2008年04月23日

#2 Site Seeing 米田満先生

 通常はSight Seeing 。しかし今回はこのファイターズのWebサイト内の閲覧なのでSite Seeing。このサイトの中にフットボールの歴史について書かれた良い資料があるのだが、ご存知だろうか。記事がWebサイトに載り、本が積み上げられるように情報が堆積して行くと、目当ての情報に遭遇するあるいは探すのが容易でなくなる。ニコラス・ネグロポンテが1995年に「ビーイング・デジタル」という本のなかでつとに述べたようにデジタル表示は新聞、雑誌といったアナログのメディアにくらべ一覧性において一歩ゆずるところがある。
 
 このサイトのメニュー、「部史」にポインターをあわせると「History」という表示になる。クリックすると左列中段に米田満先生がお書きになられた「アメリカン・フットボールの起源とその発展段階」という論文がある。書かれたのは1959年だが、現在までのところ日本語で書かれたアメリカにおけるフットボールの歴史としてもっともまとまったものである。

 これを読むとフットボールが民俗フットボールの系統樹の中でどのように分岐していったかがよく分かる。最初に枝分かれしたのは1863年、サッカーが新しい枝となった。前回に述べたようにFootball Association がスタートしたのである。次に1871年、ラグビーがサッカーとたもとを分かち、Rugby Football Union(RFU)が結成された。フットボールのターニング・ポイントは1881年にやって来る。後年「フットボールの父」とよばれるようになったWalter Campが大学フットボール協会に参加し、その後精力的にルールの整備を行う最初の年となった。

 Walter Campはアメリカが独立を宣言してから100年目に当たる1876年、ちょうどプリンストン大学がハーバード、エール、コロンビアの三大学に呼びかけて大学フットボール協会を創設した年にエール大学に入学した。同じ年に四大学でラグビー・ルールを採用することが決定された。キャンプは1880年に卒業するとOBとして初めて大学フットボール協会に参加した。それまでは各大学の代表は現役の大学生であった。

 フットボールは1880年代、主に次のようなルールの変遷を経てアメリカの風土に適応し独自の競技になりはじめた。
1880年:
1チームの人数が11人に変更された。1876年に大学フットボール協会が結成されラグビー・ルールが採用された時は、RFUのルールに従い1チームの人数は15人としていたが、この年エール大学が反対にあいながらもひとり主張していた案が認められたものである。同時にラグビー式のスクラムからスクリメージへの移行を行った。これによりそれまで曖昧(あいまい)であった攻守の区別が明快になった。
1882年:
遅延行為解決のためにダウン制が取り入れられた。
1883年:
現在の得点方法の基礎となる基本的ことがらが決定した。すなわち、タッチダウン、タッチダウン後のトライ、セイフティ、フィールド・ゴールが整理された。

この論文ではその後のフォワード・パスの登場、フォーメーションの変遷、シフトの起源なども紹介されている。

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米田満先生プロフィール
1928年生まれ。関西学院大学名誉教授。現役時代クォーター・バックとして甲子園ボウル2連覇。卒業後神戸新聞記者を経て、母校の監督となり関西学院中学部、高等部にタッチフットボール部を創設。1948年よりスタートした大学の連勝記録を145に伸ばす基礎を築く。同時に1953年から1951年まで甲子園ボウル4連覇を果たした。このメンバーは公式戦無敗で卒業。その後、東京大学に留学し東大フットボール部の創部に貢献。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 08:10| 記事

2008年04月17日

#1 アメリカン・スポーツの誕生

 19世紀のアメリカはエジソンが数々の発明を行ったようにスポーツにおいても新しい競技を創り出した。すでにあったスポーツに手を加えたアメリカン・フットボールやベースボール、あるいはアメリカ独自の発明であるバスケットボール、バレーボールなどがその代表とされる。前二者は発生の時期に幅があるが、あとの二者はバスケット、1892年1月20日、バレー1895年2月9日と明確である。

 フットボールは1869年のラトガーズ大学とプリンストン大学の大学対抗戦をもって始まったとするのが一般的である。ベースボールはラグビーと同様その誕生はいくつかの伝説にいろどられており、どの説話も郷愁を帯びている。

 1869年まで大学対抗のフットボールのゲームは存在しなかった。1868年以前は大学内の学年対抗にとどまり学外にでることはなかった。1869年に行われたラトガーズ大学とプリンストン大学の対戦は初めての大学対抗であったのでアメリカン・フットボールの嚆矢(こうし)とされている。1863年にイングランドで最初のサッカー組織、Football Association が結成され基礎となるルールが制定されたが、まだ未完成であり、そのご数十年をかけて現在のルールに近いものに変更された。このアソシエーションからサッカーという言葉が生まれたことは良く知られている。

 文書に残るフットボールの記述のもっとも古いものは12世紀。イングランドのものである。1180年頃にある修道士が書いた伝記の序文にフットボールについて述べていると思われる個所がある。この時代のフットボールはfolk football、民俗フットボールと呼ばれ、その足跡は紀元前にまでたどることができる。もっとも人類が二足歩行を始めたときより蹴るという行為はあったと推測されるが定かではない。

 folk footballはまたmob footballとも呼ばれ現在のサッカー、ラグビー、プロレス、ボクシング、その他もろもろの競技がないまぜになった混沌とした集団格闘技だった。村対抗の、時には全村を挙げてのお祭り騒ぎに近いものであり、したがってそのありさまからmob、すなわち群れ、あるいは暴徒の群れと形容された。このフットボールはしばしば大小の騒乱につながり、そのため為政者から何度もフットボール禁止令が出された。記録に残る一番古いものは1314年エドワード二世の命によりロンドン市長が発布したものである。

 時代が進みこのマグマのような民俗フットボールが近代と言う鋳型にはめられて生まれたのが、サッカーとラグビーであり、そのなかからスコットランドのラグビーがカナダ経由でアメリカに移植され、風土によく適応してアメリカン・フットボールが誕生する。この生命力豊かな帰化植物は土壌に広く深く根を下ろし、幹を太くし現在の大樹となった。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 20:57| 記事