このサイトのメニュー、「部史」にポインターをあわせると「History」という表示になる。クリックすると左列中段に米田満先生がお書きになられた「アメリカン・フットボールの起源とその発展段階」という論文がある。書かれたのは1959年だが、現在までのところ日本語で書かれたアメリカにおけるフットボールの歴史としてもっともまとまったものである。
これを読むとフットボールが民俗フットボールの系統樹の中でどのように分岐していったかがよく分かる。最初に枝分かれしたのは1863年、サッカーが新しい枝となった。前回に述べたようにFootball Association がスタートしたのである。次に1871年、ラグビーがサッカーとたもとを分かち、Rugby Football Union(RFU)が結成された。フットボールのターニング・ポイントは1881年にやって来る。後年「フットボールの父」とよばれるようになったWalter Campが大学フットボール協会に参加し、その後精力的にルールの整備を行う最初の年となった。
Walter Campはアメリカが独立を宣言してから100年目に当たる1876年、ちょうどプリンストン大学がハーバード、エール、コロンビアの三大学に呼びかけて大学フットボール協会を創設した年にエール大学に入学した。同じ年に四大学でラグビー・ルールを採用することが決定された。キャンプは1880年に卒業するとOBとして初めて大学フットボール協会に参加した。それまでは各大学の代表は現役の大学生であった。
フットボールは1880年代、主に次のようなルールの変遷を経てアメリカの風土に適応し独自の競技になりはじめた。
1880年:
1チームの人数が11人に変更された。1876年に大学フットボール協会が結成されラグビー・ルールが採用された時は、RFUのルールに従い1チームの人数は15人としていたが、この年エール大学が反対にあいながらもひとり主張していた案が認められたものである。同時にラグビー式のスクラムからスクリメージへの移行を行った。これによりそれまで曖昧(あいまい)であった攻守の区別が明快になった。
1882年:
遅延行為解決のためにダウン制が取り入れられた。
1883年:
現在の得点方法の基礎となる基本的ことがらが決定した。すなわち、タッチダウン、タッチダウン後のトライ、セイフティ、フィールド・ゴールが整理された。
この論文ではその後のフォワード・パスの登場、フォーメーションの変遷、シフトの起源なども紹介されている。

米田満先生プロフィール
1928年生まれ。関西学院大学名誉教授。現役時代クォーター・バックとして甲子園ボウル2連覇。卒業後神戸新聞記者を経て、母校の監督となり関西学院中学部、高等部にタッチフットボール部を創設。1948年よりスタートした大学の連勝記録を145に伸ばす基礎を築く。同時に1953年から1951年まで甲子園ボウル4連覇を果たした。このメンバーは公式戦無敗で卒業。その後、東京大学に留学し東大フットボール部の創部に貢献。