前回、星陵高校側から見た神戸ボウルのことを扱った。今回は兵庫高校側からのことがらに触れたい。それにあたってはマキショウ、タック牧田すなわち牧田隆さんが1990年、「アメリカンフットボール・マガジン」に「神戸ボウル物語」というタイトルでA4版2ページの詳しい記事を書かれている。現在この雑誌の入手は難しいのでその記事をダイジェストして掲載させていただく。< >かっこ内は筆者注。
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「皮をむきかけた蜜柑〈みかん〉のようなボール」
昭和20年代は終戦直後で、軍服のアメリカ兵を日本各地で見かけることができた<その一人がピーター岡田やオダノ>。アメリカ軍のキャンプの金網越しにフットボールの練習を見ることができた。京都大学のフットボール・チームのベンチでは軍服姿のアメリカ人将校が英語でコーチしていた。
「おれもあれをやってみたい」と願う少数の高校生が兵庫高校と星陵高校にいた。この2校の幸運は星陵のリーダー米田豊の長兄が米田満であったことである。また、満は兵庫高校の前身の神戸二中の卒業生であった。星陵にはすざましくオンボロのボールがひとつあった。皮をむきかけた蜜柑のようなボールだった。一方兵庫がとぼしい小遣いを集めて買ったボールは玩具の様なもので、蹴るとボコンと鳴った。同校はラグビーの名門だったのでラグビーボールでパスの練習をした。サイドスローでフォワード・パスを投げられる者がパサーになった。これらの仲間4名が関学大に入学した。フットボール部のない大学に進学した者、入試に失敗した者達は彼らをうらやましがった。当時の高校はタッチフットボールであった。両校の連合チームで関学高等部に挑戦したのが唯一の試合経験だった。
「防具調達が試合日決定の根拠だった」
新人のシーズンが終って米田豊と牧田は両校の仲間達のためにゲームを実現したいと願った。防具を借りられるのは関学の練習が休みの正月だけであった。
防具は星陵、グランドは兵庫がそれぞれ担当した。正月は公立高校のグランドが借りられないため、私立の村野工業高校のグランドを借りた。これが第1回神戸ボウルである。大晦日の午後、豪雨の中、牧田、米田、平井の3名は石灰でラインを引いた。
兵庫高校はその前身、神戸二中を含め次のようなフットボールの関係者を生んでいる。三浦清(同志社大学、関西アメリカンフットボール協会会長、故人)、前記の米田満、堂本猛(当時関大主将)、牧田の後輩、井上透(関大主将)、松浦(関学)。星陵は、関学に進学した平岡敏彦(米田豊の次の主将)、米田正勝<米田兄弟の三男>、林武恒(関大主将)が続き、現在も部が存続している。試合は堂本が大学4年生の実力を見せて、泥田を独走しエンド・ゾーンとおぼしきあたりまで到達したが、ボールを高らかに片手で差し上げ、ファンブルしタッチダウンならず。結果は後藤俊明(法政大)がタッチダウンし、全星陵6、全兵庫0のスコアーだった。ゲームが終っても着替えることもできなかったので<当時、高校にシャワーなどなかったし、おそらく水道も勝手には使えなかった>粋人高校生、井上透の案で連れ込み宿でなんとか風呂場を使わせてもらい、入浴料つきご同伴、ご休憩料金をはらわせられた。
「ひと芝居打ってくれたアメリカ領事」
1953年1月4日の第2回は不思議な才能をもった前田秀男という元先輩の同級生が、当時神戸外人クラブが使っていた東遊園地グランド<位置は現在の神戸市役所南側の東遊園地公園だがこのときのグランドはなく、公園になっている>が使用可能となった。正式な許可でなく日本人管理者にひそかに礼金を渡しての使用だった。前田氏と前記三浦先輩の尽力でこの年から神戸新聞社後援になった。三浦清の弟の三浦保の仲介で優勝楯らしきものができたが授賞式が済むと新聞社に持ち帰られたようであった。
この年のゲームは、高校生現役同士と両校OBの2ゲームだった。兵庫高校7−6星陵高校、兵庫OB10−14星陵OB。英語に強い三浦先輩がアメリカ領事を口説き、急遽MVP杯を出してもらうことになった。使いが新聞社に走った。「絶対に返してくれよ」の約束で領事からこのMVP杯が牧田隆に手渡された。領事が握手を求めた。当時外人と握手するのは大変な出来事だった。領事は「オカシイネ、コレハ エイガ コンクールノ ショウ ラシイデスネ」と小声でいった。ありあわせで借りた楯は「なんとか映画コンクール」の賞だった。領事は日本語が読めて、それでも一芝居打ってくれた。牧田が頭を下げ賞を受け取る写真を撮ったあと、楯は前田が返しに行った。
同年、兵庫高校のフットボール部は廃部となった。ラグビー名門校であったため有能選手の分散を避けるためであった。神戸ボウルは歴史の中で関西協会に移管されたが、星陵高校OBは平成元年<この記事が書かれた前年>よりポートボウルと称して懐かしいゲームを復活した。<神戸ボウルは移動祝祭日のように開催日が変わり、再来年、還暦を迎える>
2008年06月25日
#11 神戸ボウル3
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 01:54| 記事
2008年06月19日
#10 「邂逅」−神戸ボウル2−
米田豊さんが神戸ボウルの調査報告を送ってきて下さった。アパさんこと、島田勘兵衛氏はあくまでも律儀である。遅くなりました、と恐縮されるので、こちらがさらに恐縮の極みにある。
今から18年前にタック牧田(本名、牧田隆)さんが「神戸ボウルことはじめ」を書かれた。アメリカの大学院でマスターをいくつも取られた上、NFLで公式カメラマンをされている。島田勘兵衛氏とご同輩のはずなので少なくとも70歳代後半である。はやりことばに乗ずれば、後期高齢者ということになろうか。ごく最近まで、あるいはまだ現役でおられるかも知れない。以前に読んだ牧田さんの書かれたものによれば、ピッツバーグで撮影し、自分で車を運転、マイアミに翌日に到着、この間の寒暖の差が摂氏50度近くということであった。まさに読むだけでめまいが起こる行動力である。
神戸ボウルは前回書いたように第1回が1952年1月1日に行われた。第1回の優勝楯が残っている可能性についてお聞きしていたが、今回の調査の結果、第1回は神戸新聞社がまだ後援をされておらず、表彰式はなく,従って楯、カップのたぐいはなかったと判明した。豊さんが保存されているものは大会の回数表示が入っていないのだが前後から推測し第3回大会のものと思われる。今回記事に添付したものである。

関学の戦前からの先輩諸氏が早くから米田満先生を自分達の後継者と目し、現役時代からコーチの役割を託しておられた。米田先生は関西学院中学部、高等部の指導もされ、また弟の豊さんが在学されていた星陵高校にタッチフットボール部を作る手助けをされた。今年、関学の2年生クォーターバックで、アンダー19のスターターとして活躍した加藤君は星陵出身なので豊さんの孫の世代の後輩になる。
星陵高校の創部は1950年、同じ頃兵庫高校にもタッチフットボール部が誕生した。星陵、アパッチ、兵庫、マキショウ(タック牧田さんのあだ名)はそれぞれ両校の仲間達のためにアメリカのようにボウル・ゲームをしたいと考えた。タック牧田さんが書かれた記事の表現お借りすれば、「自分でフットボールを探し当てた人達」であった。このアパッチとマキショウが出会い、米田先生が作られた環境の中で「神戸ボウル」を実現した。
まだ創部間もなく部員の少ない両校はOBを含めての、全星陵と全兵庫の対戦となった。結果は6−0。前夜からの豪雨のため「七人の侍」の雨中の戦闘シーンのようであったであろう。
以下島田勘兵衛殿からの参戦記である。
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初期の神戸ボウルについて星陵サイドの思い出話です。昭和26年末、阪急甲東園駅前に10名以上の星陵OB、現役が集結、徒歩約20分かけて関学の部室に両軍の防具を調達に出かけた。全部人海戦術である。荷物車を手配できる優れ者などいない。調達した防具を全員で持てるだけ抱えて持ち帰ったものである。勿論返却の際も同じ動作を繰り返している。如何に防具をつけたアメリカンフットボールをやりたいかの一念あったればこそと想起される。
試合会場を村野工業高校に設定したのはアメリカンフットボールへの熱き思いからである。村野工業の位置は山陽電車長田駅(現在は地下鉄になっている)プラットホームから俯瞰して見下ろせるグランドになっている。すぐ近辺に正月は参拝でごった返す有名な長田神社がある。アメリカンフットボールのような競技など見たことのない人々に格好のPR材料になるとの確信をお互いの共通認識としてもったからに他ならない。
当日は米田満只一人による審判の試合であった。全く草野球ならぬ草フットボールである。しかしあのわくわくした熱い感情はいまだに決して忘れられないものである。
牧田隆の文のうち訂正しておきたいのは第2回東遊園地グランドでの一節である。2回から5〜6回までグランドの借り受けは星陵側で取り仕切っている。神戸市→神戸外人クラブのこの東遊園地グランドの管理責任者は橘さんという気性のすっきりした太っ腹なお方で我々の申し出を快く理解してくださって彼の一存でグランド使用を許可してくださったものである。礼金など一切受け取らないありがたいお方であったと記憶している。
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<私からの注>
牧田さんの文章では管理人に謝礼を渡したことになっている。この件でお二人が喧嘩をなさらぬことを祈っている。のちに無二の親友となる二人はこの第1回神戸ボウルでゲーム中にど派手なケンカをされたということである。現在なら退場かも知れない。
今から18年前にタック牧田(本名、牧田隆)さんが「神戸ボウルことはじめ」を書かれた。アメリカの大学院でマスターをいくつも取られた上、NFLで公式カメラマンをされている。島田勘兵衛氏とご同輩のはずなので少なくとも70歳代後半である。はやりことばに乗ずれば、後期高齢者ということになろうか。ごく最近まで、あるいはまだ現役でおられるかも知れない。以前に読んだ牧田さんの書かれたものによれば、ピッツバーグで撮影し、自分で車を運転、マイアミに翌日に到着、この間の寒暖の差が摂氏50度近くということであった。まさに読むだけでめまいが起こる行動力である。
神戸ボウルは前回書いたように第1回が1952年1月1日に行われた。第1回の優勝楯が残っている可能性についてお聞きしていたが、今回の調査の結果、第1回は神戸新聞社がまだ後援をされておらず、表彰式はなく,従って楯、カップのたぐいはなかったと判明した。豊さんが保存されているものは大会の回数表示が入っていないのだが前後から推測し第3回大会のものと思われる。今回記事に添付したものである。
関学の戦前からの先輩諸氏が早くから米田満先生を自分達の後継者と目し、現役時代からコーチの役割を託しておられた。米田先生は関西学院中学部、高等部の指導もされ、また弟の豊さんが在学されていた星陵高校にタッチフットボール部を作る手助けをされた。今年、関学の2年生クォーターバックで、アンダー19のスターターとして活躍した加藤君は星陵出身なので豊さんの孫の世代の後輩になる。
星陵高校の創部は1950年、同じ頃兵庫高校にもタッチフットボール部が誕生した。星陵、アパッチ、兵庫、マキショウ(タック牧田さんのあだ名)はそれぞれ両校の仲間達のためにアメリカのようにボウル・ゲームをしたいと考えた。タック牧田さんが書かれた記事の表現お借りすれば、「自分でフットボールを探し当てた人達」であった。このアパッチとマキショウが出会い、米田先生が作られた環境の中で「神戸ボウル」を実現した。
まだ創部間もなく部員の少ない両校はOBを含めての、全星陵と全兵庫の対戦となった。結果は6−0。前夜からの豪雨のため「七人の侍」の雨中の戦闘シーンのようであったであろう。
以下島田勘兵衛殿からの参戦記である。
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初期の神戸ボウルについて星陵サイドの思い出話です。昭和26年末、阪急甲東園駅前に10名以上の星陵OB、現役が集結、徒歩約20分かけて関学の部室に両軍の防具を調達に出かけた。全部人海戦術である。荷物車を手配できる優れ者などいない。調達した防具を全員で持てるだけ抱えて持ち帰ったものである。勿論返却の際も同じ動作を繰り返している。如何に防具をつけたアメリカンフットボールをやりたいかの一念あったればこそと想起される。
試合会場を村野工業高校に設定したのはアメリカンフットボールへの熱き思いからである。村野工業の位置は山陽電車長田駅(現在は地下鉄になっている)プラットホームから俯瞰して見下ろせるグランドになっている。すぐ近辺に正月は参拝でごった返す有名な長田神社がある。アメリカンフットボールのような競技など見たことのない人々に格好のPR材料になるとの確信をお互いの共通認識としてもったからに他ならない。
当日は米田満只一人による審判の試合であった。全く草野球ならぬ草フットボールである。しかしあのわくわくした熱い感情はいまだに決して忘れられないものである。
牧田隆の文のうち訂正しておきたいのは第2回東遊園地グランドでの一節である。2回から5〜6回までグランドの借り受けは星陵側で取り仕切っている。神戸市→神戸外人クラブのこの東遊園地グランドの管理責任者は橘さんという気性のすっきりした太っ腹なお方で我々の申し出を快く理解してくださって彼の一存でグランド使用を許可してくださったものである。礼金など一切受け取らないありがたいお方であったと記憶している。
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<私からの注>
牧田さんの文章では管理人に謝礼を渡したことになっている。この件でお二人が喧嘩をなさらぬことを祈っている。のちに無二の親友となる二人はこの第1回神戸ボウルでゲーム中にど派手なケンカをされたということである。現在なら退場かも知れない。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 07:34| 記事
2008年06月12日
#9 神戸ボウルと明治・関学定期戦
先週の土曜日、6月7日、第58回神戸ボウルがあった。いわずもがな今年1月3日のライス・ボウルと同じ対戦である。松下電工と関西学院大学、が、双方にとりこの時点でのゲームの意味合いは異なる。両チームの今シーズンの設計図を推理したいファンからすれば見逃せないゲームである。モーター・スポーツのF1チームのようにもてる潜在力の最大値をスタッフ、メンバー全員でどう実現するか、1年をかけて読みつづける筋書きの見えない長いSAGA(物語)の序章である。
神戸ボウルの歴史について。
創設への布石を打たれたのは#2で紹介した米田満先生である。弟の米田豊さんは先生と協力され第1回の神戸ボウルの準備をし、ご自分もプレーヤーとして出場された。旧制奈良中学の調査に引き続き今回もご助力を仰いだ。今後追々に紹介してゆくが、他にも努力された多くの同輩がおられたことは言うまでもない。第1回大会はアメリカのボウル・ゲームにならって元旦に行われた。1952年(昭和27年)のことである。このときの優勝盾が保存されているという。今から20年近く前にこのボウル・ゲームの起源を調べた時にはなかった情報である。現在このことも含め資料の整理をしていただいているので詳細は回を改めたいと思う。
さて、今週末の14日(土曜日)に明治大学・関西学院大学定期戦が行われる。最初の対戦は1948年(昭和23年)1月25日、場所は甲子園球場である。終戦後まだ間もない時なので、時代状況が現在と大きく異なる。第1回の甲子園バウルも現在の冬、12月第3週の日曜日とは異なり、春の1947年4月13日に行われた。明治・関学の試合日が1月という野球のオフであったのに加え、戦争のためグランドも荒廃しておりゲームができるフィールドが限られていたという事情もあった
前述「バウル」ということばには説明が必要である。当時「甲子園ボウル」は第5回大会まで「バウル」と表記された。英語の“Bowl”、例えばサラダ・ボウルなどのように競技場がボウルの形をしていることに由来している。そのカタカナ表示が「バウル」であった。こうした例は他にも幾多ある。現在でも古いビルの玄関に「○○ビルジング」と書かれていたりする。したがっては第5回までは「甲子園バウル」であり、第6回の1951年から現在の「ボウル」に落ち着いた。
第1回の対戦は、13−6で明治の勝利だった。1948年当時にタイム・スリップする。戦前の1934年(昭和9年)に創部し、戦争による中断までの9シーズン、関東でのリーグ戦で5度の優勝を遂げていた古豪明治にまだチームのかたちを模索し始めていた関学が胸を借りるということから始まった。はるかな格上にもかかわらず明治大学は西下してくれた。戦後、東海道本線にも急行、ましてや特急などなく普通の夜行列車で東京‐大阪間が10数時間かかった時代である。第2回目は翌1949年1月22日、関学は初めて明治を19−6で破り、新たな次元に進むきっかけをつかんだ。
秋のシーズンが開幕した。関学は各ゲームに苦労しながらも勝利を重ね、関西学生リーグで初優勝した。そして「バウル」の時代の後期、第4回甲子園バウルに初出場し、初優勝を果たす。
その後半世紀以上にわたり定期戦は続けられ今年で61回目になる。甲子園ボウルで明治と関学が対戦すると接戦となる傾向がある。さらに春秋、あるパターンが存在する。これまで春の定期戦で関学が明治に、0−22、0−56といった一方的なスコアーで敗戦を記録したのち、その年の甲子園ボウルであいまみえると、38−36、48−46という接戦を繰り広げる。このことに気づいたのはDVD“FIGHT ON, KWANSEI”を制作したときである。特に1985年の甲子園ボウルはめくるめくような好ゲームとなった。
今年は大学1部リーグは東西ともに実力の接近したチームがいくつもあるのでリーグ優勝の行方は予断を許さない。しかし、明治・関学が前回1985年に甲子園ボウルで対戦したときのように現在の明治大学にはクォーターバック、ランニング・バックに逸材がそろい、今週末の対戦では両チームともフィジカルに見ごたえのあるプレイ展開してくれることを期待している。特に明治の3年生ランニング・バック、喜代吉(きよし)壮太は1985年の甲子園を沸かせ、そのすべらかで粘り強い走りを「スネーク」と形容された先輩ランニング・バック、吉村祐二に勝るとも劣らないといわれている。「喜代吉」という日本で12軒しかない稀少な姓を持つランニング・バックは1年生の時に一度見たきりだが、明治大学時代にはタイト・エンド、社会人になってからはワイド・レシーバーとして活躍した堀江信貴のようなプレイ・スタイルなのではないかと想像している。
神戸ボウルの歴史について。
創設への布石を打たれたのは#2で紹介した米田満先生である。弟の米田豊さんは先生と協力され第1回の神戸ボウルの準備をし、ご自分もプレーヤーとして出場された。旧制奈良中学の調査に引き続き今回もご助力を仰いだ。今後追々に紹介してゆくが、他にも努力された多くの同輩がおられたことは言うまでもない。第1回大会はアメリカのボウル・ゲームにならって元旦に行われた。1952年(昭和27年)のことである。このときの優勝盾が保存されているという。今から20年近く前にこのボウル・ゲームの起源を調べた時にはなかった情報である。現在このことも含め資料の整理をしていただいているので詳細は回を改めたいと思う。
さて、今週末の14日(土曜日)に明治大学・関西学院大学定期戦が行われる。最初の対戦は1948年(昭和23年)1月25日、場所は甲子園球場である。終戦後まだ間もない時なので、時代状況が現在と大きく異なる。第1回の甲子園バウルも現在の冬、12月第3週の日曜日とは異なり、春の1947年4月13日に行われた。明治・関学の試合日が1月という野球のオフであったのに加え、戦争のためグランドも荒廃しておりゲームができるフィールドが限られていたという事情もあった
前述「バウル」ということばには説明が必要である。当時「甲子園ボウル」は第5回大会まで「バウル」と表記された。英語の“Bowl”、例えばサラダ・ボウルなどのように競技場がボウルの形をしていることに由来している。そのカタカナ表示が「バウル」であった。こうした例は他にも幾多ある。現在でも古いビルの玄関に「○○ビルジング」と書かれていたりする。したがっては第5回までは「甲子園バウル」であり、第6回の1951年から現在の「ボウル」に落ち着いた。
第1回の対戦は、13−6で明治の勝利だった。1948年当時にタイム・スリップする。戦前の1934年(昭和9年)に創部し、戦争による中断までの9シーズン、関東でのリーグ戦で5度の優勝を遂げていた古豪明治にまだチームのかたちを模索し始めていた関学が胸を借りるということから始まった。はるかな格上にもかかわらず明治大学は西下してくれた。戦後、東海道本線にも急行、ましてや特急などなく普通の夜行列車で東京‐大阪間が10数時間かかった時代である。第2回目は翌1949年1月22日、関学は初めて明治を19−6で破り、新たな次元に進むきっかけをつかんだ。
秋のシーズンが開幕した。関学は各ゲームに苦労しながらも勝利を重ね、関西学生リーグで初優勝した。そして「バウル」の時代の後期、第4回甲子園バウルに初出場し、初優勝を果たす。
その後半世紀以上にわたり定期戦は続けられ今年で61回目になる。甲子園ボウルで明治と関学が対戦すると接戦となる傾向がある。さらに春秋、あるパターンが存在する。これまで春の定期戦で関学が明治に、0−22、0−56といった一方的なスコアーで敗戦を記録したのち、その年の甲子園ボウルであいまみえると、38−36、48−46という接戦を繰り広げる。このことに気づいたのはDVD“FIGHT ON, KWANSEI”を制作したときである。特に1985年の甲子園ボウルはめくるめくような好ゲームとなった。
今年は大学1部リーグは東西ともに実力の接近したチームがいくつもあるのでリーグ優勝の行方は予断を許さない。しかし、明治・関学が前回1985年に甲子園ボウルで対戦したときのように現在の明治大学にはクォーターバック、ランニング・バックに逸材がそろい、今週末の対戦では両チームともフィジカルに見ごたえのあるプレイ展開してくれることを期待している。特に明治の3年生ランニング・バック、喜代吉(きよし)壮太は1985年の甲子園を沸かせ、そのすべらかで粘り強い走りを「スネーク」と形容された先輩ランニング・バック、吉村祐二に勝るとも劣らないといわれている。「喜代吉」という日本で12軒しかない稀少な姓を持つランニング・バックは1年生の時に一度見たきりだが、明治大学時代にはタイト・エンド、社会人になってからはワイド・レシーバーとして活躍した堀江信貴のようなプレイ・スタイルなのではないかと想像している。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 06:51| 記事
2008年06月04日
#8 関学と日大
フットボールの世界で「赤と青」というコトバを聞くとき、多くの人は日大と関学のライバル関係を思い浮かべるのではないだろうか。先日、6月1日の日曜日、第22回のヨコハマ・ボウルで両校の対戦があった。このゲームの模様は日本テレビが制作し、地上波とCS局のG+でまだあと計2回放送される予定となっている。したがってその時初めてご覧になる方のために試合経過については書かないでおくのが礼儀だと思うのでこれ以上には触れない。
関学と日大は春の定期戦があるので毎年対戦があるのだが、甲子園ボウルでは1989年以来対戦が遠のいていた。関東学生リーグにおいて法政大学をはじめとする他大学の台頭があり、常勝日大は長く甲子園ボウル出場を阻まれていた。しかし昨年、1990年以来17年ぶりに甲子園ボウルに登場し関学との対戦となった。両校が過去に積み重ねてきた名勝負におとらぬ接戦を繰り広げ、稀に見る好ゲームとなったのは記憶に新たなところである。
両校の創部はほぼ同じころである。日大、1940年(昭和15年)、関学、1941年。1934年(昭和9年)、1935年に関東で明治、早稲田、立教、慶応、法政、関西で関大が相次いで創部したあと、しばらく大学のフットボール部設立に空白期間があった。6、7年をおいて日大、関学、関西で同志社が日大と同じ1940年に創部したのをもって戦前の創部活動は終った。戦局が悪化しフットボールは敵性スポーツとみなされたからである。競技の名前も「鎧球(がいきゅう)」と呼びかえられ、1943年には強制的に活動を停止させられた。
戦後、フットボールの復活は比較的早く、関西,関東とも終戦の翌年、1946年に、学生連盟を再発足させている。関学はその年から計画的にチームの強化を計り、1949年(昭和24年)には甲子園ボウル初制覇という成果をあげた。翌年連覇を果たしたが、立教大学がTフォーメーションという当時においては新たな戦術を取り入れ、1951年、1952年と甲子園ボウルを制した。このあと関学は中学部からタッチフットボールに親しんできた世代が高等部、大学と一貫してフットボールを続け、1953年から甲子園ボウル4連覇という第一期黄金時代を築く。
日大は踵(きびす)を接するように1952年から4年計画で本格的な強化に取り組んだ。大学の系列高校を中心に優れた人材をリクルートし、ハードかつ科学的なトレーニングを続けた。そして4年目の1955年、甲子園ボウルに初出場し、関学と同点優勝を果たす。その日大に間接的にだが、ひとつのきっかけを提供したのは関学だった。
関学が甲子園ボウルを初制覇した1949年、暮れも押し詰まったころ、関学アメリカンフットボール部に突然の来訪者があった。人物は大阪警視庁のものだと名乗った。現在の大阪府警は当時、大阪警視庁と呼ばれていた。警察からの不意の訪れに、部員は甲子園ボウルの祝勝会で羽目を外したことへの咎めかと緊張したという。しかしことはまったく意外な展開となった。時の警視総監、鈴木栄二の肝いりで大阪警視庁にフットボール部をつくるのでその相談に預かってほしいというものであった。
翌1950年1月、大阪警視庁にアメリカンフットボール部が発足する。関学甲子園初優勝の闘将、渡辺年夫主将が中心となった。渡辺が厳しい指導を行い機動隊員を鍛え上げ、大阪警視庁は非常に当たりの強い厳しいフットボールをする強いチームに育った。
日大が大阪警視庁と相まみえた。このとき対戦した日大のかたのことばをお借りする。「・・・対戦してその体当たり精神に木端微塵に粉砕されたが、相手が新生チームと侮っていたばかりにその強烈な闘争意識に圧倒された・・・」。こうした経緯があったのち、関学、日大両校が最初に対戦したのは1954年(昭和29年)9月6日である。そのとき関学は日大が大阪警視庁と対戦したとき日大が警視庁から受けた印象と非常によく似た激烈な衝撃を日大から受けたという。このとき以降の日大がまさしく大阪警視庁のようなチームであるのはらせん状に進む歴史の不思議である。
ついでながら当時の関西学生リーグは秋のリーグ戦が9月の下旬から始まっていたので9月はじめにこうした交流戦を行うことが可能であった。この年と翌年、春秋数度の交流戦を経たのち、第1回の定期戦が行われるのは1967年である。各年の対戦結果については、折り良く「タッチダウン」誌が最新号、No.468、7月号の巻末で東西大学1部各校の定期戦を一覧表にまとめておられるのでそちらを参照いただければ幸いである。
関学と日大は春の定期戦があるので毎年対戦があるのだが、甲子園ボウルでは1989年以来対戦が遠のいていた。関東学生リーグにおいて法政大学をはじめとする他大学の台頭があり、常勝日大は長く甲子園ボウル出場を阻まれていた。しかし昨年、1990年以来17年ぶりに甲子園ボウルに登場し関学との対戦となった。両校が過去に積み重ねてきた名勝負におとらぬ接戦を繰り広げ、稀に見る好ゲームとなったのは記憶に新たなところである。
両校の創部はほぼ同じころである。日大、1940年(昭和15年)、関学、1941年。1934年(昭和9年)、1935年に関東で明治、早稲田、立教、慶応、法政、関西で関大が相次いで創部したあと、しばらく大学のフットボール部設立に空白期間があった。6、7年をおいて日大、関学、関西で同志社が日大と同じ1940年に創部したのをもって戦前の創部活動は終った。戦局が悪化しフットボールは敵性スポーツとみなされたからである。競技の名前も「鎧球(がいきゅう)」と呼びかえられ、1943年には強制的に活動を停止させられた。
戦後、フットボールの復活は比較的早く、関西,関東とも終戦の翌年、1946年に、学生連盟を再発足させている。関学はその年から計画的にチームの強化を計り、1949年(昭和24年)には甲子園ボウル初制覇という成果をあげた。翌年連覇を果たしたが、立教大学がTフォーメーションという当時においては新たな戦術を取り入れ、1951年、1952年と甲子園ボウルを制した。このあと関学は中学部からタッチフットボールに親しんできた世代が高等部、大学と一貫してフットボールを続け、1953年から甲子園ボウル4連覇という第一期黄金時代を築く。
日大は踵(きびす)を接するように1952年から4年計画で本格的な強化に取り組んだ。大学の系列高校を中心に優れた人材をリクルートし、ハードかつ科学的なトレーニングを続けた。そして4年目の1955年、甲子園ボウルに初出場し、関学と同点優勝を果たす。その日大に間接的にだが、ひとつのきっかけを提供したのは関学だった。
関学が甲子園ボウルを初制覇した1949年、暮れも押し詰まったころ、関学アメリカンフットボール部に突然の来訪者があった。人物は大阪警視庁のものだと名乗った。現在の大阪府警は当時、大阪警視庁と呼ばれていた。警察からの不意の訪れに、部員は甲子園ボウルの祝勝会で羽目を外したことへの咎めかと緊張したという。しかしことはまったく意外な展開となった。時の警視総監、鈴木栄二の肝いりで大阪警視庁にフットボール部をつくるのでその相談に預かってほしいというものであった。
翌1950年1月、大阪警視庁にアメリカンフットボール部が発足する。関学甲子園初優勝の闘将、渡辺年夫主将が中心となった。渡辺が厳しい指導を行い機動隊員を鍛え上げ、大阪警視庁は非常に当たりの強い厳しいフットボールをする強いチームに育った。
日大が大阪警視庁と相まみえた。このとき対戦した日大のかたのことばをお借りする。「・・・対戦してその体当たり精神に木端微塵に粉砕されたが、相手が新生チームと侮っていたばかりにその強烈な闘争意識に圧倒された・・・」。こうした経緯があったのち、関学、日大両校が最初に対戦したのは1954年(昭和29年)9月6日である。そのとき関学は日大が大阪警視庁と対戦したとき日大が警視庁から受けた印象と非常によく似た激烈な衝撃を日大から受けたという。このとき以降の日大がまさしく大阪警視庁のようなチームであるのはらせん状に進む歴史の不思議である。
ついでながら当時の関西学生リーグは秋のリーグ戦が9月の下旬から始まっていたので9月はじめにこうした交流戦を行うことが可能であった。この年と翌年、春秋数度の交流戦を経たのち、第1回の定期戦が行われるのは1967年である。各年の対戦結果については、折り良く「タッチダウン」誌が最新号、No.468、7月号の巻末で東西大学1部各校の定期戦を一覧表にまとめておられるのでそちらを参照いただければ幸いである。
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