2008年05月14日

#5 米田豊さんインタビュー

 米田豊さんは「七人の侍」の島田勘兵衛のような人である。島田勘兵衛は七人の侍のリーダーであり志村喬が演じた非常に印象深い役柄だ。米田さんもファイターズの1954年度のキャプテン、リーダーである。4月23日付けの記事で紹介した米田満先生の弟さんである。対面していると岩のような存在感がある。ペテロという言葉を思い浮かべた。イエスは弟子のシモンをペテロと呼んだ。ペテロは岩の意味であり、イエスはこの岩の上に自分の教会を建てた。ペテロは初代ローマ法王である。米田豊さんはチームのOB会会長としてファイターズ・ファミリーを支えられた。上下へだてのないファイターズのリベラルそのものの方で、私のような若輩にも非常に丁寧なものいいをされる。ただ先輩も後輩もあだ名である。チームは皆そのようである。当方がフルネームで、どなたかのことをお聞きするとあだ名に翻訳されるので一致するまでに一瞬の空白がある。「ああ、○○○(あだ名)のことやね」。

 先日「関西アメリカンフットボール史」でたいへんお世話になった方の計らいでインタビューのため、米田さんとお会いできる運びになった。話がはずみメモを取る手がときに止まる。3時間半ほどがあっという間に過ぎた。どの時点で話したのか定かでないが、旧制の奈良中学のフットボールも話題にのぼった。旧制池田中学、豊中中学と同じ1946年ころ、やはり駐留米軍から指導を受けたのだがあまり資料がなく、まだくわしいことは記録されていない、というお話をした。池田、豊中とならび奈良のタッチフットボール経験者は昭和20年代、関西学院大学のチームの中核を担い、甲子園ボウル初制覇とその後の連勝の推進に大きく貢献した。多くの話題が輻輳(ふくそう)し、この話題も一瞬のことであった。従って奈良中学のことも他のことがらとまじりあって際立った記憶が残っていない。

 翌日、お礼のメールを差し上げた。返信がすぐに届いた。それからわずか1時間後に旧制奈良中学タッチフットボール部出身で関西学院でもプレイされた谷川福三郎さんという方のメールが米田さんから転送されてきた。かなり長文のメールである。うかつにも米田さんが以前に谷川さんに依頼されていたことへの返信だと勘違いした。インタビュー翌日の夕方に届いているので、前夜奈良中の話題をしてからまだ一昼夜たっていない。お二人ともこちらが恐縮してしまう迅速さである。

 谷川さんは1950年(昭和25年)から1953年までファイターズでプレイされた。ただ、この当時はまだチームにファイターズというニックネームはない。米田豊さんの一年先輩の名フルバックである。現在は田園で晴耕雨読の人生を送っておられるようである。この学年は4年生のとき甲子園ボウルで立教大学に3年ぶりに雪辱をした。このあと1956年まで甲子園ボウル史上初の4連覇を遂げる皮切りの年である。

 ご許可をいただいたので転送されたメールをほぼそのまま転載させていただく。書き換えをすると無機質な事実が残って、手触り感のある空気が揮発してしまうからである。原文は文字使いなど昭和20年代のいきいきとした空気があざやかにすくいとられている。

 時代相が異なったり、固有名詞が出てきたりする部分などについては理解の助けのために若干の補足を加えた。< >補足部分。( )は原文にあったもの。
以下、引用

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米田豊様

アパさん<米田豊さんのあだ名> 
連休、草刈等の疲れでゆっくりしていたら貴兄からのメールの返答に間に合うかどうか心配だが兎に角思い出したまま書き送ります。

終戦後数ヶ月して所謂<いわゆる>進駐軍<アメリカ軍>のCampが奈良の元陸軍38歩兵連隊の跡地に設営された<※>。此処<ここ>は奈良市の東南に位置し、私たちの幼少期は極めて辺鄙<へんぴ>な場所であった。即ち陸軍の兵舎と、広い錬兵場があり憲兵や当番兵の監視があり一般人が寄り付かない場所でも有った。戦時中10月10日の空の記念日には模型飛行機大会があり見に行ったぐらいでめったに用事の無い場所でもあった。CAMPが設営された以後はいかがわしいバラックの建物とケバケバシイ化粧の女たちが付近にたむろしていたような終戦後の時代だった。
<※1945年10月に米軍が接収。1957年に当時の奈良学芸大学、現在の奈良教育大学がこの地に移転し、現在に至っている。旧陸軍のレンガ造りの施設は現在も図書館書庫などに利用されている。>

駐留軍人の一人、Lieutenant(少尉だと思う)小田野さんと言う日系2世で、ハワイ出身の普通の日本人の背丈、25-30歳ぐらい、風貌はそこいらの日本の兄さんと変わらず、ただ駐留軍の軍服を着ているし、アメリカ兵独特の帽子を被り、銀色の襟章をつけ当時は非常に立派、且つ<かつ>偉そうに思えた。

だってチュウインガムやチョコレートの時代だったし、ひもじい思いの食べ盛りの餓鬼子には、一片のガムやチョコの美味しさは忘れられない。ジープの無蓋車に乗り一人で運動場の中に堂々と入り込んで(教師に事前許可取り付けていたかどうかは判らず)4、5個のFootballを投げだして、たどたどしい日本語でball投げして遊びなさーい、と。当初は投げ方もわからず彼の投げるのを見よう見まねで練習したものだ。(タバコを憶えたのもこの頃からでいい匂いのラッキーストライキを回し吸いしたことは懐かしい。先生に見つかれば停学処分の時代だったが誰も見つからずに済んだようだ。ヤンチャな年代だった。)

一年上級の藤井浩月、高橋治男、宮本(KG理工専門)。仲(早稲田)、同志社に行った中尾、木村、他の大学や就職組の長田、枡田、鈴木、森川、嶋田、別の高橋、諸氏。
私と同クラスの、小林(KG法科)、石井(慶応)、上田(同志社)、吉川(同志社)、他に水川、植村、などなどと昼食後の休み時間に又放課後にもpassの練習と言うよりも投げ方、spiralさせて目的地まで遠投できるかを競い合った。暫くしてformationらしきもの、そのときはT-formationは無く、single-wing(之<これ>は今から思うに、ミシガン大の全盛期の頃のformation)だったのだろう。Ready, Hi-1,2,3,4、の Call-signで 1、又1,2 か 1231234と、相手のoff-sideを誘発するような単純なもの、unbalance shiftもあった。blockingするのが痛いので腰に剣道の胴下の垂れを巻きつけて腰骨保護をしたことも思い出深い。左右end-run, off-tackle center-punch、pass-誰々へ、short、quick、end run pass 程度と記憶する。trick-playは殆ど無く、passの変形、自由の女神を唯一のtrick-playだったと記憶する。

これらの一環の教示をしてもらい、自分らでtimingをあわせ、あーでもない、こーでもないの試行錯誤の繰り返しで放課後から暗くなるまでよく練習(遊ぶ)したものだ。試合のユニホームは無く各自、色物とか勝手気ままな服装だった。私は慶応のラグビーを模して黒と黄色の横じまの毛糸の長袖を手編みしてもらい着ていたことを憶えている。

当時奈良には奈良中一校のみ。一年後に奈良商業が創部、共同練習したこともあった。大阪では池田、豊中、関東には麻布、慶応その後滋賀に長浜中学が創部したようだ。わたしが対戦した経験は無い。

奈良中学は1947年、豊中中学に敗れたが、1948年の甲子園ボール(BowlかBallか知らぬが)の前座戦に大阪代表の豊中に勝利、1TDの差ぐらいで日本一になった<※>。大幅な得点差も無く得点力も大したものではなかったのだろうと記憶する。
<※この第2回甲子園ボウルは1948年1月1日に行われ、6対0で奈良が豊中に勝利。1953年まで高校日本一は甲子園で決定していた>

当時大學選手では、関大の山本(ヤンチーさん)の華麗な走り、大西の中央突破(彼は奈良出身の講道館4段で粘り腰でタックルされても倒れなかった)、慶応の服部(日系2世)はpassの名手で甲子園の花形だった。彼らのplayを観戦し、真似ようと理想は高く持っていた。男子校が6-3-3制に変革され共学となり高校2年生に編入された。中学入学から卒業しなくして高校2年生となった訳である。
(以上は昭和23年時代のこと。)

小田野さんは配属が変わったのか、試合も観戦に来なく日本一に成った事も知らない筈で連絡の付けようがなかった。当時の我等では英語も拙くCampに尋ねに行く勇気もなく又思い付かなかった事でもあった。思うにもっと親密にして置くべきだったと。

共学になり女に優しい、甘い輩〈やから〉は運動部ではなく文化部、音楽部などで男女席を同じくしていたようだ。われ等バンカラ族は女生徒には目もくれず唯<ただ>ひたすらBallと戯れ(遊ぶ)ていた。softballも野球も盛んだった。現在は高校でもアメフトだが、高2の1月か2月頃先に書いた一年上の中尾、木村氏が 同志社に入学し、アメフト部員となり用具を借りてきた。奈良市春日野グランドにて浪商高とアメフト試合をするためであり、早速用具をつけて、はじめての練習、皆やる気満満、活気にあふれていた。ヘルメット,ショールダー、パット、おまけに試合用のパンツ、黒色のユニホームまで一式借りてきたものである。興奮した毎日だった。2週間ほどの間にひとかどのfootballerになった気持ちで、タックル、スクリメージ、などの練習にも熱が入っていた。試合結果は定かでないが、6:6又は13:13のロースコアーの引き分けだった様に記憶する(藤井、高橋氏は既に関学高等部3年に転校していた)。浪商には 一年後に同志社に行った川勝、野本、○○氏(R-guardだった人)がいた。

この後、昭和24年初めに高橋治男氏の紹介で橘高さんとの出会いがあり関学高等部3年に編入する事になり西尾先生の下、武田建、石井佐治郎、橋本繁(エイプ)などとKG高等部のタツチFB創立、連戦連敗の記録、唯し、豊中高に6−0で勝った唯一無二の戦績が残っている。その後鈴木チュー〈鈴木智之、甲子園ボウル4連覇のQB〉等が204連勝の記録樹立した事は周知の通り。

アパさん
大切な事忘れていたので追記します。

同学年には 梶木、中井、も居た。・・・・こと思い出した。
マキショウ<牧田隆、NFL公式カメラマン>さんからのメールで陣内のことも追加したい。

一年後輩に福村(のちに平井姓に、ニックネームは陣内)、吉井(阪大)、魚谷、横崎(明治)、東口(同志社)、須藤、木下、矢埜、など。(陣内を忘れてたら、叱られてしまう・・・ くわばらクワバラ。)

私がKG高等部に抜けた後、奈良商業グランドにてKG高等部vs奈良高の大雨の中の試合で守備の時、鬱憤晴らすべくこのときとばかりに2-3人で俺をblockingしに来て転倒され散々な目にあわされ、大負けした。彼らは溜飲を下げたようだ。陣内もその中の一人。試合後西尾先生含め大挙20数人が我が家に来て、握り飯に味噌汁で枯渇を癒して帰途に着いた。母、姉、近所のおばさんたちの援助を受けたこと感謝している。

KG高等部三年夏は大學と松山にて共同合宿で、朝のランニング時に松山城天守閣から石井佐次郎と二人でつれション弁して渡辺さん<渡辺年夫、1949年度のキャプテン>に叱られグランド5周ぐらい追加走行罰をうけた。7-8年前、合宿地を探訪する会で松山に行った時オツチャン<鳥内昭人、現監督・鳥内秀晃の父>が憶えていたのには驚かされた。ヤンチャやったけれど出る物自然現象でしょうがなかったのだろうと善意に解釈してもらいたい。

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posted by 日本アメリカンフットボール史 at 11:11| 記事