2010年05月22日

#42 さくらんぼの実る頃

 奥さんが友人からさくらんぼをもらってきた。その人の庭で実を結んだという。スーパー・マーケットや果物屋で扱っているものの半分くらいの大きさだが春の空気が感じられてういういしい。

 昔、西宮球技場が関西のフットボールのメイン会場だった1970年代、1980年代、春の西日本選手権大会の一回戦の頃、球技場での観戦はさくらの花の下だった。季節の移ろいをさくらの花びらが風に舞う光景に感じた。王子スタジアムには土手があるので桜と紅葉を植えてはどうだろうか。春は花見、秋は紅葉狩りというのは興趣があると思う。

 西日本選手権はトーナメント形式で1955年(昭和30年)にはじまった。その前年には日本のアメリカンフットボール20周年の記念事業として東西対抗の西宮ボウルが実施された。この前後、フットボールはターニング・ポイントを迎える。戦前創部の9チームに加え、新しい大学チームが創設され始めた。1953年立命館大学、1955年甲南大学、1956年学習院大学、1957年防衛大学、1959年東京大学、日本体育大学。京都大学はこれに先立ち1947年にすでに創部していた。

 西日本選手権は当時はチーム数が少ないため、ゲームの機会を増やす目的でスタートした。大学4校、元大阪警視庁の選手を中心とした全大阪。現在の大阪府警は昭和20年代大阪警視庁と呼ばれ、1950年から1958年までチームがあった。その他、関西学院大学のOB中心の全神戸、関西大学OB中心の全奈良、池田高校OBらによる池田クラブの8チームが参加した。(※)第一回大会は関学が優勝している。

※『関西アメリカンフットボール史』P.60、p.61参照

 その後西日本選手権大会は、大学、社会人混成で続いたが、1984年、日本選手権の創設に伴い、チーム数の増加もあり、大学、社会人それぞれの大会として独立して運営されるようになった。時が経て、大学、社会人とも春のトーナメントの意味合いが薄れ、ここ数年前から交流戦となった。現在でもトーナメントの形を存続しているのは社会人のグリーン・ボウル・ジュニア・トーナメントのみとなった。このトーナメントは関西のX2リーグに加え、西日本全体、東は金沢、西は九州までをカバーし、普及の役割をはたしている。

 つけ加えれば、20周年記念の1954年、20周年を記して、第1回の西宮ボウルが西宮球場で行われた。西宮球場は1991年西宮スタジアムと改称され、2002年まで関西学生のメイン会場として使用された。西宮ボウルの初期はOBを加えた全関西、全関東の選抜チームの対戦が組まれた。このときは秋のシーズン直前の9月16日に開催されている。

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1980年代 西宮球技場の桜 (撮影 奥田秀樹)
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2010年05月06日

#41 フットボール好日

 5月4日は晴天でフットボール日和だった。大阪の高校の決勝と順位決定戦を見にエキスポ・フラッシュ・フィールドに出かけた。母校の豊中高校が3位決定戦に出場するのでそれが主な目的だったが、第1試合の池田高校と高槻高校の5位決定戦から見始めた。豊中は第3試合で第2試合は決勝という順番になっていた。

 池田は第4Qの残り数十秒まで14−13でリード。高槻が攻撃権を得てフィールド・ゴール圏内まで進む。4thダウンになりフィールド・ゴールを選択。
 これが左にそれて池田の勝ちと思ったら黄色のフラッグが落ちていた。池田のオフサイド。高槻が5ヤード進んで再びフィールド・ゴール・トライ。これは決まって劇的な逆転になった。

 第2試合、大阪産業大学高等学校と箕面自由学園高等学校とで決勝。点の取り合いとなり、箕面自由学園が41−34で競り勝った。

 豊中は残念ながら敗れた。前戦の産大高校戦で負傷者が続出し、キャプテンもフィールドにでることができなかった。結果は7−28の敗戦。関西大会までに負傷が癒えるだろうか。

 今大会はタックルをするアメリカンフットボールになった1970年(昭和45年)から数えて40周年で関西大会に大阪から5チームが参加できる。通常の年は3チームである。他の府県も入れ全部で14チーム。京都、滋賀もチーム数がプラスとなる。これまでは10チームが春季の関西大会に出場していた。ノックダウン方式のトーナメントの場合、順位によってシードされるため有利、不利が生じるのでそれだけに今日はどのゲームも緊張感が漂っていた。1970年にアメリカンフットボールになる前、高校はタッチ・フットボールだった。防具の入手が困難な時代であったのと、タッチの方が安全だというのがタッチを採用していた主な理由だった。しかし日本も高度成長時代に入り、防具もそれ以前より入手しやすくなったことにプラス、プレイのレベルが上がりタックル・フットボールの方が負傷が少ないという考えの人が多くなったため、アメリカンフットボールに切り替えられた。ただ、防具のそろわない学校もあったので数年間、タッチの大会も平行して行なわれ、アメリカンフットボールへのリレー・ゾーンが設けられた。

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豊中高校vs学芸高校 豊中#44 QB古角のピッチ・プレイ
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2010年05月03日

#40 第60回長浜ひょうたんボウル

 「ひょうたんボウルの日は晴れますのや」と吉川太逸先生(※)はいつもおっしゃる。今年も晴天だった。長浜ボウルは半世紀以上の歴史を重ね甲子園ボウル、ライス・ボウルに次ぎ、3番目の歴史をもっている。最初は長浜市内の中学校の対戦だった。会場も長浜西中学校や高校のグランドの時代もあった。1992年に長浜ドームが完成し、その後はドームが会場となったので晴雨は気にしなくて良いようになったが依然としていつも天気が良い。こうして環境も整ったこともあり、吉川先生ほか関係者の努力で大学の強豪校が対戦するようになった。

 2010年は日本アメリカンフットボール協会の75周年だったのでフットボールへの功労者に対する第3回目の殿堂表彰が行なわれた。吉川先生も選ばれた。今回の殿堂入りでもすでに故人となっている方々も含まれているが、めでたく先生はご自分で式に出席された。1920年(大正9年)のお生まれなので今年で90才である。80才代半ばまで自分で車の運転をされていたが、あるとき、田んぼにつっこみ車が横転してからはご家族の方の意見もあり。もっぱら自転車で移動されている。フットボールの第一線からはすでに引かれているが瓢箪で長浜の町おこしをする愛瓢会では現役の会長さんである。今度九州で開催され皇族にも臨席いただく大きな瓢箪の会にも出席するというお話でその行動力は少しも衰えない。先生のことについてはまた稿を改めて書く予定である。

※ #4 長浜 滋賀県のフットボール を参照

 昨年から会場周辺では両チームのグッズを売るテントの他にフリー・マーケットも参加していて大変ににぎやかで本場アメリカでのゲームの小型版のようになってきた。

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 大学のゲームは立命館大学と日本大学の対戦が昨年に続いて組まれた。日大が昭和20年代前半まだの最下位を低迷していた頃、当時の監督だった竹本君三は1952年から4年計画でチーム強化を図った。その頃は9月にリーグ戦がなかったので実戦を経験するため関西遠征を行なった(※)。関東の大学チームは秋のリーグ戦で対戦するのでゲームを組めなかった。したがって関西遠征になった。相手はまだチーム創部間もない立命館大学、創部8年目の京都大学、そして関西学院大学だった。宿泊費を節約するため2日間で3ゲームをこなした。結果として日大は当時甲子園ボウル2連覇中の関学にそのフィットネスを驚かれるような運動量のあるチームとなった。日大は1955年、4年計画の最終年に甲子園ボウルにおいて関学と、26対26で同点優勝を遂げる。その後、日大と立命の交流戦はとだえていたが昨年半世紀以上を経て復活した。昭和20年代後半は両チームともまだ弱小と言える状況だったが、現在ではご承知のように両チームとも甲子園で何度も優勝する強豪校となった。今回はシーソー・ゲームになり僅差で立命が長浜ボウル二連覇を果たしたが秋になれば日大はパス・ゲームの精度を上げて甲子園を射程圏内に入れてくるだろう。

※ #21〜26 日本大学のフットボール参照
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2009年07月30日

#39 新彊ウイグルと日本における近代スポーツ

 新彊ウイグルに事件が起こり、北狄(ほくてき)、東夷(とうい)、南蛮、西戎(せいじゅう)という言葉を思い出した。中華思想というものがあり、漢族は自らを中華とし、その四辺の外をこう呼んだ。実体は中原に鹿を追うことであった。列強が権力を追い求める様を猟師たちが鹿を追うのに見立てた比喩である。これから転じて「鹿」はイコール「帝位」、権力の象徴となった。まだ日本が縄文、あるいはそれ以前の時代、広大なアジアにおける文明の中心のひとつは春秋戦国の諸国が抗争を繰り広げる2本の大河の流域の大地、すなわち中原であった。しかし、悠久たる数千年の歴史の中では漢族が野蛮と呼んだ民族に征服されることしばしばであった。征服者は英雄であった。英雄とは多くの人間に食いぶちを与えうる人物を意味した。そしてその中でもっとも多くの人間を養う英雄が中原の皇帝となった。 

 新彊ウイグルはイスラムなので漢族とは異なる精神世界に暮らしている。これが現実の世界にも持ちこまれるため埋めがたい軋轢が起こり今回のような事件となった。人は不寛容であることしばしばである。国家、民族、種族、地域、その他、我と異なる要素があれば不寛容は生じ、漱石ではないが向こう三軒両隣、家族の中でも「兄弟(けいてい)牆(かき)に鬩(せめ)ぐ」、抗争が起こる。「牆(かき)」は垣根のことで、兄弟が内輪喧嘩をする、転じて財産争いを意味することもある。

 漱石の『草枕』の冒頭を引くまでもなく、人の社会はせめぎあいである。政治とは欲望、好悪とそこから生ずるパワー・バランスである。政治という俗世にあって純粋であることはできない。それは聖人がフィクションであり、ユートピアはどこにもないところを意味するのと同様である。この消息を司馬遷は『史記』の中でつぶさに描いた。『史記』を熟読すれば人間の心の深層にひそむ天邪鬼なワニの暗い世界を目の当たりにすることができる。司馬遷が絵解きした世界より2000年以上が過ぎたが人が変容した形跡はない。

 中華は一個の完結しうる世界である。世界であることの一要件は自給自足できるということである。アメリカやフランスも世界である。近代が作り出した国家という概念では収まりきらない広さと多様な要素から構成されている。中華から見れば固有の文字も持たず、思想もなく、当時にあって先進の条里制都市も持たない蓬莱(ほうらい)の国、日本は中華の周縁部にあった。そして魏志倭人伝の中で倭の国と呼ばれた。倭の国は主たる農作物に米作を選んだ。これによって関東平野までは満ちたが、狩猟、漁労と果実の採集生活で豊かだった道の奥にも寒冷地に適さぬ米作を強いたので、この元来は豊かな地を常に飢餓の危険にさらす地域におとしめてしまった。これは昭和になるまで続き、日本で最初のフットボールのリーグ戦行われた1934年(昭和9年)においても東北地方は大飢饉にみまわれ、人身売買が横行し、新聞各紙は救済のため大きな紙面を割いて募金活動を行った。

 日本は江戸時代、国を閉ざしフラスコの中のビオトープの世界を維持し続けた。葦のズイのような細い管から取り入れた舶載の文化はごく一部の為政者、貴族、武士、学者、神官僧侶、富裕な商人というような特権階級に独占されたが、これを細密化し、蒸留し独自の精神と美学を醸成した。しかし近代という地球規模の大きなうねりに飲み込まれる成り行きとなり、やむを得ざる選択として開国し、維新して明治という国家を急造した。明治という国は江戸人が作った。しかし、その不肖の息子たちは江戸人のリアリズムを体得できず、不合理に思考し、神佑を頼みとして国を誤り、20年近くに渡り踏み迷い続けて行き着くところを得ず、敗戦という形で決算した。これは帝国主義政策の列強が領土の肥大化とその結果としてもたらされた金融大恐慌を2度の大戦で清算しなければならなかった事情と同様である。ヤマトにあった古代における木の国は、中華という竹を接木し、その後欧米という鉄を接いで今日に至っている。したがって時々に古代人がその幻影を現すので、しばしば自我の不調和を自覚せざるを得ない。

 日本の近代スポーツは明治時代において当初はお雇い外国人のもたらした輸入文化の荷についたこぼれ種のようにして伝わってきた。またそれに続いて官が公的に輸入した。それまでの日本人は90数パーセントが農業を営み、基本的に大半の時間を戸外労働において過していたので日照受容時間も運動も足りていた。近代スポーツは日照量の不足するイギリス、北ヨーロッパの人々が発達させた。

 「冬の太陽は乳色にかすれて厚い雲におおわれたまま、狭い町の上にわずかにとぼしい光を投げていた。破風造りの家の立ち並んだ路地々々は、じめじめとして風が強く、時おり氷とも雪ともつかぬ柔らかい霰みたいなものが降ってきた」――高橋義孝訳。一部旧漢字をかなに改めた

 ドイツの文豪トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』の冒頭である。場所はリューベック。ハンブルグの近くに位置し、ドイツ北部と北欧三国が囲むバルト海に面した港町である。こうした天候が半年以上に渡って続く地方では夏季に戸外に出て1年分の日照量を確保することが生存の基本条件となる。それにともない19世紀、ドイツ体操、スェーデン体操、デンマーク体操などが考案され、日本でも明治期に移入、研究し学校体育で実行された。

 日本においてアメリカンフットボールは遅れてやってきたスポーツのひとつである。現在盛んな野球は明治初期、サッカーも中期に伝来している※。またラグビー、バスケットボール、バレーボールも明治後期に紹介され、大学、旧制高校、高等師範をいただく師範学校、神戸と横浜の外国人倶楽部、YMCAなどによって大正年間に各地へ伝播された。しかし昭和になっても一般にはサッカーもラグビーもなじみのないスポーツであった。その中にあって旧制高校はさまざまな競技大会を主催し旧制中学の生徒を招き啓発に努めた。あるいは新聞社が新聞普及のため各種のスポーツ大会を催した。戦前はこうしてスポーツの普及活動が細々として続いた。

※ #29 1920年 日本フットボールことはじめ1 参照   

 前回紹介したようにアメリカンフットボールはリーグ戦がはじまったのが1934年(昭和9年)であり、日系二世が大多数を占めている競技であった。昭和恐慌、大陸進出による世界からの孤立化という落ち着かぬ世相のもとでそうしたことを忘れさせてくれるもののひとつはスポーツだった。フットボールはその中にあって遅れて伝来したスポーツであった。そのためゲームは目新しさから主に首都圏、関西圏を中心に数千から万余の観衆を集めた。

 日本が最初にオリンピックに参加したのは1912年(大正元年)のスェーデンのストックホルム大会である。したがって次回、2012年のロンドン・オリンピックは初参加より100年目の大会となる。当時パリにあった国際オリンピック委員会の要請で嘉納治五郎は参加を決めた。委員会の求めに従って政府や既存の競技団体の承認を取ろうとして得られなかった。そのためこの初めて選手を派遣したオリンピックは自らが大日本体育協会を設立し参加を果たした。選手はマラソンの金栗四三、陸上短距離の三島弥彦の2名であった。嘉納治五郎は日本のスポーツの先達として明治、大正、昭和と3代に渡り、周囲からの理解を得られないもどかしさの中で努力を続けた。1938年(昭和13年)、嘉納はエジプトのカイロで開催された国際オリンピック委員会に出席する。すでに78歳になっていた。この総会においてオリンピックの東京開催が決まった。帰途、使命を果たし終えて安堵したかのように太平洋の船上で客死する。しかし、1940年に開催を予定されていた大会は戦局の悪化のため返上され、実現されることのない幻のオリンピックとなった。戦前、1926年(大正15年)日本におけるスポーツ振興の手段として水泳連盟の田畑政治が「オリンピック第一主義」を唱える。これは6年後、1932年(昭和7年)に開催されたロサンゼルス・オリンピックにおける日本水泳のめざましい活躍という成果を上げた。この戦前において唱えられたオリンピック第一主義は現在も根強く残り、その関心は依然として高い。一方国際オリンピック委員会におけるキャスティング・ボードを握っている欧米ではオリンピックは生活のいろどりのひとつと位置付けられている。

 現在、世界規模のスポーツ大会はこのオリンピックとサッカーのワールド・カップに代表されるヨーロッパ型と4大プロ・スポーツを中心とするアメリカ型のせめぎあいとなっている。日本は前者に組みしている。アメリカにおける4大スポーツ、フットボール、ベースボール、バスケットボール、アイスホッケーはそれぞれが事実上のワールド・チャンピオンシップなのだが、パスポート主義、つまり国籍に基づくチーム編成をするヨーロッパ型スポーツの支持者は、クラブに基礎を置き、国籍を問わないアメリカ型のスポーツを寛容しようとしない。

 ついでながら、日本においては大相撲以外に真のプロ・スポーツは成立しにくい環境にある。それは人口の少なさとシーズン・スポーツ制という考えがないこと、取り組む競技数が多すぎて人材が分散してしまうこと、言語の壁があることに起因している。また、チーム力の均衡化を計るという思考の欠如、本来の意味における地域マーケティングの考え方がないことも加えることができる。
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2009年07月23日

#38 NEBとU19

 タイトルの「NEBとU19」を見て、すぐに「ニュー・エラ・ボウル」と「アンダー・ナインティーン」、つまり、先日までアメリカで行われていた19歳以下を出場資格とするジュニア・ワールド・チャンピオンシップ、と理解された人はどのくらいおられるだろう。どの分野にも略号がある。最近ではiPS細胞などがよく知られている。文章は相互理解の上に成り立っている。このブログの対象読者はフットボールのファンであることを前提のひとつにしている。その方々の少なくとも95%以上に理解していただけるように書いているつもりだが、ときどき身内話になっていることにあとで気づくことがある。

 NEBに行くためにバスに乗った。2人掛けの席もかなり空いている。小学校3,4年と思われる子供が2人並んでいる前の席に座った。2人はナゾナゾを出し合っている。一人の子が「長くてつらいものはなぁんだ」と訊く。もう一人の子が、「人生」と応えた。それだけでも2人の顔を見たくなったのだが、その応えについての問題を出した子の返しがちょっとびっくりだった。「短くてもつらい人生があるよ」。

 NEBは観戦ではなく秋から始まる関西学生リーグでの新しい試みを行うための予習を手伝う予定になっていた。しかし、ゲーム開始後まもなく携帯が鳴って、予期せぬミーティングに加わることになった。昨今はどの分野でも大きな変化が起こっている。グーグルがパソコンの分野に参加し、無料のOS提供を始めたので、この分野におけるマイクロ・ソフト寡占の状態が崩れる可能性が出てきた。グーグルはネットブックなどの低価格パソコンがさらに普及し検索頻度が上がることを目的としているのでOSが無料であることはその戦略の1パーツにしか過ぎない。グーグルは書籍をデジタル化することで起きた裁判でもあっさり和解金として1億2500万ドルを支払うことを認めたり、これまでのビジネス世界であれば、企業の死活にかかわるような金額のことがらをいともあっさりとパスして行っている。マクロにものごとをとらえ、グーグルにとってはささいなことに頓着しないという方針が明快だ。このささいなという金額はグーグルにとってであって普通の企業にあてはまるものではないことはいうまでもない。日本企業でも欠陥商品で死者を出した巨大企業が信用を賭して数百億円の支出を認めたことがあった。マイクロ・ソフトの創始者、ビル・ゲイツは自社を超える存在が現れる時が来ることを予測し、また口にもしていた。別の角度から言えば、両社の創設者の出身校、ハーバードとスタンフォードの戦いに持ち込まれた。ただ、まだノロシが上がった段階で実際の商品が市場に出るのは来年半ばとのことなのでどういった影響がでるかはそのあとの話である。

 以前、企業30年説というものがあってどんなビジネス・モデルや発明も30年経てば機能しなくなると言われた時期があった。現状はこのサイクルがさらに早まった。変化しないものは衰退し舞台から去って行くのが現実だ。

 NEBもその前身であった平成ボウルのスタート時の内容から大きく変化している。開催回数が20回を数えたので試みとして行われた部分も歴史となった。開催場所もすでに何度か移った。対戦も最初のものとまったく異なったものになった。当初は単独チームにアメリカのプレーヤーが加わった。現在は関西学生リーグのディビジョン1から3までの全チームを2つに分け、そこから選抜した2チームを母体としてアメリカ人プレーヤーが加わっている。開催場所も替わった。今年の王子スタジアムはその収容力と観客数のバランスがうまくとれた。ゲームもビッグ・プレーが要所にあり、点数も拮抗し盛り上がったようだ。打ち合わせのために試合の大半を見ることができなかったが一週間後以降にCS放送が何回かあるのでミーティングにも集中できた。

 U19のWeb Cast、つまりネットによる動画送信を見る。JAPANの初戦、対ドイツ戦、準決勝のカナダ戦を見ることができた。オン・デマンドなので好きなときから見始めることができる。アクセスがかなりありそうなのだが動画が重くなってフリーズするようなことがない。動画送信にはEZ Streamというインフラを使用していた。Sky・AのKさんからESPNが制作すると聞いていたが、3,4位決定戦、優勝決定戦は違ったようだ。すくなくとも決勝はFOXだった。この2ゲームはストリーミングがなかった。JAPANとメキシコの3,4位決定戦と決勝はライブでと思って夜中に起きたが送信されておらず、この原稿を書いている時点でもまだ流されていない。放送からずっとあとに流すのか、あるいはこの2ゲームの動画送信はないのかも知れない。いずれにしても便利になった。JAPANとドイツ、カナダ戦は1台のカメラで撮っていたが向こうはカメラマンがフットボールに明るいのでほとんどプレーの撮り逃しがない。記憶では一度リバース・プレーにひっかかっていた。しかし、これもある種、カメラがどこまでフェイクにひっかからないか見ているのも面白かった。ロング・パスはさすがに画角の範囲の問題があるので完全について行くのは難しい。しかし、ミドル・パスまではほぼカバーしていた。アナウンスも楽しんでやっているから、そのリラックスした空気が伝わってきて良い雰囲気だった。

 1936年(昭和11年)に全日本の最初のアメリカ遠征が行われた。日本の国際的立場は1931年の満州事変から刻々と悪化し、特にアメリカと袂を分かつのは時間の問題になっていた。日本に留学していた日系二世の立場は微妙だった。前回書いたように全日本は日本人、安藤眉男(立教大学)を除いて全員が明治大学、早稲田大学の各7名を中核とする日系二世だった。一行は選手20名その他に、コーチが明治の武田道朗、役員は川島治雄と朝日新聞社記者で連盟の理事でもある加納克亮の計23名だった。シーズンが終った1936年12月3日に出発した。リーグ戦2年目よりシーズン制が守られ10月に始まって11月末には終了していたからである。その当時は通常であった14日間の航海ののち、アメリカ西海岸に到着した。翌年1937年1月3日、南カリフォルニア高校選抜チームと対戦、6−19の結果を残した。帰国の途はハワイを経由、その地でルーズベルト高校と対戦、0−0と引き分けた。そしておよそ50日後の1月21日に帰国した。アメリカの高校生すなわちU19なので今回のワールド・ジュニア・ワールド・チャンピオンシップのさきがけということもできるだろう。

 あとから振り返ってみればこれが遠征の最後のチャンスだった。帰国した1937年7月、盧溝橋事件が起きた。新聞、雑誌の軍国主義の色がさらに鮮明になり日本の国際社会における孤立化が加速して行った。

 NFLは普及のためのさまざまな試みをトライアル・エラーしつつ行っている。まず、やってみて良い意味での君子豹変を繰り返す。NFLのファームとしての位置づけで、1991年にワールド・リーグをアメリカ、カナダ、ヨーロッパにまたがってスタート。それを引き継ぐかたちでNFLヨーロッパになり、スーパー・ボウルMVPになったカート・ワーナーを代表とするNFLでも活躍するプレーヤーを生み出した。しかし、コスト・パフォーマンスの点から2008年廃止。ジュニア・ワールド・チャンピオンシップの以前にも同じ趣旨の大会があった。今回のアメリカチームはかなり強化され、カレッジの1部リーグ・チームに進学するプレーヤーが36人含まれているということである。ゲーム・スタッツを見れば、攻撃獲得ヤードが408ヤード対49ヤード、カナダのラッシング・ヤードはマイナス8ヤード、従って大会前にシード順位が第1位であったカナダに41−3と快勝したのも当然と言えるだろう。
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2009年07月03日

#37 日本アメリカンフットボール創始75周年の記念ゲーム

 下記の写真の人は関東学生アメリカンフットボール連盟の前川誠さんである。もう知り合って20年ほどになる。かなり以前、関西のある会社が関東大学リーグのスポンサーになっていた。日本のバブルまっただ中のころである。3年契約で、そのときの学生連盟の窓口の一人が前川さんだった。勤め人だったが、フットボール発展のためにサラリーマンをやめて、学連の事務局長の道を選んだ。

前川さんとレジェンド・ゲームのパンフレット
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 前川さんの表現を借りると、理事の人々から「また、前川は分からんことをやっている」といわれながら着実にインフラ整備や広報活動を続けてきた。関東学生のホーム・フィールドになっているアミノバイタル建設やさまざまな集客企画が考え出された。何か新しいことをするたびにそのひとなつっこい笑顔でこんなことをしたんですよ、という。今回、日本初のリーグ戦のセイル・アウト・チームによる75周年のレジェンド・ゲームも前川さんが企画した。

 全明治対全早稲田。

 6月13日、土曜日。ゲーム前、明治大学の野崎監督もにこにこされていた。昨年の12月、明治のコーチをされている秋山篤弘さんのご紹介でインタビューをさせていただいた。年齢は76歳になられているが現役監督として再び強力なチームをつくられた。今春、ファイターズも7−12と定期戦で敗れた。有名なペン・ステイツ大学のジョー・パターノのように学生に精神的感化を与えるタイプの監督になっておられる。パターノは弁護士になるかフットボールのコーチになるかの選択でコーチを選んだ。通称ジョーパーの影響力はペンシルバニア州に行けば大統領よりも大きいかも知れない。学生が相手チームを口汚くののしったり、スポーツマンらしくない振る舞いをするとパターノは容赦なく激しく叱る。そのシーンはテレビ放映されるのでよく知られている。確か今年83歳だ。野崎監督は長く勝ち負けの世界におられ星霜を経た厳格な表情だが、パターノとは反対にほとんど感情を露わにされない。試合後のハドルは気迫がこもっているが緊張感のある静謐が支配している。

 ついでながらシカゴ大学でヘッド・コーチ生活の大半を送ったエイモス・アロンゾ・スタッグは71年間現役のコーチ生活を続け、98歳で引退した。コーチのコーチとして尊敬を受け103歳で天寿を全うした。次に述べる日本で最初にフットボールを紹介した岡部平太の先生でもあった。

 実施された当時日本で最初と言われたゲームがいくつかある。
 
 1920年 おそらく秋。東京高等師範学校附属中学が学年対抗で行ったゲーム。岡部平太が米国から帰国後、付属中学で手ほどきした。その参加者であった牧野正巳氏の手記が東京高等師範学校付属中学校創立70周年の記念誌(1958年刊)に載っている。牧野氏は日本で初のTDパス・レシーブをした。
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 文中、岡部の米国からの帰国が「大正八年」と記述されているが、牧野氏の感違いで1920年(大正9年)である。

 1927年4月30日。於:成蹊学園グランド。
 東京高等師範学校ラグビー部の紅白戦
 東京高等師範学校ラグビー部は大正天皇の崩御に伴い予定されていた試合が中止になったため、喪が明けるまでの期間、ラグビー研究のため半年間と期限を区切ってアメリカンフットボールも研究することとした。それからも察せられるように、まだこの時代、両競技間に現在ほどの大きな差異が生じていなかった。

 「アメリカンフットボール」というタイトルの日本で最初のアメリカンフットボールについての本である。1927年6月に出版され、練習の仕方、ルールなどが記されている。この写真は復刻版。オリジナルのものは経年のため装丁がひどく痛んでいる。本の元の所有者は関西大学アメリカンフットボールの創部者、松葉徳三郎である。
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 その前書き。傍線部分に日本最初の試合と記されている。筆者の安川伊三はこのゲーム実施の実質的リーダーを務め、同時に先述の本「アメリカンフットボール」翻訳編集の中心的役割を果たした。高等師範学校の助教授として現在のタッチフットボールに似た旧制中学生向けの簡易ゲームを考案しフットボールの普及に努めたが30代前半を迎えたところで夭逝した。
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 基本練習の写真。右の選手に抱えられたボールは現在のものと異なりほぼ球体に近い。
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 1933年12月25日。於立教大学グランド。
 明治大学のΣNK(シグマ・ヌ・カッパ)というチームと東京在住の日系二世で編成されたチームとのゲーム。これは新聞各紙に前触れ記事が掲載され、翌日はスコアだけでなく文章を伴った記事が載った。狽mKはギリシヤ語で「団結と勝利」という意味が込められていると思われるが、現存される方がすでにおられないため未確認である。

 クラブ旗に「狽mK」という文字が見える。前列左端がこの写真の保有者であった加藤二朗氏。2列目左から2番目が松本瀧蔵教授。
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 ゲーム前日12/25付け 読売新聞 東京版
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 ゲーム翌日、12/26付け 読売新聞 東京版
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 大学対抗の最初のゲームは、1934年(昭和9年)4月に行われた。場所は当時、明治大学グランドがあった代田橋である。そののち現在の八幡山に移る。結果は0ー0の引き分けだった。

 明治大学、代田橋グランドでの記念写真。Daidabashiと1934という手書き文字が読める。
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 75年目に邂逅したレジェンド・ゲームは31−7で、全明治の勝利に終わった。

 ソーシアル・ハウスというアメリカから日本に留学していた日系二世が起居をともにする寄宿舎のような施設が戦前、東京にあった。ひとつの大学に偏らずいろいろな大学の学生たちが同じ屋根の下に暮らしていた。本願寺派のブッディストが営む互助組織だった。この組織のネットワークはハワイ、アメリカのメイン・ランドの東西海岸にもあり移民の手助けを行っていた。※ここに在住していた明治の学生たちがチームを始めた。そのまとめ役に当たったのが明治大学教授の松本瀧蔵だった。
 ※#24 科学的武士道―日本大学のフットボール4 参照

 言葉の不自由さから鬱屈していた日系人学生たちを活気づけるためアメリカ留学の中で同じ体験をした松本瀧蔵が彼らをフットボールで元気にしようとした。松本はアメリカの高校でスポーツにも秀でた文武両道の超優秀な成績を収めた。大学はハーバードを卒業した。この学生生活の中でフットボールも経験している。戦後は出身地の広島選出の衆議院議員となる。松本の寄付で日本アメリカンフットボールの殿堂のある清里にキャンピング施設が作られその名前が冠されている。1933年12月25日、クリスマスの日のゲームのレフリーは松本だった。

 松本は日本フットボールの父とされている立教大学のポール・ラッシュ博士に働きかけ、立教大学にもチームができた。ポール・ラッシュは明治大学の二世たちを愛し、Meiji Boyと親しみを込めて呼んだ。1934年、リーグ戦が行なわれた時、明治の16人のメンバーは全員が日系アメリカ人だったのでクラブでの共通言語はスラングに満ちあふれた英語だった。創部3年目、明治に入学しフットボール部に入部した数少ない日本人、竹下正晃の言によれば上品でない英語はとても上手になったとのことである。そのとき日本人は竹下を含め2名のみだった。竹下は後に明治大学のコーチになり、1964年、日本協会30周年事業として行われた全日本チームのハワイ遠征を、先輩であった日系の人たちの手助けを借りて実現し、総監督としてチームを率いた。全日本は東西リーグで優勝していた日本大学、関西学院大学、のコンバインド・チームでその他の大学からも2名が参加した。遠征は12月9日より21日まで行われた。それにともない例年は12月に行われる甲子園ボウルがこの年度のみ翌1965年の1月15日に実施という変則的な日程になった。

 全日本を迎え入れた明治ボーイたち自身も1936年、全日本選抜の主力としてアメリカ遠征に加わった。この年、同率でリーグ優勝した明治、早稲田を中心としてチームが編成された。ほぼ全員に近くが日系二世で、日本人で唯一このメンバーに加わったのが立教のガード、安藤眉男だった。安藤は大学卒業後早世し、人々は惜しんでその名を安藤杯というトロフィーに残した。安藤杯は関東大学リーグのシーズン最優秀選手に贈られる賞である。

 ポール・ラッシュは組織力と企画性にたけていたので立教大学チームを加え、明治、早稲田、立教の3大学で初のリーグが創設された。リーグ戦は先にも述べたように1934年12月に行なわれた。そのオープニング・セレモニーとして11月29日、木曜、アメリカでは感謝祭に当たる日に行われたエキジビション・ゲームが日本最初のゲームとして現在では定着し、ここを起点として周年は数えられている。全日本と対戦したのは横浜の外国人倶楽部のメンバーだった。平均年齢は30歳を越えており、アメリカン・フットボール経験の少ないヨーロッパ系のメンバーで構成されていたため、若さと経験に勝る学生選抜の日本チームは26−0と快勝した。こうしたマッチングにもポール・ラッシュがきめ細かな配慮を行った結果だった。全日本チーム25名の内、12名は明治大学から選出された。その顔ぶれの大半を狽mKのメンバーが占めたのは自然のなりゆきと言えた。なお、日本アメリカンフットボール協会が1984年に50周年の記念誌として発行した『限りなき前進 日本アメリカンフットボール50年史』中に26名という回顧譚があるが、語られた方の記憶違いで当時のメンバー表は25名が記載されている。
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2009年06月23日

#36 U19

 sky・AのKさんと相談ごとがあって上ケ原に出かけた。KさんがU19の合宿取材に行くと言う。その場所が上ケ原、つまり関西学院のフットボール・フィールドである。ちょうどU19の合宿初日の練習日に当たっていたのでそれも見せてもらうことにした。関西学院のフィールドは第3フィールドと呼ばれていて、今年は19日に関々戦が行われる。スタンドが以前よりさらに整備されていて有料ゲームが十分に開催できる。ここ最近は高校のフィールドも人工芝が貼られ、その普及は年々早まっている。日本の人工芝メーカーも確か5,6社あるはずだ。サッカーのワールド・カップ、ヨーロッパ予選も人工芝を認めるようになった。また、NFL、マイアミ・ドルフィンズの天才QBダン・マリーノが自然芝上のなんの障害も考えられない条件下でアキレス腱を切ったりしたから自然芝信仰もトーン・ダウンしてきている。特に日本ではフットボールは1日に数試合するのでメンテナンスの面から言って人工芝が合理的である。

 ワールド・カップがきっかけになって神戸にウイング・スタジアムが建設された。しかしワールド・カップ終了後自然芝が根付かず、関学・京大戦、社会人のジャパンXボウルが招聘されたが、苔の上でプレーするがごとくずるずると滑って、とても危険だった。長いクリーツ、いわばフットボール用の太いスパイクのようなものでも対応できなかった。

 爽やかな風が渡ってゆくスタンド中段でU19の練習の始まるのを待っていると、「こんにちわ、」と上の方から声をかけられた。見れば関西大学の板井ヘッドコーチだった。先日、甲子園ボウルを盛り上げる会の二次会で名刺を交換した。一緒にマスコミ志望の女子マネージャーを同行してきていた。彼女の質問に応えていたら2次会は終わってしまった。参加者のある人の奥さんが別のところで飲んでいるのでそれと合流することになった。板井HCとはそこで隣り合わせになり、いろいろなことを話して意気投合した。企業にあって日々、煩悩で磨耗している人間からは失せてしまう武道家の趣があり、「サムライ」と言う印象を受けた。板井HCとは1993年の関学・京大戦が終わったあと、ある場所で隣り合わせになった。敗軍のキャプテンであったので声をかけなかった。ぼくはその前の年から、関西テレビで始まったフットボールのプログラム「KTVタッチダウン」のプロデューサー兼制作アドバイザーをしていた。したがって関西学生リーグの全ゲームに立ち会っていたからそうした場面に行きあうことになった。

 選手たちが現れ始めたころU19の監督になった大阪産業大学付属高校の山嵜先生もやってきて挨拶を交わした。もう、20数年来の旧知である。産大高校は周りからは恵まれた環境のように思われているがそれはあらかじめ用意されていたものではなく、山嵜先生が一から手作りで営々と築き上げてきた長期間に渡る地道で孤独な事業である。生徒の指導に優れており、選手の良い部分、またそのときどきの選手の調子を見極める力は天才的である。特に昨年のクリスマス・ボウル、リードされた産大高校の最終クォーター残り1分からの連続スィープ・プレーによる逆転劇は圧巻だった。一緒に見ていた関西の高校フットボールの指導者の方々からその力強い気迫にあふれたプレー選択に感嘆の声が続いて上がった。NFL、カレッジ、国内のゲーム、すべてのフットボール観戦の中でもあのシリーズは印象度ナンバー・ワンだった。

 アメリカ遠征でも山嵜先生が素晴らしい結果をもたらされることを祈っている。開催場所がNFLのホール・オブ・フェイムがあるキャントンなので遠征に同行したかったのだが、仕事のため、いかんともしがたい。一度訪ずれたことがあるが何度でも行きたい場所のひとつだ。従軍記者になるsky・AのKさんによればJAPANが順位決定戦まで進めばESPNの素材を買い、ノーカットで放送されるというから、初戦のドイツ戦の必勝を願っている。

 第3フィールドと練習開始
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2009年06月12日

#35 ホッと、一息

 ここ2ヶ月ばかり、仕事が立て込んでいた。従って、ブログもご無沙汰していた。

 ホッと一息の時間ができたのでうちの奥さんをさそってピクニックに草津まででかけた。

 今年の春の立命を見ていない。
 立命のホーム・ページを見ると5月31日は早稲田戦になっていた。奥さんにはそれは伏せて立命の草津キャンパスはとてもキレイだから見に行こうとだけ言っておいた。

 天気は良し、風はさわやかである。
 南草津の駅前から日曜でもバスは1時間に何本も出ている。学生さんには便利だろう。

 バスがキャンパスに着いてクインス・スタジアムに行ったが、ちいさな子供たちが遊んでいるばかりでゲームの気配がない。散歩しているとフットボール部員募集の立看板があった。電話番号が書いてあるのでかけてみた。

 グリーン・フィールドという正門を出てからおおよそ7分くらいのところでゲームがあるという。キック・オフまでに時間があったのでキャンパスを散策した。とてもスケールが大きく綺麗である。漢字で書かず、「キレイ」と書くとそのほとんどのものがこぼれ落ちてしまう。アメリカ・サイズである。

 街路樹を見て奥さんが「あっ、ゆりの木」と言った。彼女のお気に入りの樹で、自分の工房を「アトリエゆりの木」と名付けている。成長すると60mほどの大木になると教えてくれた。工房の看板をかかげているが、実績は昨年、手作りのゆすら梅のジャムを作ったにとどまっている。ジャムは瓶に詰めて、ぼくが実の写真を撮りラベル・デザインした。ラッピングは彼女の得意で、3瓶作った。このジャムをバニラ・アイスクリームにかけるととても美味しかった。子供たち家族にもおすそわけした。母が苗木から育てて3年目に初めて実をつけた。しかし、今年は収穫の前にひとつ残らず小鳥たちの豪華なる晩餐になってしまったので母はとても残念がっていた。

 1Qが始まった時にグリーン・フィールドにたどり着いた。早稲田とは違う色のジャージのチームが相手だった。我が社会人フットボールのチームだった。立命はセカンド・ストリングのQBだった。エンジンがかからない。その後に、松田大司(ひろし)君が出るとターボ・エンジンにチャージしたようにオフェンスの回転数が上がってすぐに点を取った。彼が関西大倉高校に在学中、松田君のお父さんと我が町のフットボーラーの集まるスナックでご一緒してお話をしたことがある。

 グリーン・フィールドは人工芝で、夜間照明がついており、それが2面もあった。クラブハウスも大きい。

 ミシガン大学ののちに高名なヘッドコーチになる、ボー・シェンベックラーがフットボール部に赴任してきたとき、服のハンガー掛けがコーチ室になかったので訊いたら、壁に打ち込んだ釘を指さされた、と自伝に書いていたことを思い出した。パンサーズのロッカールームにはとても立派なハンガー掛けがあるであろうことは外観から容易に想像がついた。

 風は爽やかだが日差しはきつい。奥さんには長くフットボール・ウィドウをさせてきているので長居は禁物である。ゲームの趨勢は1Qですでに見えたので早々に切り上げ、梅田まで出て少し早いめの夕食に行った。うまい中華の店に連れて行く。いつも通りの味で彼女は大満足である。心理学の系列効果が働いて、最後の料理がおいしかったので一日すべてが素晴らしかったと錯覚し、フットボールも楽しかったことの仲間に入れてもらった。

 まずは、めでたし、めでたしの一日が終わった。

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2009年03月29日

#34 彼らの生き方―第43回スーパー・ボウルA ファースト・ハーフ

 今年のスーパー・ボウルからもうすでに2ヶ月近くが過ぎた。過去のスーパー・ボウルも含め今回の第43回のことについて書きたいと思う。

2月2日(月) 第43回スーパー・ボウル当日
馬を馴らすトロイア人と、青銅の帷子(かたびら)を着たアカイア勢※
ホメロス『イーリアス』 高津春繁・呉茂一訳
※アカイア勢はギリシア人のこと

 #32の最初の方に書いたように今年のスーパー・ボウルを見ていてホメロスの『イーリアス』を連想した。トレント・ディルファーも言ったようにスーパー・ボウルは叙事詩だと思う。

<Sleep Well>
 プレス・カンファレンスでピッツバーグのウィリー・パーカーが、ゲーム前日の夜はどうしますか、と聞かれて“Read the bible, go to my play book, sleep well”と応えていた。

<ウォルター・ペイトン・マン・オブ・ザ・イヤー>
 プレ・ゲーム・ショーの時間帯にウォルター・ペイトン・マン・オブ・ザ・イヤーの表彰があった。1970年より設けられた賞で1999年からウォルター・ペイトンの名が冠された。
 ウォルター・ペイトンのファンだった。その独特のステップ・ワークは誰も真似ができなかった。そしてまだ誰もできていない。まるでダンスように自在な足さばきはマイケル・ジャクソンをスケール・アップしたらウォルター・ペイトンになると言われた。エミット・スミスが破るまでキャリア通算のラッシング・ヤード記録を持っていた。その記録はベーブ・ルースのホームラン記録のように破られたのちも偉大なマイル・ストーンであることに変わりはない。ペイトンの属していたシカゴ・ベアーズは彼の時代、勝ち運に恵まれなかった。だが、選手としての最晩年にスーパー・ボウル出場を果たす。このときペイトンは長年脚を酷使してきたため膝を曲げられないほどの状態だった。しかし、それまでの努力は報われた。1985年シーズンのベアーズは最強で、ペイトンはスーパー・ボウル・リングを手にすることができた。
 ペイトンはオフの方が厳しいトレーニングをしていた。丘を背にした土地に自宅を建て、毎日丘陵を上り下りして身体を鍛えた。オリンピックのマラソンで2連覇したアベベ・ビキラのように走り尽くし40代でその生涯を終えた。
 賞の選考基準はボランティア、慈善活動で、社会貢献したNFLプレーヤーである。今年は出場したカージナルスのQBカート・ワーナーが受賞した。ワーナーと結婚したとき奥さんはすでに障害児をもっていた。ワーナーは障害者の支援を続けており、20000年、ラムズをスーパーに導いた時、ボーナスとして数千万円をもらった。それは障害児の団体に寄付された。

<America the Beautiful>
 サンデー・ナイト・フットボールのオープニングで飾っているカントリー・シンガーのフェイス・ヒルが”America the Beautiful”を歌う。アメリカがカントリー・ソングの国だと思わせられたのは、初めて渡米した80年代半ばのことだった。レコード・ショップという呼び方がまだ健在だった頃である。ショップに行くと圧倒的な売場スペースをカントリーが占めていた。おなじみのポップスやジャズは稀少動物のように隅っこに追いやられていて、捜さないと見あたらないという状態だった。
 1980年代の後半、レコード店にはカッレジ・フットボールのチケットの自販機があった。いとこが連れてくれたUSCのゲーム・チケットはそこで手に入れた。また、ロサンゼルスのオリンピック・コロシアムのかたわらの侘しい一角にマーレーという日本でいえば金券ショップがあり、東海岸で行われるアイビー・リーグのフットボールのチケットも販売していた。スーパー・ボウルのチケットも買うことができる、といとこに聞かされてなんとも羨ましく思ったことを覚えている。

<ハドソン川の奇跡>
 オープニング・セレモニーに先日のハドソン川の奇跡のクルーも参加していた。チェスリー・サレンバーガー、USエアウェイズ1549便の機長の手記から。

「ようやく病院を後にしてホテルにたどり着いたとき、私の望みはいたってささやかなものだった。持ち物をすべて失い、これまでの人生で最も過酷な3分間を経験したばかり。私がそのとき本当に望んでいたのは、家族の声を聞くこと、そして乾いた靴下にはき替えることだけだった」

「5人の乗員全員でなく機長である私一人をたたえる傾向に私は異を唱えてきたが、社会の見方を変えることには必ずしも成功していないようだ」

 奥さんのローリーさんがCBSの番組『60ミニッツ』で言ったことを引用して。

「英雄とは人命救助のために炎が燃え盛るビルの中に飛び込む決意をするような人のこと。私の場合は違う。事態が私たちの上に降りかかってきたのだ」

「こどものころ父を通して学んだのは、司令官たるもの、指揮下のすべての人間の命に責任をもたなくてはならないということだった。予測を誤ったり判断をまちがったりして誰かにけがをさせるのは、司令官として許しがたい大罪だ」

「乗客の惜しみない励ましを別にすれば、いちばん感動したのは同業者の言葉だった。航空産業の不景気が続き、パイロットという職業に昔ほど敬意を払われなくなって、仕事に誇りを感じられずにいたと彼らは言った。だが私たちのおかげで今は仕事に誇りを感じていると、感謝の言葉を述べてくれた。失われた尊厳の一部を取り戻せたと感じたという」

「私たち家族は今回脚光を浴びたことで人間として変わらないようにしようと自分たちに強く言い聞かせている。そのためには学ぶべきことがたくさんある」
(Newsweek日本版 2/25/2009号より)

<ナショナル・アンサム>
 ナショナル・アンサムはジェニファ・ハドソンだった。いつもスーパー・ボウルの大きな見せ場だ。1991年は湾岸戦争のさなかでテロの予告があった。タンパのスタジアムにはコンクリートのバリケードが築かれているという報道映像があった。バリケードは高く刑務所の壁のように見えた。しかし現地に行ってみると、見たのは仰角で撮り大きく見せた映像だったことが分かった。
 戦争は1月に始まり、緊迫した雰囲気の中、ホイットニー・ヒューストンの熱唱は胸を打ち、スタジアムの中のアメリカの人たちの多くが涙を流していた。一体感に包まれ、これまでで一番インパクトのあった国歌斉唱だった。このホイットニーの絶唱はその後CDになって発売された。

<カンファレンスの勝敗と経済>
 かつてNFCが勝つと景気がよくなり、AFCが勝つと景気が悪くなるというジンクスがあった。ジンクスを思い出してこれまでの戦績を見直してみた。これが当てはまったのは1970年代から1980年代初頭までであったように思う。NFCが連覇を続けていた1981年シーズンから1996年シーズンはNFCストリークと呼ばれ、AFCは永遠に勝てないように思えた。この間、AFCチームが勝ったのは1983年シーズンのオークランド・レイダーズのみである。1980年代、アメリカは双子の赤字に悩まされており、NFCが勝利しても基本的に景気が良くなったとは言えなかったと思う。レーガノミックスの効果が現れ財政収支が黒字転換するのは1998年である。AFCが長いトンネルを抜け出し、勝利するには1997年シーズン、ジョン・エルウェーが活躍したデンバー・ブロンコスを待たねばならない。
 これまでの4半世紀、例えばデプレッションのあった年はどうであったか。上段は景気暴落の年、下段はその年のスーパー・ボウルの戦績である。チーム名の左がNFC、右がAFCである。

1987年 10月19日 ブラック・マンデー 
1月25日 NYG 39-20 DEN

1991年 湾岸戦争、年初にニューヨーク・ダウが大幅下落、2月 日本でバブル崩壊
1月27日 NYG 20-19 BUF

2000年 春 ITバブル崩壊
1月30日 SLR 23-16 TEN

2001年 9.11事件後の株価暴落、12月2日 エンロン破綻
1月28日 NYG 7-34 BOL

2008年 9月15日 サブプライム問題 リーマンショック
2月3日 NYG 17-14 NE

NYG:ニューヨーク・ジャイアンツ 
DEN:デンバー・ブロンコス    
BUF:バッファロー・ビルズ    
SLR:セントルイス・ラムズ    
TEN:テネシー・タイタンズ    
BOL:ボルチモア・コルツ     
NE :ニューイングランド・ペイトリオッツ       

 またタンパで開催されるスーパー・ボウルは1991年は湾岸戦争、今年はサブプライム問題と波乱が重なっている。
 ニューヨーク・ジャイアンツ・ファンには気の毒だがジャイアンツがスーパー・ボウルに出場する年とデプレッションが奇妙に一致する。

<Wedge>
 エア・フォースの戦闘機がナショナル・アンサムの終わりと同時にスタジアム上空に来る。今年は数秒遅れた。戦闘機のフォーメーションを見ていて非常に古い体型であるWedgeではないかと思った。比較のために戦闘機の写真と、Wedgeのダイヤグラム、Wedgeの実写を掲げるのでご判断いただきたい。もしかしたらドームをのぞくオープン・エアの会場では毎年こうした趣向があったのかも知れない。

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では、ハーフ・タイムへ。
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2009年03月11日

#33 鳥内のおっちゃんインタビュー

 先週6日、朝日新聞夕刊の惜別欄に鳥内のおっちゃんのことが載った。ファイターズの後輩の榊原一生記者が書かれた追悼文である。今回は第43回スーパー・ボウルの原稿を用意していたが、予定変更して昨夏おっちゃんをインタビューした時のことを書きたい。
 お会いしたときはすでに体調を崩しておられたが、普通の人の倍くらいのエネルギーを感じさせられた。プレーヤーとして現役の頃は常人の10倍ほどのパワーがあったのではと思った。質問をするとおっちゃんの記憶は鮮明で次々に話が展開していった。ファイターズが和歌山で関大とゲームを行ったことがあった。1948年(昭和23年)5月9日のことである。これまで和歌山のどこかの学校ということで場所が特定できていなかった。おっちゃんはそれは田辺高校のグランドやった、と明快に答えた。あの日は暑かったな、ということも記憶に残っていた。さらにグランドでは先に野球の練習をしていたのでキック・オフが遅れたともつけ加えた。硬派で武骨のイメージの強い人だったが、家の本棚にはマルクス全集が並んでいると聞いたことがある。受け答えはぶっきらぼうに見えて心遣いがあった。

 大阪の旧制生野中学出身で関学は専門部から高商に進学。生野中学では柔道をしていた。しかし当時は連合軍の占領下にあったため武道が禁止されていたのでレスリングに取り組んだ。練習はコンクリートの上、という時代であったらしい。ファイターズには1946年(昭和21年)入部。同級生に何人かのフットボール部員がおり、浜寺のほうに住んでいた百々(どど)さんというマネージャーから勧誘を受けた。入部した翌日はいきなり関大との試合だった。フィールドへ下駄をはいて行った。ボールを持っている奴を捕まえろと教えられ、元帥というあだ名のついた杉山という選手をタックルした。この年、リーグ戦で同志社と引き分け、両校優勝となり順位決定のため再試合が行われたがこの試合も引き分けという大接戦になった。12月7日、2度目の再試合で、2−7と惜敗。結果論だがこの試合に勝った同志社は翌年4月の第1回甲子園ボウルに出場しているのでファイターズにとって大きな敗戦だった。その後、一週間もたたない12日に対関大定期戦が組まれていたが、趣旨がうまく伝わっていなかったようで、一同士気が低く大敗。このようにしておっちゃんの最初のシーズンは終わった。

 4年生になった1949年は前年に旧制中学でタッチフットボールを経験した多くの有望新人を加え、秋のリーグ戦前の新聞評では優勝候補に挙げられていた。優勝を賭けた戦いとなった京大戦はのちの関京戦の原型となる緊迫した展開となった。前半リードされハーフタイムにおっちゃんから、「お前ら負けるおもたらあかんぞ」という檄が飛び、チームがよみがえったことは榊原さんも書かれた通りである。
 京大には陸軍士官学校、海軍士官学校出身の高度な肉体、精神のトレーニングを積んだ筋金入りのメンバーがいた。このとき京大チームの中心にいた神田綽夫氏の烈々たる闘志はその後も継承される京大の関学に対するライバルリーの萌芽となった。おっちゃんのトイメンには稲波昭三という巨漢のタックルがいて対等の戦いになった。稲波氏の子息は1970年代半ば、関京2強時代の幕開けの時期に京大のセンターとして活躍した。親子2代のフットボーラーのさきがけかも知れない。

 この年1949年、第4回甲子園ボウルは慶応大学との対戦となった。おっちゃんは常に相手のラインを圧倒し、その前には人がいないも同然の働きをみせた。たまらず慶応大学のメンバーが口パンを飛ばした。言い返したことばに「あほんだら」という単語が含まれていたが当時はまだこの上品な関西弁は東京までおよんでいなかったらしく意味が通じなかった。慶応ボーイたちは東京弁で「やっちゃえ、やっちゃえ」と言っていたそうである。
 ゲームはおっちゃんの活躍などがありファイターズは初出場で甲子園を制した。こうしてその後甲子園ボウルに連続出場するスタートが切られた。
posted by 日本アメリカンフットボール史 at 12:49| 記事