2008年05月07日

#4 長浜 滋賀県のフットボール その1

 中国では文学を、詩、歴史、小説という風に分けるという。ただそれ以上のことについては明るくない。このブログは詩と歴史の2つに焦点を置き、その2点から描くことのできる楕円の軌跡上を歩きながら見えるものを書き留めたいと思っている。従って歴史に近い軌道線上にあるときは敬称を略し、詩に近づくところでは敬称をもって記述していこうと考えている。これはあくまで個人的なものであって普遍性があるものではない。

 例年4月29日は長浜ひょうたんボウルの日である。この日はほぼ毎年、長浜に行く。もう30年近くの習慣となっている。長浜は琵琶湖の湖北にある。その位置は琵琶の形をなす湖の肩あたり、東岸に立地している。JRで米原まで来ると朔北(さくほく)の気配が濃くなっていく。ここで12両編成の列車の前4両だけがさらに北行し、後続の車両は切り離される。この間7分、大阪より1時間半ほどの行程なのだがその作業の完了を待っていると、はるか遠国を旅している錯覚におちいる。試合の会場となる長浜ドームはJR長浜のひと駅手前、田村で下車する。新快速が停まるのだが基本的に無人駅である。まわりには田園がひらけ、北には琵琶湖が迫り、さざなみが立つ湖面は海をみはるかす趣がある。自動改札機はカバーがかけられており乗客はチケット・ボックスに乗車券を入れ三々五々駅を離れる。

 4月29日午前中は1時間に2本到着する新快速列車から降りる人々の大半は長浜ドームに向かう。例年29日は晴れることが多く今年も良い天気だった。長浜ひょうたんボウルは58回目を迎え、甲子園ボウル、ライス・ボウルに続く歴史を持っている。1951年の第1回大会よりずっとゲームの切り盛りをされてきた吉川太逸先生は「ひょうたんボウルはいつも晴れますのや」と言われる。先生はまた、ひょうたんで長浜の町おこしをはかる長浜愛瓢会の会長でもある。知ってのように瓢箪は豊臣秀吉の馬印であり、その秀吉の築城により長浜は開かれた。参加したチームには先生が丹精された、ひょうたんのトロフィーが贈られる。ドームができてからはもちろん晴雨は不論になった。フットボールの教え子と協力してこのドーム建設に奔走されたのも先生である。

 近年はゲームもさることながら先生にご挨拶に伺うのが長浜行きの用の大半である。先生は1920年のお生まれなのですでに米寿をこえておられる。10年くらい前まではフットボールのシーズンになると大阪に来られ、少なくとも月に一度ほどお目にかかっていたが、現在はこの長浜ボウルが数少ない機会となった。

 1955年(昭和30年)の盛夏である。セミの声が岩にしみいる日だった。東京から遠路夜行列車に乗り3人の屈強な青年が湖北、伊香郡にある木之本駅に降り立った。そのころ吉川先生は滋賀県立伊香高校アメリカンフットボール部の顧問であった。関学高等部に勝つことが目標だった。本格的なコーチングを生徒たちに受けさせたい、と思ったので日大アメリカンフットボール部宛にハガキを出した。「コーチお願い致したく」。部長の名前が分からなかったので宛名は「日本大学アメリカンフットボール部 部長殿」とだけ書いた。もちろん部長がいかなる人物なのか知らない。先生は考えられることと行動の間の時間差がほぼゼロである。

 3人の青年は大いなる星に導かれイエスをおとなった東方の博士たちのように前触れなくやってきた。「部長からコーチに行くようにと言われました」。夏休み中なので当然ながら学校には生徒はだれもいない。吉川先生は全部員の家に至急電報を打った。「ガッシュクス ガッコウヘシュウゴウサレタシ」。翌日から10日あまりの夏合宿が始まった。遠方より来たった青年の一人の名前は、篠竹幹夫、のちに日大フェニックスの監督になる。このときはまだ日大4年生の一選手である。1951年までの日大は関東を制したことがなく、もちろん甲子園ボウルは夢の世界だった。

 10日間、篠竹は起居をともにし、一冊のフォーメーション・ブックを残していった。それは吉川先生のバイブルとなり今も大切に保管されている。作成したのは日系二世の竹本君三。当時の日大監督である。竹本は米軍基地で働いていた。戦後かなりの期間、極東米軍の各地にあるベース内のフットボール・チームのためにNFLのプロコーチが派遣され、コーチング・クリニックが行なわれていた。竹本はこのクリニックを受講している。あるときやってきたコーチの一人がヴィンス・ロンバルデイである。ロンバルディはのちにグリーンベイ・パッカーズのヘッド・コーチを務め、弱小チームを建て直し、第1回、第2回のスーパー・ボウルを連覇した歴史的名将である。現在スーパー・ボウル・トロフィーはヴィンス・ロンバルディ・トロフィと呼ばれ、その名を永遠に留めている。

 ついでながらこの前年1954年(昭和29年)は竹本監督が考え出したアンバランスTというフォーメーションが日大に導入された年であった。その時点での関東のチャンピオンは1951、1952年と甲子園ボウル2連覇をはたしていた立教大学だった。続く1953、1954年も立教は甲子園で関学に敗れはしたが関東を制し4連覇を遂げていた。日大は竹本監督が1952年から4年計画を立て、厳しい練習を繰り返し強化に務めた。このリクルートの一期生が篠竹である。計画の4年目、1955年、日大は甲子園ボウル初出場を果たす。アンバランスTの時代はのちに篠竹によって創案されたショットガン・フォーメーションと併用されつつ1976年まで続いた。監督篠竹幹夫の誕生も、独自の着想でショット・ガンのヒントを得るまでにも、まだ数年が必要だった。そして完成に至るまでにそれからさらに20年近い歳月を要した。

 この夏季合宿がのちに日本アメリカンフットボール史に大きな足跡を残すきっかけとなった。篠竹はこの時のコーチ経験が契機となり指導者の道を意識するようになった、と後年吉川先生に話した。その後、篠竹はこれからも決して破られることはないであろう290勝39敗4分、勝率8割7部1厘という前人未到の金字塔を打ちたてた。

1954年のフォーメーション・ブック
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(関学中学部と長浜の中学校との交流については稿を改める)
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 09:25| 記事