
同時代人であったジョン・D.ロックフェラー,Sr.は1863年にスタンダード・オイルを興し、1870年代の終わり頃、早くもアメリカ国内で90%のシェアを獲得した。しかし、1890年にはシャーマン・反トラスト法が下院において成立した。その結果1892年にスタンダード・オイル・トラストは解散命令を受けている。実際に解体されたのは1911年だがジョン・D.は1895年、韜晦(とうかい)して事業からの引退を声明した。一方1890年、ロックフェラーは2000万ドルの資金を拠出しシカゴ大学を創立した。アメリカンフットボール部もつくられた。コーチとして招聘されたのはのちに「コーチのコーチ」と呼ばれるようになるエイモス・アロンゾ・スタッグである。実質的な体育部長でもあった。スタッグはエール大学でフットボールとベースボールでオール・アメリカンになり卒業したあと、International YMCA Training schoolにいた。ついでながらダニエル・D.ルイスが2度目のアカデミー主演男優賞を獲得した作品である“There Will Be Blood”はスタンダード・オイルに対立する独立系石油会社を描いている。ダニエル・D.ルイスが演じる独立系石油会社を創設し事業のためには徹底して非情な主人公は、ルイスのメイクした風貌とその行動からジョン・D.を容易に連想させ、ロックフェラーに対する強いアイロニーを感じさせる作りになっていて巧みである。
フットボールに話を戻せば、1892年には契約書が残る最初のプロ選手が誕生している。William W. Heffelfingerである。この正確な発音が難しい名前を持つプロ第1号プレーヤーはエール大学出身で1889年から3年連続、オール・アメリカンに選出されたガードの選手だった。このときの契約では当時の金額で1試合500ドルが支払われている。そのあと何人かのプレーヤーが契約をするのだがこの金額は破格だった。また、バックスのプレーヤーではなくラインがスターであったということも興味深いことである。1889年には現在もアリゾナ・カージナルスとして存続するモーガン・アスレティック・クラブが創設された。シカゴにできたセミプロのチームであった。現存する最も古いチームである。1920年、NFLがAPFA※として創設されたとき、シカゴ・カージナルスと改称された。その後もフランチャイズの変更とともにチーム名を変えながら、1988年に現在のアリゾナに本拠を移した。カージナルスというニックネームはシカゴ大学のフットボール・チームのジャージの色に由来している。
※American Professional Football Association
2008年07月25日
#15 「金ぴか時代」とフットボールの展開 その3
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 07:35| 記事
2008年07月17日
#14 「金ぴか時代」とフットボールの展開 その2
ときどき調べものがあって図書館へ行く。これまで夜の7時で閉館だと思っていたが、午後8時まで開いていることが分かった。平日、仕事の後に行けるので便利である。夏季だけのことかも知れないが、確かめないでおく。終って外へ出たら驟雨が来た。駅まで短い距離なのだがいかんともしがたい。激情的な降りなので一時的なものと思い図書館の軒にいてやりすごした。
図書館で古い新聞のマイクロフィルムを見ていた。巻取りがモーターで行えるものもあるが手回し式は風情がある。カラカラと音たててクランクを回していると幻燈機のカタカタという音を思い起こさせ何十年もタイムスリップする仕掛けとして心がなごむ。DVDの“FIGHT ON, KWANSEI”を制作した時、新聞社の方のご好意で読者サービス用に使っておられるマイクロフィルムを見るビューアーを操作させていただいた。新聞を等倍で見ることができ、かつローリングがダイヤルで自動的にできるのまるでスーパー・カーに乗ったようなスピードだった。プリントアウトも非常にきれいだが、いかんせん1枚数百円と高価である。従って調べもので一度に10枚近く頼むには適しない。
調べていたのは1950年の甲子園ボウルのことである。この年は年央に朝鮮戦争がはじまり戦後の日本は転換点にさしかかっていた。甲子園ボウルは前年に引き続き関学と慶応の対戦となり、関学が2連覇して第一期黄金時代を築く第一歩を印した年である。この年を含む終戦直後のフットボールの歴史についてはいずれ詳しく書くつもりである。ゲームは12月10に行われた。社告が2日前の8日に載っている。そこに対戦校名とならんで解説という表示があり、「三隅珠一」という名前が記されている。この頃から場内解説があったようである。三隅先生は#3で紹介したピーター岡田が旧制の池田中学へ指導におもむいたとき池田中学におられた先生である。その後日本のタッチフットボール普及活動の中心となり活躍された。全国高等学校アメリカンフットボール選手権大会、つまりクリスマス・ボウルの最優秀バックス賞に三隅杯としてその名が刻まれている。三隅先生については別に記事をもうける予定なのでここまでとしたい。
前置きが長くなったが、雨宿りの閑話としてお読みいただいていれば幸いである。1869年は前回書いたようにいろいろなことがらの始まりの時期と考えてよい。1870年代にアメリカにおけるメジャーなスポーツのスタートの時期を迎える。1874年、のちにアメリカンフットボールのいしずえとなるハーバード大学とカナダのマギル大学のラグビー・ルールによる対戦が行われた。その翌年、1875年、ケンタッキー・ダービーがスタートする。1876年、メジャー・リーグのナショナル・リーグが早くも設立される。この時のチームのひとつ、シカゴ・ホワイトストッキングス(現在のカブス)に属していたのがアルバート・グッドウイル・スポルディングだった。プレーヤーであり、またスポーツ用品メーカー、スポルディング社の創設者である。スポルディングはスポーツにおけるコミュニケーションの重要性をよく理解していたので関連書籍の出版も熱心に手がけた。のちに大正年間、東京高等師範学校附属中学の生徒たちがフットボールを行った際、丸善の店頭で手にしたのはこのスポルディング社から出されたスポーツ叢書の一冊“How to Play Football”だった。
同年1876年、フットボールにおいてはプリンストン大学がはたらきかけ、大学フットボール連盟※というフットボールにおける最初の競技組織が結成された。招待状が送られたのはその後半世紀にわたりフットボール界でリーダーの役割を果たすハーバード、エール、コロンビアの各大学である。しかし、エール大学はゲームを行うことには同意したが組織には加わらなかった。理由は連盟のルールではラグビーにならい1チームを15人としており、エールはこれに賛同せず11人を主張したからである。このエールのこだわりが結果としてフィールド内の1チームの人数を11人とした。それには「フットボールの父」と呼ばれるウォルター・キャンプに代表されるエール大学の精力的な活動があったからである。
※ Intercollegiate Football Association
1880年代は#2で紹介したようにウォルター・キャンプによるルール整備の時代に入る。日本へのフットボール伝来に大きな役割をはたすYMCAがスポーツ指導者育成のためのInternational YMCA Training School をマサチューセッツのスプリングフィールドに設立するのは1885年のことである。
関大のフットボール部設立にあたり松葉徳三郎とともに働いた石渡俊一は昭和のはじめこの学校に留学した。石渡の先人として大森兵蔵は明治末期にこの学校に学んだ。大森は帰国後、日本が最初に参加したストックホルム・オリンピック(1912年)の監督を務めた。このときの団長は嘉納治五郎である。オリンピック参加のために1911年(明治44年)、日本に体育協会が誕生し、日本のスポーツは黎明期を脱しようとしていた。団とはいいながら代表として送られたのはマラソンの金栗四三と陸上短距離の三島弥彦の2名であった。スプリングフィールドではカリキュラムにフットボールが含まれていたので大森はフットボールを体験した。石渡も授業でフットボールを学んだ。その講義内容は石渡が帰国後、「アサヒスポーツ」という大正年間に発刊された、現在でいえばスポーツ・イラストレイティッドのような雑誌にフットボールの入門記事を書くことができるだけの量とレベルにあった。
図書館で古い新聞のマイクロフィルムを見ていた。巻取りがモーターで行えるものもあるが手回し式は風情がある。カラカラと音たててクランクを回していると幻燈機のカタカタという音を思い起こさせ何十年もタイムスリップする仕掛けとして心がなごむ。DVDの“FIGHT ON, KWANSEI”を制作した時、新聞社の方のご好意で読者サービス用に使っておられるマイクロフィルムを見るビューアーを操作させていただいた。新聞を等倍で見ることができ、かつローリングがダイヤルで自動的にできるのまるでスーパー・カーに乗ったようなスピードだった。プリントアウトも非常にきれいだが、いかんせん1枚数百円と高価である。従って調べもので一度に10枚近く頼むには適しない。
調べていたのは1950年の甲子園ボウルのことである。この年は年央に朝鮮戦争がはじまり戦後の日本は転換点にさしかかっていた。甲子園ボウルは前年に引き続き関学と慶応の対戦となり、関学が2連覇して第一期黄金時代を築く第一歩を印した年である。この年を含む終戦直後のフットボールの歴史についてはいずれ詳しく書くつもりである。ゲームは12月10に行われた。社告が2日前の8日に載っている。そこに対戦校名とならんで解説という表示があり、「三隅珠一」という名前が記されている。この頃から場内解説があったようである。三隅先生は#3で紹介したピーター岡田が旧制の池田中学へ指導におもむいたとき池田中学におられた先生である。その後日本のタッチフットボール普及活動の中心となり活躍された。全国高等学校アメリカンフットボール選手権大会、つまりクリスマス・ボウルの最優秀バックス賞に三隅杯としてその名が刻まれている。三隅先生については別に記事をもうける予定なのでここまでとしたい。
前置きが長くなったが、雨宿りの閑話としてお読みいただいていれば幸いである。1869年は前回書いたようにいろいろなことがらの始まりの時期と考えてよい。1870年代にアメリカにおけるメジャーなスポーツのスタートの時期を迎える。1874年、のちにアメリカンフットボールのいしずえとなるハーバード大学とカナダのマギル大学のラグビー・ルールによる対戦が行われた。その翌年、1875年、ケンタッキー・ダービーがスタートする。1876年、メジャー・リーグのナショナル・リーグが早くも設立される。この時のチームのひとつ、シカゴ・ホワイトストッキングス(現在のカブス)に属していたのがアルバート・グッドウイル・スポルディングだった。プレーヤーであり、またスポーツ用品メーカー、スポルディング社の創設者である。スポルディングはスポーツにおけるコミュニケーションの重要性をよく理解していたので関連書籍の出版も熱心に手がけた。のちに大正年間、東京高等師範学校附属中学の生徒たちがフットボールを行った際、丸善の店頭で手にしたのはこのスポルディング社から出されたスポーツ叢書の一冊“How to Play Football”だった。
同年1876年、フットボールにおいてはプリンストン大学がはたらきかけ、大学フットボール連盟※というフットボールにおける最初の競技組織が結成された。招待状が送られたのはその後半世紀にわたりフットボール界でリーダーの役割を果たすハーバード、エール、コロンビアの各大学である。しかし、エール大学はゲームを行うことには同意したが組織には加わらなかった。理由は連盟のルールではラグビーにならい1チームを15人としており、エールはこれに賛同せず11人を主張したからである。このエールのこだわりが結果としてフィールド内の1チームの人数を11人とした。それには「フットボールの父」と呼ばれるウォルター・キャンプに代表されるエール大学の精力的な活動があったからである。
※ Intercollegiate Football Association
1880年代は#2で紹介したようにウォルター・キャンプによるルール整備の時代に入る。日本へのフットボール伝来に大きな役割をはたすYMCAがスポーツ指導者育成のためのInternational YMCA Training School をマサチューセッツのスプリングフィールドに設立するのは1885年のことである。
関大のフットボール部設立にあたり松葉徳三郎とともに働いた石渡俊一は昭和のはじめこの学校に留学した。石渡の先人として大森兵蔵は明治末期にこの学校に学んだ。大森は帰国後、日本が最初に参加したストックホルム・オリンピック(1912年)の監督を務めた。このときの団長は嘉納治五郎である。オリンピック参加のために1911年(明治44年)、日本に体育協会が誕生し、日本のスポーツは黎明期を脱しようとしていた。団とはいいながら代表として送られたのはマラソンの金栗四三と陸上短距離の三島弥彦の2名であった。スプリングフィールドではカリキュラムにフットボールが含まれていたので大森はフットボールを体験した。石渡も授業でフットボールを学んだ。その講義内容は石渡が帰国後、「アサヒスポーツ」という大正年間に発刊された、現在でいえばスポーツ・イラストレイティッドのような雑誌にフットボールの入門記事を書くことができるだけの量とレベルにあった。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 07:15| 記事
2008年07月10日
#13 「金ぴか時代」とフットボールの展開 その1
まるで真夏のようである。降れば土砂降りから晴れれば蒸し風呂に変わった。セミの声は少し先だが、暑さを好むクマゼミの北限がどんどん北上し、関東平野でも大増殖しているという話だ。大阪でもクマゼミの数が急増しているという。調べるには脱皮した蝉の殻を集め、アブラゼミの数との比率を出すという。ここ20数年にわたり大阪各所の蝉の繁殖地でセミ殻を地道に集めている方々がおられると聞いた。歴史の調査もその作業と似ている。人手が必要で、ひとつのことばに至るまで多くの方の労力を要する。
さて、前回の続きである。南北戦争が終わりアメリカは次第に都市化していった。この頃から19世紀末にかけての約30年間を、ハレー彗星とともに生まれ、彗星とともに去ったマーク・トウェインは「金ぴか時代」と名づけ、同名の小説を残した。「ハックルベリー・フィンの冒険」や「トム・ソーヤの冒険」で知られているこの作家は生まれた年にハレー彗星が観測されたので、かねがね去るときも彗星の年だと半ば得意のユーモアをこめて語っていた。
「金ぴか時代」は急激な経済成長にともなう拝金主義の、いわばバブルの時代だった。ヴィクトリア朝イギリスのちょうど真中、折り返し点に当たる1869年、ラトガーズ大学とプリンストン大学の初の大学対抗フットボール・ゲームが行われたことは#1で述べたとおりである。大英帝国のたそがれへの序章が始まろうとしていた。そして南北戦争を終えたアメリカはパクス・アメリカーナを築く長い道のりのとば口にさしかかっていた。
フォワード・パス採用以前の19世紀原初フットボールは現在から考えれば乱暴で危険な競技であったにもかかわらずなぜ廃止に追い込まれなかったか、という疑問がこれまでにも投げられかけてきた。代表的な回答は以下の2つである。
第一は民俗フットボールから近代フットボールに移行する過程にあったため同時代人には存続の帰趨(きすう)を制するほどの乱暴とは映らなかった、というものである。
第二。19世紀後半は、二度の世界大戦を含む戦争の世紀である20世紀につらなる国際紛争激化の時代であった。普仏(プロシア・フランス)戦争、希土(ギリシア・オスマン)戦争、米西(アメリカ・スペイン)戦争などが起こった。オリンピックを提唱したクーベルタンには普仏戦争に敗れた祖国再興のために青少年間にスポーツを振興させ強国を作るというもくろみもあったといわれている。こうした背景の中で南北戦争が終わり都市化が進み、金ぴか時代の進行とともにアメリカ人の間では国を守るために必要な勇敢さが次第に失われつつあるという危機感があった。したがって勇敢さの確保のためにフットボールは支持された、と考えられている。この考えは20世紀に入ってからもセオドア・ルーズベルト大統領、その後のウィリアム・タフト大統領にも引き継がれた。そして関西大学アメリカンフットボール部の創設者である松葉徳三郎は1932年、ロサンゼルス・オリンピック視察のおり、USC他のフットボール・ゲームを観て、まさにこの勇敢の精神を感得し、創部を決意したという。
当初、東海岸で興ったフットボールは初秋から晩秋にかけての天候の安定しない中で行われた。英語に“sloppy”という単語がある。水っぽい、水浸しの、泥んこの、といった訳語が与えられている。筆者の観戦したハーバード大学とエール大学の対抗戦も霧とも雨ともつかない、大気に多量の水分を含んだ11月の空の下で行われた。戦争は天候を選ばず泥濘の塹壕戦ということもしばしばである。そうした状況下で悪条件をものともせず戦える肉体と精神の涵養が必要と切実に考えられていた時代であった。
さて、前回の続きである。南北戦争が終わりアメリカは次第に都市化していった。この頃から19世紀末にかけての約30年間を、ハレー彗星とともに生まれ、彗星とともに去ったマーク・トウェインは「金ぴか時代」と名づけ、同名の小説を残した。「ハックルベリー・フィンの冒険」や「トム・ソーヤの冒険」で知られているこの作家は生まれた年にハレー彗星が観測されたので、かねがね去るときも彗星の年だと半ば得意のユーモアをこめて語っていた。
「金ぴか時代」は急激な経済成長にともなう拝金主義の、いわばバブルの時代だった。ヴィクトリア朝イギリスのちょうど真中、折り返し点に当たる1869年、ラトガーズ大学とプリンストン大学の初の大学対抗フットボール・ゲームが行われたことは#1で述べたとおりである。大英帝国のたそがれへの序章が始まろうとしていた。そして南北戦争を終えたアメリカはパクス・アメリカーナを築く長い道のりのとば口にさしかかっていた。
フォワード・パス採用以前の19世紀原初フットボールは現在から考えれば乱暴で危険な競技であったにもかかわらずなぜ廃止に追い込まれなかったか、という疑問がこれまでにも投げられかけてきた。代表的な回答は以下の2つである。
第一は民俗フットボールから近代フットボールに移行する過程にあったため同時代人には存続の帰趨(きすう)を制するほどの乱暴とは映らなかった、というものである。
第二。19世紀後半は、二度の世界大戦を含む戦争の世紀である20世紀につらなる国際紛争激化の時代であった。普仏(プロシア・フランス)戦争、希土(ギリシア・オスマン)戦争、米西(アメリカ・スペイン)戦争などが起こった。オリンピックを提唱したクーベルタンには普仏戦争に敗れた祖国再興のために青少年間にスポーツを振興させ強国を作るというもくろみもあったといわれている。こうした背景の中で南北戦争が終わり都市化が進み、金ぴか時代の進行とともにアメリカ人の間では国を守るために必要な勇敢さが次第に失われつつあるという危機感があった。したがって勇敢さの確保のためにフットボールは支持された、と考えられている。この考えは20世紀に入ってからもセオドア・ルーズベルト大統領、その後のウィリアム・タフト大統領にも引き継がれた。そして関西大学アメリカンフットボール部の創設者である松葉徳三郎は1932年、ロサンゼルス・オリンピック視察のおり、USC他のフットボール・ゲームを観て、まさにこの勇敢の精神を感得し、創部を決意したという。
当初、東海岸で興ったフットボールは初秋から晩秋にかけての天候の安定しない中で行われた。英語に“sloppy”という単語がある。水っぽい、水浸しの、泥んこの、といった訳語が与えられている。筆者の観戦したハーバード大学とエール大学の対抗戦も霧とも雨ともつかない、大気に多量の水分を含んだ11月の空の下で行われた。戦争は天候を選ばず泥濘の塹壕戦ということもしばしばである。そうした状況下で悪条件をものともせず戦える肉体と精神の涵養が必要と切実に考えられていた時代であった。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 09:12| 記事
2008年07月02日
#12 雨降りだからフットボールでも勉強しよう
雨のシーズンだ。ただ、昔は梅雨はシトシトと降ったが、最近は昔、学校の英語のリーダーに載っていた「降れば土砂降り」が多くなった。まるでスコールである。温暖化のためミカンの産地が北上し、以前ミカンどころであった愛媛などが苦戦中と聞く。海外でもふらんすのワイン葡萄(ぶどう)の質が落ち、ドーバー海峡を渡ってイギリス南部で葡萄の栽培をするようになったらしい。
「雨降りだからミステリーでも勉強しよう」というエッセイがあった。それにならって今回のタイトルをつけた。本歌の作者は植草甚一(1908〜1979)という評論家である。ジャズ、アメリカ文学、映画に造詣が深く江戸っ子らしい洒脱なエッセイを多くものにした。今どれくらいの人たちの記憶にあるか推測がつかないが、一部の愛好家の間で信仰を集め古書のネット検索でも1,000件以上ヒットするので、限界を超えすべてを表示しない。「植草甚一スクラップブック」というタイトルの全40巻からなる全集原油のように値上がりを続け、以前神田の古書街で見かけたときは全冊揃いで数10万円の値段がついていた。
このブログの#2に書いた米田先生の「アメリカン・フットボールの起源とその発展段階」を再読した。第2章の6に「大学対抗フットボールの創始」という項がある。#1で紹介した1869年のラトガーズ大学とプリンストン大学の大学対抗戦のことが書かれておりこのゲームの詳細が残っている。フットボールにとって幸いなことに同じ年の年初にラトガーズ大学の大学新聞である“The Targum”が創刊され、記念すべきこのゲームの観戦記が残ることになった。このサイトの項目「部史」の中に以前紹介したように上記の論文が掲載されておりそのあらましを読むことができる。
アメリカは1865年に南北戦争が終った。1848年にカリフォルニアで起こったゴールド・ラッシュが引き金となって大西洋側にあった原型としてのアメリカが太平洋側に東進するきっかけとなった。この一連の騒動は1850年代まで続き、1849年にピークに達し、NFLのサンフランシスコのチームに“forty-niners”(49ers)”というニックネームを残した。日本人でも土佐出身で漂流してアメリカにあったジョン万次郎がこれに参加している。また人々が押しかけこの地域の人口爆発が起こったので1852年にカリフォルニアは州になってしまった。
金と戦争という人の本性によってアメリカは徐々にひとつになっていった。象徴的できごととして、1869年にユニオン・パシフィックすなわち大陸横断鉄道が開通した。人の行き来がさらに活発になりスポーツもその影響を受けた。それまで大学校内に留まっていたフットボールが大学対抗になった。つけくわえればアメリカは映画「不都合な真実」のアル・ゴアの父が推進した「インター・ステイツ・ハイウェイ」(州間高速道路)とゴアの提唱した「インターネット」により、この広大な地域をひとつにして行った。
「大学対抗フットボールの創始」には観客がおよそ200名と書かれている。この時,ラトガーズ大学には10数人の日本人留学生がいたのでだれか記念すべきフットボールのオリジナル・ゲームを観戦した可能性がある。このことについてはいずれ触れたいと思っている。
Rutgersの発音は難しい。あえてカタカナ表記すれば「ラッガーズ」らしい。本、論文を見ると「ラトガース」、「ラトガーズ」などさまざまある。この稿は「ニューズウィーク」の日本語版にならい「ラトガーズ」とした。
「雨降りだからミステリーでも勉強しよう」というエッセイがあった。それにならって今回のタイトルをつけた。本歌の作者は植草甚一(1908〜1979)という評論家である。ジャズ、アメリカ文学、映画に造詣が深く江戸っ子らしい洒脱なエッセイを多くものにした。今どれくらいの人たちの記憶にあるか推測がつかないが、一部の愛好家の間で信仰を集め古書のネット検索でも1,000件以上ヒットするので、限界を超えすべてを表示しない。「植草甚一スクラップブック」というタイトルの全40巻からなる全集原油のように値上がりを続け、以前神田の古書街で見かけたときは全冊揃いで数10万円の値段がついていた。
このブログの#2に書いた米田先生の「アメリカン・フットボールの起源とその発展段階」を再読した。第2章の6に「大学対抗フットボールの創始」という項がある。#1で紹介した1869年のラトガーズ大学とプリンストン大学の大学対抗戦のことが書かれておりこのゲームの詳細が残っている。フットボールにとって幸いなことに同じ年の年初にラトガーズ大学の大学新聞である“The Targum”が創刊され、記念すべきこのゲームの観戦記が残ることになった。このサイトの項目「部史」の中に以前紹介したように上記の論文が掲載されておりそのあらましを読むことができる。
アメリカは1865年に南北戦争が終った。1848年にカリフォルニアで起こったゴールド・ラッシュが引き金となって大西洋側にあった原型としてのアメリカが太平洋側に東進するきっかけとなった。この一連の騒動は1850年代まで続き、1849年にピークに達し、NFLのサンフランシスコのチームに“forty-niners”(49ers)”というニックネームを残した。日本人でも土佐出身で漂流してアメリカにあったジョン万次郎がこれに参加している。また人々が押しかけこの地域の人口爆発が起こったので1852年にカリフォルニアは州になってしまった。
金と戦争という人の本性によってアメリカは徐々にひとつになっていった。象徴的できごととして、1869年にユニオン・パシフィックすなわち大陸横断鉄道が開通した。人の行き来がさらに活発になりスポーツもその影響を受けた。それまで大学校内に留まっていたフットボールが大学対抗になった。つけくわえればアメリカは映画「不都合な真実」のアル・ゴアの父が推進した「インター・ステイツ・ハイウェイ」(州間高速道路)とゴアの提唱した「インターネット」により、この広大な地域をひとつにして行った。
「大学対抗フットボールの創始」には観客がおよそ200名と書かれている。この時,ラトガーズ大学には10数人の日本人留学生がいたのでだれか記念すべきフットボールのオリジナル・ゲームを観戦した可能性がある。このことについてはいずれ触れたいと思っている。
Rutgersの発音は難しい。あえてカタカナ表記すれば「ラッガーズ」らしい。本、論文を見ると「ラトガース」、「ラトガーズ」などさまざまある。この稿は「ニューズウィーク」の日本語版にならい「ラトガーズ」とした。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 00:01| 記事