2008年05月28日

#7 関西学院初等部 歴史の始まり

 生物がDNAの二重らせんによって自らを複製するように、歴史も繰り返される。見方によっては繰り返さないという考えもある。前者につくならば歴史の研究は二重らせんの研究と似ている。「歴史を学ばないものはその日暮らしをする」という箴言(しんげん)がある。同じあやまちを繰り返さないためのいましめだが、現実世界はそうでないことを経験的に感じる人は多いであろう。またこのカルマ(業)を東洋的諦観をもって受け入れざるを得ない境遇があることも事実である。

 先週土曜日に今年4月に開校した関西学院初等部の見学会に出かけた。学院の建築の伝統を踏まえた簡素にして美しい施設だった。校舎のベージュ色の外壁が雨の中、新緑に映えている。1929年、ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した学院の原型となるスパニッシュ・ミッション・スタイルに則ったデザインである。ヴォーリズは教会、学校をはじめとする多くの建築設計を手がけ、日本の近代建築史に大きな足跡を残した。

 チャペルも質実である。パイプオルガンも備わっていた。演奏を聴く機会があればさらに素晴らしいと思われる。初等部長(校長)の磯貝暁成(あきなり)先生がこのチャペルで見学に先立ってお話をされた。多くのすばらしいお話をされたが特に印象に残ったのは次の2つである。中庭は通常四方を壁に囲まれているのだが願われて、三方をガラス空間にし開放的なスペースにされたこと。また、百数十種、2千2百本の樹木を植えられたということ。

 以下、個人的な感想である。

 「パティオ(スペイン建築の中庭)は子どもの魂である。教室を巡る回廊には渡辺禎夫画伯の、ルオーの「ミゼレーレ」を想起させる版画が飾られている。人が回廊にいるときは建物の中にいるのだが、パティオにいれば回廊は魂を取り囲む外界である。パティオにいてキリストの一生を感受することにより底流に悲哀が流れる世界をありのままに受け入れることが可能である。

 それぞれの樹に名前を記したプレートがそえられている。子供たちがカタカナを読めれば樹の名前を自然に覚えるだろう。いつか木々は森のようになり小宇宙になる。多くの動物は捕食のために移動しなければならないが樹は動かず自給し自足して生きる。

 空海は万能の天才であり優れたデザイナーであった。マンダラを立体にデザインして五重塔を組み上げた。これと等質の精神がこの学校をデザインしており、奇(くす)しき跡をしるすアイコンをいたるところに見ることができる」

 現在は1年生から3年生までの3学年だが、4年生になればフットボールも行うという。ここから育った子どもたちがいずれ日本のフットボール史に新しい歴史を刻むかもしれない。校舎玄関の両脇に一対のヤマモモが植えられていた。一昨年、アメリカンフットボール部創部65周年を記念して作られたDVD“FIGHT ON, KWANSEI”の制作に参加させていただいた。そのときFIGHTERSのベースである第3フィールドの土手のフィールド全体を見渡せる小高い場所にヤマモモの樹が植えられていることを教えられた。この符合は偶然なのだろうかと思いつつ校舎を後にした。
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2008年05月21日

#6 「ダック」のセカンド・ネームは ―新制中学タッチフットボールことはじめ―

 ポプラがはばたいていた。北稜中学のクォーターバック一刀(いっとう)康弘はポプラの葉をさやがす風を受けつつ、右エンドの宮村がフィールドをアクロスし、エンドゾーン左隅に向かって疾駆しているのを視界の端に感じていた。一刀は長身の宮村のコースとパスの放物線が交わる地点を無意識でとらえボールをリリースした。見えない二本の線が徐々に接近していった。宮村が手を差し伸べたのはほとんどエンドゾーンの手前だった。宮村の速度とボールの速度がほぼ一致し両手にふわりとおさまった。そしてレシーバーはその勢いのままゴール・ラインを駆け抜けた。

 1951年(昭和26年)11月6日のゲームである。相手は関西学院中学部。当日のゲームで大阪市立北稜中学の挙げたタッチダウンはこの一本のみだった。結果は24−7で関学が勝った。両校は1949年から年に一度、ゲームを行ってきた。

1949年 11月3日  関学中学部 19−6 北稜中学 関学グランド
1951年  3月21日   々   45−0  々   西宮球技場

 前回の記事に書いた集まりのとき一刀さんにも来ていただいていた。一刀さんは1949年度から1951年度まで北稜中学に在学された。大阪市の市立中学で昭和20年代にタッチフットボールが行われていたのは「関西アメリカンフットボール史」に書いた通りである。米田さんとのインタビューをはからってくださった方が一刀さんもご存知で、すでに昨秋はじめにご紹介いただいていた。遠い以前に部がなくなっていることもあり、本を制作した2003年時点では北稜中学でプレイされた方々の消息がつかめていなかったからである。

 1951年11月6日のゲームの時、関学中学部のチームにハドルで「ダック」と呼ばれている少年がいたと一刀さんは記憶されている。一刀さんが進学された大阪府立北野高校に泉陽一郎という同級生がいた。泉は関学中学部出身で二人はともにサッカー部に入部した。その泉が関学中学部のタッチフットボール部に一刀さんを知っているものがいたといった。その生徒のあだ名が「ダック」だった。昨秋お話をしているとき一刀さんはふとその「ダック」のフルネームを知りたいといわれた。できれば会うことができれば、とも。その後、関学中学部の同学年の方たちはもちろんのこと前後の学年の方々にもお問い合わせしたが該当する人がいなかった。

 集まりで一刀さんから「ダック」の話が出た数日後、米田さんが両校の記事が載った雑誌を捜してくださった。フットボールの専門誌「タッチダウン」に掲載された記事である。関学中学部タッチフットボール部のセイル・アウト・メンバーで、大学において史上初の甲子園ボウル4連覇を果たした学年の丹生恭治が書いた記事である。丹生は卒業後、共同通信社に勤務し、同時に「タッチダウン」社の顧問となってフットボールの啓蒙、普及に膨大なエネルギーをそそいできている。4半世紀以前「タッチダウン」に「フットボール夜話」というエッセイの連載を行った。この連載の中で「関学の話」というシリーズ・イン・シリーズの企画が1984年春から始められた。企画の第8回に両校の最初のゲーム実現までのはなしと簡略な試合内容が記載されている。

 1949年11月3日に行われた関学中学部と北稜中学のゲームは双方ともに創部第一戦の試合だった。まだ新制中学は一年前にスタートしたばかりであり、タッチフットボールの組織もあるかなきかの時代だった。指導教官の助けはあったものの、日本フットボール史に名クォーターバックとして名前を残す鈴木智之が奔走してほぼ独力でこのゲームを実現した。鈴木は実業家として成功し、フットボールのために今なお多大の貢献を続けている。英独二ヶ国語に堪能であり日本の枠をはるかに超えたコスモポリタンである。その優れたプロデューサーの資質の片鱗をこのときすでにかいま見させていた。「関学の話」が書かれた1985年時点でもこの最初のゲームからはすでに36年が過ぎており、いくつかの断片を除き試合経過や北稜中学についての詳細は遠い記憶のベールのかなたにある。

 残念ながら3回目のゲームの記載はなかった。一刀さんに「ダック」のことを話した泉もすでに2年前に他界している。したがって現在、まだ「ダック」のセカンド・ネームは不明のままである。

 ただ下記のように1949年度のメンバーは写真ながら59年ぶりに邂逅(かいこう)した。左が北稜中学、右が関学中学部である。1年生の一刀さんは前列左から2番目で賞状を持っている。関学のほうには米田さんが現時点で判明している名前をいれてくださった。一刀さんと同学年の「ダック」もすでにこのメンバーの中にいてファインダーにむかって笑っているかも知れない。

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2008年05月14日

#5 米田豊さんインタビュー

 米田豊さんは「七人の侍」の島田勘兵衛のような人である。島田勘兵衛は七人の侍のリーダーであり志村喬が演じた非常に印象深い役柄だ。米田さんもファイターズの1954年度のキャプテン、リーダーである。4月23日付けの記事で紹介した米田満先生の弟さんである。対面していると岩のような存在感がある。ペテロという言葉を思い浮かべた。イエスは弟子のシモンをペテロと呼んだ。ペテロは岩の意味であり、イエスはこの岩の上に自分の教会を建てた。ペテロは初代ローマ法王である。米田豊さんはチームのOB会会長としてファイターズ・ファミリーを支えられた。上下へだてのないファイターズのリベラルそのものの方で、私のような若輩にも非常に丁寧なものいいをされる。ただ先輩も後輩もあだ名である。チームは皆そのようである。当方がフルネームで、どなたかのことをお聞きするとあだ名に翻訳されるので一致するまでに一瞬の空白がある。「ああ、○○○(あだ名)のことやね」。

 先日「関西アメリカンフットボール史」でたいへんお世話になった方の計らいでインタビューのため、米田さんとお会いできる運びになった。話がはずみメモを取る手がときに止まる。3時間半ほどがあっという間に過ぎた。どの時点で話したのか定かでないが、旧制の奈良中学のフットボールも話題にのぼった。旧制池田中学、豊中中学と同じ1946年ころ、やはり駐留米軍から指導を受けたのだがあまり資料がなく、まだくわしいことは記録されていない、というお話をした。池田、豊中とならび奈良のタッチフットボール経験者は昭和20年代、関西学院大学のチームの中核を担い、甲子園ボウル初制覇とその後の連勝の推進に大きく貢献した。多くの話題が輻輳(ふくそう)し、この話題も一瞬のことであった。従って奈良中学のことも他のことがらとまじりあって際立った記憶が残っていない。

 翌日、お礼のメールを差し上げた。返信がすぐに届いた。それからわずか1時間後に旧制奈良中学タッチフットボール部出身で関西学院でもプレイされた谷川福三郎さんという方のメールが米田さんから転送されてきた。かなり長文のメールである。うかつにも米田さんが以前に谷川さんに依頼されていたことへの返信だと勘違いした。インタビュー翌日の夕方に届いているので、前夜奈良中の話題をしてからまだ一昼夜たっていない。お二人ともこちらが恐縮してしまう迅速さである。

 谷川さんは1950年(昭和25年)から1953年までファイターズでプレイされた。ただ、この当時はまだチームにファイターズというニックネームはない。米田豊さんの一年先輩の名フルバックである。現在は田園で晴耕雨読の人生を送っておられるようである。この学年は4年生のとき甲子園ボウルで立教大学に3年ぶりに雪辱をした。このあと1956年まで甲子園ボウル史上初の4連覇を遂げる皮切りの年である。

 ご許可をいただいたので転送されたメールをほぼそのまま転載させていただく。書き換えをすると無機質な事実が残って、手触り感のある空気が揮発してしまうからである。原文は文字使いなど昭和20年代のいきいきとした空気があざやかにすくいとられている。

 時代相が異なったり、固有名詞が出てきたりする部分などについては理解の助けのために若干の補足を加えた。< >補足部分。( )は原文にあったもの。
以下、引用

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米田豊様

アパさん<米田豊さんのあだ名> 
連休、草刈等の疲れでゆっくりしていたら貴兄からのメールの返答に間に合うかどうか心配だが兎に角思い出したまま書き送ります。

終戦後数ヶ月して所謂<いわゆる>進駐軍<アメリカ軍>のCampが奈良の元陸軍38歩兵連隊の跡地に設営された<※>。此処<ここ>は奈良市の東南に位置し、私たちの幼少期は極めて辺鄙<へんぴ>な場所であった。即ち陸軍の兵舎と、広い錬兵場があり憲兵や当番兵の監視があり一般人が寄り付かない場所でも有った。戦時中10月10日の空の記念日には模型飛行機大会があり見に行ったぐらいでめったに用事の無い場所でもあった。CAMPが設営された以後はいかがわしいバラックの建物とケバケバシイ化粧の女たちが付近にたむろしていたような終戦後の時代だった。
<※1945年10月に米軍が接収。1957年に当時の奈良学芸大学、現在の奈良教育大学がこの地に移転し、現在に至っている。旧陸軍のレンガ造りの施設は現在も図書館書庫などに利用されている。>

駐留軍人の一人、Lieutenant(少尉だと思う)小田野さんと言う日系2世で、ハワイ出身の普通の日本人の背丈、25-30歳ぐらい、風貌はそこいらの日本の兄さんと変わらず、ただ駐留軍の軍服を着ているし、アメリカ兵独特の帽子を被り、銀色の襟章をつけ当時は非常に立派、且つ<かつ>偉そうに思えた。

だってチュウインガムやチョコレートの時代だったし、ひもじい思いの食べ盛りの餓鬼子には、一片のガムやチョコの美味しさは忘れられない。ジープの無蓋車に乗り一人で運動場の中に堂々と入り込んで(教師に事前許可取り付けていたかどうかは判らず)4、5個のFootballを投げだして、たどたどしい日本語でball投げして遊びなさーい、と。当初は投げ方もわからず彼の投げるのを見よう見まねで練習したものだ。(タバコを憶えたのもこの頃からでいい匂いのラッキーストライキを回し吸いしたことは懐かしい。先生に見つかれば停学処分の時代だったが誰も見つからずに済んだようだ。ヤンチャな年代だった。)

一年上級の藤井浩月、高橋治男、宮本(KG理工専門)。仲(早稲田)、同志社に行った中尾、木村、他の大学や就職組の長田、枡田、鈴木、森川、嶋田、別の高橋、諸氏。
私と同クラスの、小林(KG法科)、石井(慶応)、上田(同志社)、吉川(同志社)、他に水川、植村、などなどと昼食後の休み時間に又放課後にもpassの練習と言うよりも投げ方、spiralさせて目的地まで遠投できるかを競い合った。暫くしてformationらしきもの、そのときはT-formationは無く、single-wing(之<これ>は今から思うに、ミシガン大の全盛期の頃のformation)だったのだろう。Ready, Hi-1,2,3,4、の Call-signで 1、又1,2 か 1231234と、相手のoff-sideを誘発するような単純なもの、unbalance shiftもあった。blockingするのが痛いので腰に剣道の胴下の垂れを巻きつけて腰骨保護をしたことも思い出深い。左右end-run, off-tackle center-punch、pass-誰々へ、short、quick、end run pass 程度と記憶する。trick-playは殆ど無く、passの変形、自由の女神を唯一のtrick-playだったと記憶する。

これらの一環の教示をしてもらい、自分らでtimingをあわせ、あーでもない、こーでもないの試行錯誤の繰り返しで放課後から暗くなるまでよく練習(遊ぶ)したものだ。試合のユニホームは無く各自、色物とか勝手気ままな服装だった。私は慶応のラグビーを模して黒と黄色の横じまの毛糸の長袖を手編みしてもらい着ていたことを憶えている。

当時奈良には奈良中一校のみ。一年後に奈良商業が創部、共同練習したこともあった。大阪では池田、豊中、関東には麻布、慶応その後滋賀に長浜中学が創部したようだ。わたしが対戦した経験は無い。

奈良中学は1947年、豊中中学に敗れたが、1948年の甲子園ボール(BowlかBallか知らぬが)の前座戦に大阪代表の豊中に勝利、1TDの差ぐらいで日本一になった<※>。大幅な得点差も無く得点力も大したものではなかったのだろうと記憶する。
<※この第2回甲子園ボウルは1948年1月1日に行われ、6対0で奈良が豊中に勝利。1953年まで高校日本一は甲子園で決定していた>

当時大學選手では、関大の山本(ヤンチーさん)の華麗な走り、大西の中央突破(彼は奈良出身の講道館4段で粘り腰でタックルされても倒れなかった)、慶応の服部(日系2世)はpassの名手で甲子園の花形だった。彼らのplayを観戦し、真似ようと理想は高く持っていた。男子校が6-3-3制に変革され共学となり高校2年生に編入された。中学入学から卒業しなくして高校2年生となった訳である。
(以上は昭和23年時代のこと。)

小田野さんは配属が変わったのか、試合も観戦に来なく日本一に成った事も知らない筈で連絡の付けようがなかった。当時の我等では英語も拙くCampに尋ねに行く勇気もなく又思い付かなかった事でもあった。思うにもっと親密にして置くべきだったと。

共学になり女に優しい、甘い輩〈やから〉は運動部ではなく文化部、音楽部などで男女席を同じくしていたようだ。われ等バンカラ族は女生徒には目もくれず唯<ただ>ひたすらBallと戯れ(遊ぶ)ていた。softballも野球も盛んだった。現在は高校でもアメフトだが、高2の1月か2月頃先に書いた一年上の中尾、木村氏が 同志社に入学し、アメフト部員となり用具を借りてきた。奈良市春日野グランドにて浪商高とアメフト試合をするためであり、早速用具をつけて、はじめての練習、皆やる気満満、活気にあふれていた。ヘルメット,ショールダー、パット、おまけに試合用のパンツ、黒色のユニホームまで一式借りてきたものである。興奮した毎日だった。2週間ほどの間にひとかどのfootballerになった気持ちで、タックル、スクリメージ、などの練習にも熱が入っていた。試合結果は定かでないが、6:6又は13:13のロースコアーの引き分けだった様に記憶する(藤井、高橋氏は既に関学高等部3年に転校していた)。浪商には 一年後に同志社に行った川勝、野本、○○氏(R-guardだった人)がいた。

この後、昭和24年初めに高橋治男氏の紹介で橘高さんとの出会いがあり関学高等部3年に編入する事になり西尾先生の下、武田建、石井佐治郎、橋本繁(エイプ)などとKG高等部のタツチFB創立、連戦連敗の記録、唯し、豊中高に6−0で勝った唯一無二の戦績が残っている。その後鈴木チュー〈鈴木智之、甲子園ボウル4連覇のQB〉等が204連勝の記録樹立した事は周知の通り。

アパさん
大切な事忘れていたので追記します。

同学年には 梶木、中井、も居た。・・・・こと思い出した。
マキショウ<牧田隆、NFL公式カメラマン>さんからのメールで陣内のことも追加したい。

一年後輩に福村(のちに平井姓に、ニックネームは陣内)、吉井(阪大)、魚谷、横崎(明治)、東口(同志社)、須藤、木下、矢埜、など。(陣内を忘れてたら、叱られてしまう・・・ くわばらクワバラ。)

私がKG高等部に抜けた後、奈良商業グランドにてKG高等部vs奈良高の大雨の中の試合で守備の時、鬱憤晴らすべくこのときとばかりに2-3人で俺をblockingしに来て転倒され散々な目にあわされ、大負けした。彼らは溜飲を下げたようだ。陣内もその中の一人。試合後西尾先生含め大挙20数人が我が家に来て、握り飯に味噌汁で枯渇を癒して帰途に着いた。母、姉、近所のおばさんたちの援助を受けたこと感謝している。

KG高等部三年夏は大學と松山にて共同合宿で、朝のランニング時に松山城天守閣から石井佐次郎と二人でつれション弁して渡辺さん<渡辺年夫、1949年度のキャプテン>に叱られグランド5周ぐらい追加走行罰をうけた。7-8年前、合宿地を探訪する会で松山に行った時オツチャン<鳥内昭人、現監督・鳥内秀晃の父>が憶えていたのには驚かされた。ヤンチャやったけれど出る物自然現象でしょうがなかったのだろうと善意に解釈してもらいたい。

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2008年05月07日

#4 長浜 滋賀県のフットボール その1

 中国では文学を、詩、歴史、小説という風に分けるという。ただそれ以上のことについては明るくない。このブログは詩と歴史の2つに焦点を置き、その2点から描くことのできる楕円の軌跡上を歩きながら見えるものを書き留めたいと思っている。従って歴史に近い軌道線上にあるときは敬称を略し、詩に近づくところでは敬称をもって記述していこうと考えている。これはあくまで個人的なものであって普遍性があるものではない。

 例年4月29日は長浜ひょうたんボウルの日である。この日はほぼ毎年、長浜に行く。もう30年近くの習慣となっている。長浜は琵琶湖の湖北にある。その位置は琵琶の形をなす湖の肩あたり、東岸に立地している。JRで米原まで来ると朔北(さくほく)の気配が濃くなっていく。ここで12両編成の列車の前4両だけがさらに北行し、後続の車両は切り離される。この間7分、大阪より1時間半ほどの行程なのだがその作業の完了を待っていると、はるか遠国を旅している錯覚におちいる。試合の会場となる長浜ドームはJR長浜のひと駅手前、田村で下車する。新快速が停まるのだが基本的に無人駅である。まわりには田園がひらけ、北には琵琶湖が迫り、さざなみが立つ湖面は海をみはるかす趣がある。自動改札機はカバーがかけられており乗客はチケット・ボックスに乗車券を入れ三々五々駅を離れる。

 4月29日午前中は1時間に2本到着する新快速列車から降りる人々の大半は長浜ドームに向かう。例年29日は晴れることが多く今年も良い天気だった。長浜ひょうたんボウルは58回目を迎え、甲子園ボウル、ライス・ボウルに続く歴史を持っている。1951年の第1回大会よりずっとゲームの切り盛りをされてきた吉川太逸先生は「ひょうたんボウルはいつも晴れますのや」と言われる。先生はまた、ひょうたんで長浜の町おこしをはかる長浜愛瓢会の会長でもある。知ってのように瓢箪は豊臣秀吉の馬印であり、その秀吉の築城により長浜は開かれた。参加したチームには先生が丹精された、ひょうたんのトロフィーが贈られる。ドームができてからはもちろん晴雨は不論になった。フットボールの教え子と協力してこのドーム建設に奔走されたのも先生である。

 近年はゲームもさることながら先生にご挨拶に伺うのが長浜行きの用の大半である。先生は1920年のお生まれなのですでに米寿をこえておられる。10年くらい前まではフットボールのシーズンになると大阪に来られ、少なくとも月に一度ほどお目にかかっていたが、現在はこの長浜ボウルが数少ない機会となった。

 1955年(昭和30年)の盛夏である。セミの声が岩にしみいる日だった。東京から遠路夜行列車に乗り3人の屈強な青年が湖北、伊香郡にある木之本駅に降り立った。そのころ吉川先生は滋賀県立伊香高校アメリカンフットボール部の顧問であった。関学高等部に勝つことが目標だった。本格的なコーチングを生徒たちに受けさせたい、と思ったので日大アメリカンフットボール部宛にハガキを出した。「コーチお願い致したく」。部長の名前が分からなかったので宛名は「日本大学アメリカンフットボール部 部長殿」とだけ書いた。もちろん部長がいかなる人物なのか知らない。先生は考えられることと行動の間の時間差がほぼゼロである。

 3人の青年は大いなる星に導かれイエスをおとなった東方の博士たちのように前触れなくやってきた。「部長からコーチに行くようにと言われました」。夏休み中なので当然ながら学校には生徒はだれもいない。吉川先生は全部員の家に至急電報を打った。「ガッシュクス ガッコウヘシュウゴウサレタシ」。翌日から10日あまりの夏合宿が始まった。遠方より来たった青年の一人の名前は、篠竹幹夫、のちに日大フェニックスの監督になる。このときはまだ日大4年生の一選手である。1951年までの日大は関東を制したことがなく、もちろん甲子園ボウルは夢の世界だった。

 10日間、篠竹は起居をともにし、一冊のフォーメーション・ブックを残していった。それは吉川先生のバイブルとなり今も大切に保管されている。作成したのは日系二世の竹本君三。当時の日大監督である。竹本は米軍基地で働いていた。戦後かなりの期間、極東米軍の各地にあるベース内のフットボール・チームのためにNFLのプロコーチが派遣され、コーチング・クリニックが行なわれていた。竹本はこのクリニックを受講している。あるときやってきたコーチの一人がヴィンス・ロンバルデイである。ロンバルディはのちにグリーンベイ・パッカーズのヘッド・コーチを務め、弱小チームを建て直し、第1回、第2回のスーパー・ボウルを連覇した歴史的名将である。現在スーパー・ボウル・トロフィーはヴィンス・ロンバルディ・トロフィと呼ばれ、その名を永遠に留めている。

 ついでながらこの前年1954年(昭和29年)は竹本監督が考え出したアンバランスTというフォーメーションが日大に導入された年であった。その時点での関東のチャンピオンは1951、1952年と甲子園ボウル2連覇をはたしていた立教大学だった。続く1953、1954年も立教は甲子園で関学に敗れはしたが関東を制し4連覇を遂げていた。日大は竹本監督が1952年から4年計画を立て、厳しい練習を繰り返し強化に務めた。このリクルートの一期生が篠竹である。計画の4年目、1955年、日大は甲子園ボウル初出場を果たす。アンバランスTの時代はのちに篠竹によって創案されたショットガン・フォーメーションと併用されつつ1976年まで続いた。監督篠竹幹夫の誕生も、独自の着想でショット・ガンのヒントを得るまでにも、まだ数年が必要だった。そして完成に至るまでにそれからさらに20年近い歳月を要した。

 この夏季合宿がのちに日本アメリカンフットボール史に大きな足跡を残すきっかけとなった。篠竹はこの時のコーチ経験が契機となり指導者の道を意識するようになった、と後年吉川先生に話した。その後、篠竹はこれからも決して破られることはないであろう290勝39敗4分、勝率8割7部1厘という前人未到の金字塔を打ちたてた。

1954年のフォーメーション・ブック
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(関学中学部と長浜の中学校との交流については稿を改める)
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2008年05月01日

#3 高校フットボールとNOBLE STUBBORNNESS

 27日の日曜日は良い天気だった。素晴らしいフットボール日和である。万博公園にあるEXPOフィールドへ高校のゲームを観に出かけた。大阪府の北部一帯は北摂と呼ばれる。その昔、摂津の国がありその北の部分に位置する地域なので「北摂」なのであろう。北摂はフットボールの盛んな地域である。フットボール部のある高校が蝟集(いしゅう)している。

 日本が戦争に敗れた翌年の1946年秋、まだ夏の気配が残る頃、一人の日系アメリカ軍人が映画「シェーン」のようにふらりと北摂にある旧制池田中学と豊中中学に現れる。そしてフットボールの種子を蒔き帰国した。関西学生アメリカンフットボール連盟理事長、日本アメリカンフットボール協会理事長を歴任した古川明、甲子園ボウルで関西学院大学が初めて勝利を収めた1949年、その原動力となった故徳永義雄はそれぞれ池田中学、豊中中学在学時にこのフットボールの伝道師と出会った。二人はのちに関西学院大学でチームメートとなり甲子園ボウル初制覇を成し遂げ、終生かわらぬ親友となった。生涯を通じ協力しあってフットボールのために尽くした。名神高速道路の工事にともない閉鎖されていた西宮球技場が1966年に再開されるに当たり、しばし途絶えていたフットボールでの使用の道を復活させた。その後、西宮球技場は長年関西のフットボールの中心となっていた。時が移った2003年、西宮球技場は取り壊されたがそれまでの30数年にわたるたゆまぬ努力の結果フットボールはすでに自らの翼で飛べる力を蓄えていた。フットボールのシェーンの名はピーター岡田である。

 ピーター岡田の指導は短期間だったが、古川がその後の人生をフットボールにささげる端緒をピーター岡田は開いた。古川は柔道の有段者だがピーターとの出会いによりフットボールに傾斜していく。はじめてグランドに立った日、ピーターは少年たちの緊張をやわらげるため「フットボールで遊びましょう」と言った。

 生前の徳永から聞かせてもらった思い出話がある。まず少年たちに楕円のボールを投げさせた。徳永が投げたボールは自然にスパイラルがかかり、きれいな軌跡を描いて飛んだ。「クォラ・バック」とピーターは言った。クォーター・バックという言葉がそう聞こえた。ピーターの言葉に天啓を受け「その瞬間すべてのものから解放された」、と徳永は語った。スポーツが少年に生きる道しるべを与えた。

 この日、筆者の出身校府立豊中高校と大阪産業大学附属高等学校が大阪府大会のトーナメント準決勝で対戦した。結果は豊中高校7−98大産大高。完敗である。
 
 前半すでに0−63、第2クォーターに大産大高は49点を挙げていた。関学大、日大が最強の時期に記録したかどうかというようなスコアである。それでも豊中高校のベンチではお互いに鼓舞しあう声が途絶えなかった。万博のフィールドはスタンドの距離が近いため、ハーフタイムのハドルで豊中高校監督の佐藤剛が話すサイドラインからの声が春風に乗り切れ切れに聞こえる。「取りにいこう」。

 大産大高校監督の山嵜隆夫は強い信念を持って生徒を指導している。20数年かけてチームを着実に強化し、すでに高校選手権は5連覇を含め多くの優勝をおさめている。関西は長く関西学院高等部がその強さを保ちつづけてきた。1950年代から‘60年代にかけて204連勝を記録した。大学で関学が目標になってきたように高校でも関学が目標である時代が長く続いた。大産大高校も強くなるにつれて、この新たに高く成長した樹に対して風当たりが強くなったが山嵜はたわまず、生徒達にも常に全力を出し尽くすことを求めている。

 関学高等部の強さの源泉に前回紹介した米田満がコーチした中学部が大きな役割を果たしている。現在では少しずつだがフットボールもNFLフラグなどでジュニア層に広がり、昔ほどの優位性はなくなってきている。その優位を崩したのがこのフットボールの一般的な普及とチェスナット・リーグというジュニア・リーグである。1988年にこのジュニア・リーグは生まれた。当初小学生を対象としたクラブ・チームで構成されるリーグとしてスタートし、中学生のチームを作るまでに広がっていった。現在はさらに発展し、このチェスナット・リーグに属する中学生チームと学校のチームが手を携えて2003年から関西中学校アメリカンフットボール選手権大会を開催している。チェスナット・リーグ出身者の進学先は高校、大学とも多岐にわたり、それぞれのチームの主力として活躍するものが多数にのぼっている。チェスナットは文武両道、特によき人格形成に重きを置いている。この一連の活動を辛抱強く推し進めてきたのは池野邦彦である。池野は滋賀県の長浜南中学でタッチフットボールを始めた。進学した高校にタッチフットボール部がなかったため、創部に賛成しない学校と粘り強く交渉してフットボール部を創った。グランドに余裕がないというのが学校側の言い分だった。そこで池野は一年をかけて荒地を整地しフィールドをひらきその主張を認めさせた。社会人になってからもフットボールに献身し、現在日本社会人アメリカンフットボール協会の理事長を務めている。

 関西学院大学の体育会のスローガンは「NOBLE STUBBORNNESS」である。「気品の高い根性」と訳されている。英国の詩人、J. Drydenの詩の一節から取られた。勝利にはこのSTUBBORNNESSが不可欠である。STUBBORNNESSとSTUBBORNNESSがぶつかり合うとき、観る者もその張り詰めた強い磁場を共有する。

 第4クォーターを迎えた。豊中高校が投げつづけていたパスが立ちはだかっていた厚い壁を刺し貫く閃光となってタッチダウンを奪った。試合前に豊中高校が7−56でゲームを終えられたら豊中の勝ち、とひとり考えていた。大産大高校はこれまでの2つのゲームで82−0、63−0と相手チームを一蹴していた。失点は前半すでに勝手な想像を超えていた。

 ゲーム後の豊中高校のハドルで監督佐藤が「まだ終わったわけやない」といっているのがかすかに聞こえた。このあと勝ちつづけることができれば関西大会での再戦が可能である。

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豊中高校唯一のタッチダウン
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