2013年07月10日

#45 フォーク・フットボールの進化 ― ボールをめぐって

 現在、プロ野球は統一球の弾性とその導入手続きをめぐってかまびすしい議論が続いている。今回の件でまたも顕著になったが、NPB組織の根本にある前近代的隠蔽体質についてはあいも変わらない。戦前の旧軍部幹部が最前線を無視し、指令を出した行為に似ている。最も利害の大きい選手会がもっと発言すべき問題であろう。身びいきになるがフットボールでは試合前に審判が使用するボールの空気圧を確認するので上記のようなことが起こる可能性は極めて低いと思われる。

 メジャー・リーグでは人気が落ちるとよく飛ぶボールを使用するということが過去に何回かあった。1919年、シカゴ・ホワイト・ソックス事件が起こる。ワールド・シリーズでの八百長疑惑である。このできごとは映画『フィールド・オブ・ドリームス』にも登場する。20世紀初頭からベースボール賭博にからむギャングたちの存在は問題となっていた。そう言ったことが大いに影響し当然のこととしてベースボール人気は凋落した。

 「攻撃が観客を呼び、守備で勝つ」と言われる。これはスペクテイター・スポーツ、つまり観戦型スポーツに良く当てはまる。そこで事件の翌シーズン、1920年、飛ぶボールが使用された。結果、ベーブ・ルースは1シーズン、54本の本塁打を放ち、ベースボール人気が回復したという。ルースがボストン・レッドソックスからニューヨーク・ヤンキースに移籍した年であった。ついでながらルースは投手においても非凡な才能を発揮し、現在の北海道ファイターズ、大谷翔平のように攻守両面で活躍した時期があった。

 1950年代後期から60年代にかけて、やはり飛ぶボールが使用された。ヤンキースのミッキー・マントルとロジャー・マリスが活躍し、二人の頭文字をとってMM砲と呼ばれ人気を博した。マリスは‘61年に61本のホームランを記録し、ベーブ・ルースの1シーズン記録を塗り替えた。同年マントルも54本のホームラン打っている。ただルースの時代は1シーズン154試合でであったがマリスの時代は162試合制であった。そのためルースの信奉者はマリスの記録を参考記録だとしている。

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 さて、フットボールのボールについて。上記上段の球体に近いボールは1888年の広告である。右横にラグビーという文字が見える。フットボールの父とよばれるウォルーター・キャンプが1880年代前半に現在のルールの元となった規則の整備を行った。しかしボールはラグビーのものを使用している。まだフォワード・パスが認められていない時代だった。

 下段のボールは1905年の使用球である。スポルディング社発行の本の表紙の写真である。この翌年、1906年からフォワード・パスがルールで認められた。スポルディング社はスポーツ用具を扱うとともに普及活動のために出版部門も持っていた。創業者のアルバート・スポルディングはベースボールのプロ・プレーヤーとしてもめざましい活躍をし、1878年、28歳で引退した。その後1888年から1889年にかけて、ベースボール普及のためシカゴのチームを率いて世界一周を行った。

 フットボールの記録が残る12世紀より現代に至るまで、当初豚の膀胱から作られた球体のボールから現在のアーモンド型に向かって改良が続いた。ご存じのようにボールの扱いを容易にするためNFLの使用球はカレッジのボールよりひとまわり小さく作られている。

 #1で触れたが1863年にサッカー協会ができるまでの先史時代は、folk footballまたはmob footballとも呼ばれた。この民俗フットボールと訳される競技は現在のサッカー、ラグビー、プロレス、ボクシング、その他もろもろの競技がないまぜになった混沌とした集団格闘技だった。従って時には死者が出ることもあった。ラグビー、プロレスの要素が含まれていたため多くのゲームは手を使っており、サッカーのように足のみを使うことは少数派であった。

 この民俗フットボールは現在でもイギリスのアッシュボーンという名の町で毎年行われている。そのルーツは1660年代にあるとされている。またイタリアのフィレンツェでは毎年、6月にカルチョ・ストリコと呼ばれる16世紀から続く競技が行われている。市を4つの区域に分け、区域対抗の全市挙げての熱狂的なイベントとなっている。カルチョ・ストリコは「歴史的フットボール」という意味である。日本でカルチョはトト・カルチョという言葉により広く知られるようになった。下記は14世紀のロンドンで行われた民俗フットボールのイラストである。

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2013年05月22日

#44 フットボール伝来記―YMCAとバタフライ効果

 バタフライ効果という理論がある。この言葉は1972年アメリカ科学振興協会でエドワード・ローレンツがおこなった講演のタイトル『予測可能性、ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか』に由来する。くだけて解釈すれば「風が吹けば桶屋が儲かる」の地球規模版と言えようか。

1840年代の10年間に起こったいくつかの事柄は、20世紀になり、さまざまな領域で大きな影響をもたらすことになった。以下、主なできごとを時系列に並べると。

1844年 ロンドンでYMCA創設
 ジョージ・ウィリアムズら教派を異にする12名のキリスト教青年により設立された。この活動はアメリカに渡り、その後1885年に体育の指導者育成を目的とした国際YMCAトレーニング・スクールが創立される。

1845年 ベースボールの始まり
 ニューヨークのニッカボッカ・ベースボール・クラブでルールの整備が行われた。

1848年 ヨーロッパ各地で革命
 この潮流は近代国家成立の礎となって行く。2月、フランス、3月、ドイツで革命。続いてオーストリア、イタリア、ハンガリーへ波及。また9月にはスイスで連邦憲法が制定された。

 ロンドンで『共産党宣言』出版

 サッカー、ケンブリッジ・ルールの制定
 それまで地域あるいはチーム間でばらばらであった民俗フットボールのルールがケンブリッジ・ルールとして整理される。1863年、イングランドでフットボール・アソシエーションが設立された際、ルールはこのケンブリッジ・ルールが元になった。

1849年 ゴールド・ラッシュ
 1848年、アメリカ西海岸で金が発見される。翌年の1849年が最盛期となる。時代精神であった「ゴー・ウエスト」が太平洋を渡り現在、日本を含むアジア、イスラム圏に至っている。ついでながら、ジョン万次郎は帰国の資金を得るためサンフランシスコに向かう人々の中にあった。またNFL、サンフランシスコ・フォーティナイナーズのニックネームもこの年号に由来している。

 上記の最初に挙げたYMCAの活動はフットボールが日本に伝わる歴史のなかでいくつかの痕跡を残している。

1920年 
 シカゴ大学他、諸大学に留学した東京高等師範学校の岡部平太が日本で最初にフットボールを紹介し何試合かのゲームを実施する。岡部が師事したシカゴ大学のエイモス・アロンゾ・スタッグは体育局長、フットボール部のヘッド・コーチであった。スタッグはエール大学、国際YMCAトレーニング・スクールを経てシカゴ大学に招聘されていた。岡部はこの国際YMCAトレーニング・スクールも視察している。      

1927年
 東京高等師範学校のラグビー部においてフットボールの研究、出版に加え、部内での紅白ゲームを行う。この時の主要メンバーであった竹内一は国際YMCAトレーニング・スクールに留学する。

1932年
 大阪YMCAの体育主事、松葉徳三郎がロスアンジェルスのオリンピクを視察。オリンピックの公開競技として行われたフットボールの剛健さに感銘を受ける。帰国後、母校関西大学でフットボール部を1935年に創設。この時協力したのは、国際YMCAトレーニング・スクールに留学した石渡俊一、同校出身であり卒業後大阪YMCAの体育主事となった日系人の竹内伝一である。

1934年
 1923年、東京YMCAは関東大震災で大きな被害を被った。これを立て直すためにポール・ラッシュはアメリカのYMCAより派遣される。1934年、明治大学の松本瀧蔵からフットボールのリーグ戦設立のためラッシュは協力を求められ、明治大学、早稲田大学、立教大学の3チームによるリーグ戦を12月にスタートさせた。その事前PRのため公開ゲームを11月29日に行った。

 上記のことがらよりはるかに時代は下るが1972年、武田建著『近代アメリカン・フットボール』は日本YMCA同盟出版より発行された。
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2013年02月19日

#43 3200万円のブランドとニューヨーク市長

 前回書いた時よりほぼ3年間が空いてしまった。いろいろと世俗の事情があり、書く暇なくすごした。主だったいくつかのことが済んだので今より再開します。2016年初頭には『関西アメリカンフットボール史』に続いて『日本アメリカンフットボール史』の出版を予定しておりますのでよろしくお願いします。

 先日、ある会議で雑談として以下のような話を聞いた。
 オレオレ詐欺があって、KG・ファイターズがそのダシに使われたという。年配の婦人のところに息子という人物から電話があった。
 「お母さん、ファイターズに寄付をしたいので現金で3200万円用意して欲しい。」
 その婦人はすぐにお金を引出し、使いのものと称する人物に渡した。オレオレ詐欺と知ったのはかなりあとになってからだという。
 都市伝説であろう。200万円というのが半端である。もし事実としたら少なくともファイターズにそれほどの価値を認めている人がいる、ということになる。そんな方がいれば一報いただきたい。地球の裏側でも直ちに受け取りに行きます。
 アメリカでは『フォーブス』という経済雑誌がプロのスポーツ・クラブの価値をランキングする。サッカーのマンUが一番でそれ以下、MLBのNYヤンキースとNFLのダラス・カウボーイズが双璧である。数年前のはなしではあるが、カウボーイズの価値は1000億円を超えていた。
 カレッジ・フットボールの場合はファン・クラブの最高位のメンバーになるとホーム・ゲームのとき、スタジアムのゲートに一番近い所に駐車することができる、というようなメリットをつけているチームもある。全米ランキングで25位以内に入るような強豪チームに寄付し、最上位のメリットをうけるためには、10万ドル程度の寄付が必要である。ここのところ円安傾向だが、今日2月19日現在、1アメリカ・ドルを約93円として930万円ということになる。
 オレオレ話が創作されたものとしても最初に言い出した人物はある程度以上の金額、おそらく数百万円という数字をいったのではないかと思う。それが人と人へ伝わるうちに雪だるま式に3200万円にまで高騰したと考えると理解がゆく。
 こういう話が流布される時はチームにとって一番危ない時である。アメフト、サッカー、ラグビーの世界では、不祥事はチームがピークになるか、ピーク・アウトになった時に起こっている。
 以下、「上には上が」のはなし。共同通信の記事よりそのまま引用させていただく。

ブルームバーグNY市長、母校に寄付1000億円 ジョンズ・ホプキンス大へ
2013/1/28 10:54 【ニューヨーク=共同】
 米ジョンズ・ホプキンス大は27日までに、卒業生のブルームバーグ・ニューヨーク市長(70)による寄付が49年間で11億1800万ドル(約1020億円)に達したと発表した。同大は「米高等教育機関に10億ドルを寄付する初めての人物とみられる」と説明している。
ブルームバーグ氏は卒業の翌年の1965年に初めて5ドルを寄付。その後、84年の100万ドルなど寄付を積み重ねた。
 今回は3億5000万ドルを約束。このうち2億5000万ドルは水資源などの研究に、1億ドルは奨学金に充てられる。同氏は米経済通信社ブルームバーグの創業者で、米誌フォーブスによると、保有する資産は約250億ドル。

 過去に例をとれば、19世紀末ロックフェラーは当時の金で1000万ドルを寄付し、それを基金として、1890年に現在のシカゴ大学およびフットボール・チームが創設された。シカゴ大学はノーベル賞受賞を89人も排出している中西部の名門校である。

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2010年05月22日

#42 さくらんぼの実る頃

 奥さんが友人からさくらんぼをもらってきた。その人の庭で実を結んだという。スーパー・マーケットや果物屋で扱っているものの半分くらいの大きさだが春の空気が感じられてういういしい。

 昔、西宮球技場が関西のフットボールのメイン会場だった1970年代、1980年代、春の西日本選手権大会の一回戦の頃、球技場での観戦はさくらの花の下だった。季節の移ろいをさくらの花びらが風に舞う光景に感じた。王子スタジアムには土手があるので桜と紅葉を植えてはどうだろうか。春は花見、秋は紅葉狩りというのは興趣があると思う。

 西日本選手権はトーナメント形式で1955年(昭和30年)にはじまった。その前年には日本のアメリカンフットボール20周年の記念事業として東西対抗の西宮ボウルが実施された。この前後、フットボールはターニング・ポイントを迎える。戦前創部の9チームに加え、新しい大学チームが創設され始めた。1953年立命館大学、1955年甲南大学、1956年学習院大学、1957年防衛大学、1959年東京大学、日本体育大学。京都大学はこれに先立ち1947年にすでに創部していた。

 西日本選手権は当時はチーム数が少ないため、ゲームの機会を増やす目的でスタートした。大学4校、元大阪警視庁の選手を中心とした全大阪。現在の大阪府警は昭和20年代大阪警視庁と呼ばれ、1950年から1958年までチームがあった。その他、関西学院大学のOB中心の全神戸、関西大学OB中心の全奈良、池田高校OBらによる池田クラブの8チームが参加した。(※)第一回大会は関学が優勝している。

※『関西アメリカンフットボール史』P.60、p.61参照

 その後西日本選手権大会は、大学、社会人混成で続いたが、1984年、日本選手権の創設に伴い、チーム数の増加もあり、大学、社会人それぞれの大会として独立して運営されるようになった。時が経て、大学、社会人とも春のトーナメントの意味合いが薄れ、ここ数年前から交流戦となった。現在でもトーナメントの形を存続しているのは社会人のグリーン・ボウル・ジュニア・トーナメントのみとなった。このトーナメントは関西のX2リーグに加え、西日本全体、東は金沢、西は九州までをカバーし、普及の役割をはたしている。

 つけ加えれば、20周年記念の1954年、20周年を記して、第1回の西宮ボウルが西宮球場で行われた。西宮球場は1991年西宮スタジアムと改称され、2002年まで関西学生のメイン会場として使用された。西宮ボウルの初期はOBを加えた全関西、全関東の選抜チームの対戦が組まれた。このときは秋のシーズン直前の9月16日に開催されている。

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1980年代 西宮球技場の桜 (撮影 奥田秀樹)
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2010年05月06日

#41 フットボール好日

 5月4日は晴天でフットボール日和だった。大阪の高校の決勝と順位決定戦を見にエキスポ・フラッシュ・フィールドに出かけた。母校の豊中高校が3位決定戦に出場するのでそれが主な目的だったが、第1試合の池田高校と高槻高校の5位決定戦から見始めた。豊中は第3試合で第2試合は決勝という順番になっていた。

 池田は第4Qの残り数十秒まで14−13でリード。高槻が攻撃権を得てフィールド・ゴール圏内まで進む。4thダウンになりフィールド・ゴールを選択。
 これが左にそれて池田の勝ちと思ったら黄色のフラッグが落ちていた。池田のオフサイド。高槻が5ヤード進んで再びフィールド・ゴール・トライ。これは決まって劇的な逆転になった。

 第2試合、大阪産業大学高等学校と箕面自由学園高等学校とで決勝。点の取り合いとなり、箕面自由学園が41−34で競り勝った。

 豊中は残念ながら敗れた。前戦の産大高校戦で負傷者が続出し、キャプテンもフィールドにでることができなかった。結果は7−28の敗戦。関西大会までに負傷が癒えるだろうか。

 今大会はタックルをするアメリカンフットボールになった1970年(昭和45年)から数えて40周年で関西大会に大阪から5チームが参加できる。通常の年は3チームである。他の府県も入れ全部で14チーム。京都、滋賀もチーム数がプラスとなる。これまでは10チームが春季の関西大会に出場していた。ノックダウン方式のトーナメントの場合、順位によってシードされるため有利、不利が生じるのでそれだけに今日はどのゲームも緊張感が漂っていた。1970年にアメリカンフットボールになる前、高校はタッチ・フットボールだった。防具の入手が困難な時代であったのと、タッチの方が安全だというのがタッチを採用していた主な理由だった。しかし日本も高度成長時代に入り、防具もそれ以前より入手しやすくなったことにプラス、プレイのレベルが上がりタックル・フットボールの方が負傷が少ないという考えの人が多くなったため、アメリカンフットボールに切り替えられた。ただ、防具のそろわない学校もあったので数年間、タッチの大会も平行して行なわれ、アメリカンフットボールへのリレー・ゾーンが設けられた。

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豊中高校vs学芸高校 豊中#44 QB古角のピッチ・プレイ
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2010年05月03日

#40 第60回長浜ひょうたんボウル

 「ひょうたんボウルの日は晴れますのや」と吉川太逸先生(※)はいつもおっしゃる。今年も晴天だった。長浜ボウルは半世紀以上の歴史を重ね甲子園ボウル、ライス・ボウルに次ぎ、3番目の歴史をもっている。最初は長浜市内の中学校の対戦だった。会場も長浜西中学校や高校のグランドの時代もあった。1992年に長浜ドームが完成し、その後はドームが会場となったので晴雨は気にしなくて良いようになったが依然としていつも天気が良い。こうして環境も整ったこともあり、吉川先生ほか関係者の努力で大学の強豪校が対戦するようになった。

 2010年は日本アメリカンフットボール協会の75周年だったのでフットボールへの功労者に対する第3回目の殿堂表彰が行なわれた。吉川先生も選ばれた。今回の殿堂入りでもすでに故人となっている方々も含まれているが、めでたく先生はご自分で式に出席された。1920年(大正9年)のお生まれなので今年で90才である。80才代半ばまで自分で車の運転をされていたが、あるとき、田んぼにつっこみ車が横転してからはご家族の方の意見もあり。もっぱら自転車で移動されている。フットボールの第一線からはすでに引かれているが瓢箪で長浜の町おこしをする愛瓢会では現役の会長さんである。今度九州で開催され皇族にも臨席いただく大きな瓢箪の会にも出席するというお話でその行動力は少しも衰えない。先生のことについてはまた稿を改めて書く予定である。

※ #4 長浜 滋賀県のフットボール を参照

 昨年から会場周辺では両チームのグッズを売るテントの他にフリー・マーケットも参加していて大変ににぎやかで本場アメリカでのゲームの小型版のようになってきた。

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 大学のゲームは立命館大学と日本大学の対戦が昨年に続いて組まれた。日大が昭和20年代前半まだの最下位を低迷していた頃、当時の監督だった竹本君三は1952年から4年計画でチーム強化を図った。その頃は9月にリーグ戦がなかったので実戦を経験するため関西遠征を行なった(※)。関東の大学チームは秋のリーグ戦で対戦するのでゲームを組めなかった。したがって関西遠征になった。相手はまだチーム創部間もない立命館大学、創部8年目の京都大学、そして関西学院大学だった。宿泊費を節約するため2日間で3ゲームをこなした。結果として日大は当時甲子園ボウル2連覇中の関学にそのフィットネスを驚かれるような運動量のあるチームとなった。日大は1955年、4年計画の最終年に甲子園ボウルにおいて関学と、26対26で同点優勝を遂げる。その後、日大と立命の交流戦はとだえていたが昨年半世紀以上を経て復活した。昭和20年代後半は両チームともまだ弱小と言える状況だったが、現在ではご承知のように両チームとも甲子園で何度も優勝する強豪校となった。今回はシーソー・ゲームになり僅差で立命が長浜ボウル二連覇を果たしたが秋になれば日大はパス・ゲームの精度を上げて甲子園を射程圏内に入れてくるだろう。

※ #21〜26 日本大学のフットボール参照
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2009年07月30日

#39 新彊ウイグルと日本における近代スポーツ

 新彊ウイグルに事件が起こり、北狄(ほくてき)、東夷(とうい)、南蛮、西戎(せいじゅう)という言葉を思い出した。中華思想というものがあり、漢族は自らを中華とし、その四辺の外をこう呼んだ。実体は中原に鹿を追うことであった。列強が権力を追い求める様を猟師たちが鹿を追うのに見立てた比喩である。これから転じて「鹿」はイコール「帝位」、権力の象徴となった。まだ日本が縄文、あるいはそれ以前の時代、広大なアジアにおける文明の中心のひとつは春秋戦国の諸国が抗争を繰り広げる2本の大河の流域の大地、すなわち中原であった。しかし、悠久たる数千年の歴史の中では漢族が野蛮と呼んだ民族に征服されることしばしばであった。征服者は英雄であった。英雄とは多くの人間に食いぶちを与えうる人物を意味した。そしてその中でもっとも多くの人間を養う英雄が中原の皇帝となった。 

 新彊ウイグルはイスラムなので漢族とは異なる精神世界に暮らしている。これが現実の世界にも持ちこまれるため埋めがたい軋轢が起こり今回のような事件となった。人は不寛容であることしばしばである。国家、民族、種族、地域、その他、我と異なる要素があれば不寛容は生じ、漱石ではないが向こう三軒両隣、家族の中でも「兄弟(けいてい)牆(かき)に鬩(せめ)ぐ」、抗争が起こる。「牆(かき)」は垣根のことで、兄弟が内輪喧嘩をする、転じて財産争いを意味することもある。

 漱石の『草枕』の冒頭を引くまでもなく、人の社会はせめぎあいである。政治とは欲望、好悪とそこから生ずるパワー・バランスである。政治という俗世にあって純粋であることはできない。それは聖人がフィクションであり、ユートピアはどこにもないところを意味するのと同様である。この消息を司馬遷は『史記』の中でつぶさに描いた。『史記』を熟読すれば人間の心の深層にひそむ天邪鬼なワニの暗い世界を目の当たりにすることができる。司馬遷が絵解きした世界より2000年以上が過ぎたが人が変容した形跡はない。

 中華は一個の完結しうる世界である。世界であることの一要件は自給自足できるということである。アメリカやフランスも世界である。近代が作り出した国家という概念では収まりきらない広さと多様な要素から構成されている。中華から見れば固有の文字も持たず、思想もなく、当時にあって先進の条里制都市も持たない蓬莱(ほうらい)の国、日本は中華の周縁部にあった。そして魏志倭人伝の中で倭の国と呼ばれた。倭の国は主たる農作物に米作を選んだ。これによって関東平野までは満ちたが、狩猟、漁労と果実の採集生活で豊かだった道の奥にも寒冷地に適さぬ米作を強いたので、この元来は豊かな地を常に飢餓の危険にさらす地域におとしめてしまった。これは昭和になるまで続き、日本で最初のフットボールのリーグ戦行われた1934年(昭和9年)においても東北地方は大飢饉にみまわれ、人身売買が横行し、新聞各紙は救済のため大きな紙面を割いて募金活動を行った。

 日本は江戸時代、国を閉ざしフラスコの中のビオトープの世界を維持し続けた。葦のズイのような細い管から取り入れた舶載の文化はごく一部の為政者、貴族、武士、学者、神官僧侶、富裕な商人というような特権階級に独占されたが、これを細密化し、蒸留し独自の精神と美学を醸成した。しかし近代という地球規模の大きなうねりに飲み込まれる成り行きとなり、やむを得ざる選択として開国し、維新して明治という国家を急造した。明治という国は江戸人が作った。しかし、その不肖の息子たちは江戸人のリアリズムを体得できず、不合理に思考し、神佑を頼みとして国を誤り、20年近くに渡り踏み迷い続けて行き着くところを得ず、敗戦という形で決算した。これは帝国主義政策の列強が領土の肥大化とその結果としてもたらされた金融大恐慌を2度の大戦で清算しなければならなかった事情と同様である。ヤマトにあった古代における木の国は、中華という竹を接木し、その後欧米という鉄を接いで今日に至っている。したがって時々に古代人がその幻影を現すので、しばしば自我の不調和を自覚せざるを得ない。

 日本の近代スポーツは明治時代において当初はお雇い外国人のもたらした輸入文化の荷についたこぼれ種のようにして伝わってきた。またそれに続いて官が公的に輸入した。それまでの日本人は90数パーセントが農業を営み、基本的に大半の時間を戸外労働において過していたので日照受容時間も運動も足りていた。近代スポーツは日照量の不足するイギリス、北ヨーロッパの人々が発達させた。

 「冬の太陽は乳色にかすれて厚い雲におおわれたまま、狭い町の上にわずかにとぼしい光を投げていた。破風造りの家の立ち並んだ路地々々は、じめじめとして風が強く、時おり氷とも雪ともつかぬ柔らかい霰みたいなものが降ってきた」――高橋義孝訳。一部旧漢字をかなに改めた

 ドイツの文豪トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』の冒頭である。場所はリューベック。ハンブルグの近くに位置し、ドイツ北部と北欧三国が囲むバルト海に面した港町である。こうした天候が半年以上に渡って続く地方では夏季に戸外に出て1年分の日照量を確保することが生存の基本条件となる。それにともない19世紀、ドイツ体操、スェーデン体操、デンマーク体操などが考案され、日本でも明治期に移入、研究し学校体育で実行された。

 日本においてアメリカンフットボールは遅れてやってきたスポーツのひとつである。現在盛んな野球は明治初期、サッカーも中期に伝来している※。またラグビー、バスケットボール、バレーボールも明治後期に紹介され、大学、旧制高校、高等師範をいただく師範学校、神戸と横浜の外国人倶楽部、YMCAなどによって大正年間に各地へ伝播された。しかし昭和になっても一般にはサッカーもラグビーもなじみのないスポーツであった。その中にあって旧制高校はさまざまな競技大会を主催し旧制中学の生徒を招き啓発に努めた。あるいは新聞社が新聞普及のため各種のスポーツ大会を催した。戦前はこうしてスポーツの普及活動が細々として続いた。

※ #29 1920年 日本フットボールことはじめ1 参照   

 前回紹介したようにアメリカンフットボールはリーグ戦がはじまったのが1934年(昭和9年)であり、日系二世が大多数を占めている競技であった。昭和恐慌、大陸進出による世界からの孤立化という落ち着かぬ世相のもとでそうしたことを忘れさせてくれるもののひとつはスポーツだった。フットボールはその中にあって遅れて伝来したスポーツであった。そのためゲームは目新しさから主に首都圏、関西圏を中心に数千から万余の観衆を集めた。

 日本が最初にオリンピックに参加したのは1912年(大正元年)のスェーデンのストックホルム大会である。したがって次回、2012年のロンドン・オリンピックは初参加より100年目の大会となる。当時パリにあった国際オリンピック委員会の要請で嘉納治五郎は参加を決めた。委員会の求めに従って政府や既存の競技団体の承認を取ろうとして得られなかった。そのためこの初めて選手を派遣したオリンピックは自らが大日本体育協会を設立し参加を果たした。選手はマラソンの金栗四三、陸上短距離の三島弥彦の2名であった。嘉納治五郎は日本のスポーツの先達として明治、大正、昭和と3代に渡り、周囲からの理解を得られないもどかしさの中で努力を続けた。1938年(昭和13年)、嘉納はエジプトのカイロで開催された国際オリンピック委員会に出席する。すでに78歳になっていた。この総会においてオリンピックの東京開催が決まった。帰途、使命を果たし終えて安堵したかのように太平洋の船上で客死する。しかし、1940年に開催を予定されていた大会は戦局の悪化のため返上され、実現されることのない幻のオリンピックとなった。戦前、1926年(大正15年)日本におけるスポーツ振興の手段として水泳連盟の田畑政治が「オリンピック第一主義」を唱える。これは6年後、1932年(昭和7年)に開催されたロサンゼルス・オリンピックにおける日本水泳のめざましい活躍という成果を上げた。この戦前において唱えられたオリンピック第一主義は現在も根強く残り、その関心は依然として高い。一方国際オリンピック委員会におけるキャスティング・ボードを握っている欧米ではオリンピックは生活のいろどりのひとつと位置付けられている。

 現在、世界規模のスポーツ大会はこのオリンピックとサッカーのワールド・カップに代表されるヨーロッパ型と4大プロ・スポーツを中心とするアメリカ型のせめぎあいとなっている。日本は前者に組みしている。アメリカにおける4大スポーツ、フットボール、ベースボール、バスケットボール、アイスホッケーはそれぞれが事実上のワールド・チャンピオンシップなのだが、パスポート主義、つまり国籍に基づくチーム編成をするヨーロッパ型スポーツの支持者は、クラブに基礎を置き、国籍を問わないアメリカ型のスポーツを寛容しようとしない。

 ついでながら、日本においては大相撲以外に真のプロ・スポーツは成立しにくい環境にある。それは人口の少なさとシーズン・スポーツ制という考えがないこと、取り組む競技数が多すぎて人材が分散してしまうこと、言語の壁があることに起因している。また、チーム力の均衡化を計るという思考の欠如、本来の意味における地域マーケティングの考え方がないことも加えることができる。
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2009年07月23日

#38 NEBとU19

 タイトルの「NEBとU19」を見て、すぐに「ニュー・エラ・ボウル」と「アンダー・ナインティーン」、つまり、先日までアメリカで行われていた19歳以下を出場資格とするジュニア・ワールド・チャンピオンシップ、と理解された人はどのくらいおられるだろう。どの分野にも略号がある。最近ではiPS細胞などがよく知られている。文章は相互理解の上に成り立っている。このブログの対象読者はフットボールのファンであることを前提のひとつにしている。その方々の少なくとも95%以上に理解していただけるように書いているつもりだが、ときどき身内話になっていることにあとで気づくことがある。

 NEBに行くためにバスに乗った。2人掛けの席もかなり空いている。小学校3,4年と思われる子供が2人並んでいる前の席に座った。2人はナゾナゾを出し合っている。一人の子が「長くてつらいものはなぁんだ」と訊く。もう一人の子が、「人生」と応えた。それだけでも2人の顔を見たくなったのだが、その応えについての問題を出した子の返しがちょっとびっくりだった。「短くてもつらい人生があるよ」。

 NEBは観戦ではなく秋から始まる関西学生リーグでの新しい試みを行うための予習を手伝う予定になっていた。しかし、ゲーム開始後まもなく携帯が鳴って、予期せぬミーティングに加わることになった。昨今はどの分野でも大きな変化が起こっている。グーグルがパソコンの分野に参加し、無料のOS提供を始めたので、この分野におけるマイクロ・ソフト寡占の状態が崩れる可能性が出てきた。グーグルはネットブックなどの低価格パソコンがさらに普及し検索頻度が上がることを目的としているのでOSが無料であることはその戦略の1パーツにしか過ぎない。グーグルは書籍をデジタル化することで起きた裁判でもあっさり和解金として1億2500万ドルを支払うことを認めたり、これまでのビジネス世界であれば、企業の死活にかかわるような金額のことがらをいともあっさりとパスして行っている。マクロにものごとをとらえ、グーグルにとってはささいなことに頓着しないという方針が明快だ。このささいなという金額はグーグルにとってであって普通の企業にあてはまるものではないことはいうまでもない。日本企業でも欠陥商品で死者を出した巨大企業が信用を賭して数百億円の支出を認めたことがあった。マイクロ・ソフトの創始者、ビル・ゲイツは自社を超える存在が現れる時が来ることを予測し、また口にもしていた。別の角度から言えば、両社の創設者の出身校、ハーバードとスタンフォードの戦いに持ち込まれた。ただ、まだノロシが上がった段階で実際の商品が市場に出るのは来年半ばとのことなのでどういった影響がでるかはそのあとの話である。

 以前、企業30年説というものがあってどんなビジネス・モデルや発明も30年経てば機能しなくなると言われた時期があった。現状はこのサイクルがさらに早まった。変化しないものは衰退し舞台から去って行くのが現実だ。

 NEBもその前身であった平成ボウルのスタート時の内容から大きく変化している。開催回数が20回を数えたので試みとして行われた部分も歴史となった。開催場所もすでに何度か移った。対戦も最初のものとまったく異なったものになった。当初は単独チームにアメリカのプレーヤーが加わった。現在は関西学生リーグのディビジョン1から3までの全チームを2つに分け、そこから選抜した2チームを母体としてアメリカ人プレーヤーが加わっている。開催場所も替わった。今年の王子スタジアムはその収容力と観客数のバランスがうまくとれた。ゲームもビッグ・プレーが要所にあり、点数も拮抗し盛り上がったようだ。打ち合わせのために試合の大半を見ることができなかったが一週間後以降にCS放送が何回かあるのでミーティングにも集中できた。

 U19のWeb Cast、つまりネットによる動画送信を見る。JAPANの初戦、対ドイツ戦、準決勝のカナダ戦を見ることができた。オン・デマンドなので好きなときから見始めることができる。アクセスがかなりありそうなのだが動画が重くなってフリーズするようなことがない。動画送信にはEZ Streamというインフラを使用していた。Sky・AのKさんからESPNが制作すると聞いていたが、3,4位決定戦、優勝決定戦は違ったようだ。すくなくとも決勝はFOXだった。この2ゲームはストリーミングがなかった。JAPANとメキシコの3,4位決定戦と決勝はライブでと思って夜中に起きたが送信されておらず、この原稿を書いている時点でもまだ流されていない。放送からずっとあとに流すのか、あるいはこの2ゲームの動画送信はないのかも知れない。いずれにしても便利になった。JAPANとドイツ、カナダ戦は1台のカメラで撮っていたが向こうはカメラマンがフットボールに明るいのでほとんどプレーの撮り逃しがない。記憶では一度リバース・プレーにひっかかっていた。しかし、これもある種、カメラがどこまでフェイクにひっかからないか見ているのも面白かった。ロング・パスはさすがに画角の範囲の問題があるので完全について行くのは難しい。しかし、ミドル・パスまではほぼカバーしていた。アナウンスも楽しんでやっているから、そのリラックスした空気が伝わってきて良い雰囲気だった。

 1936年(昭和11年)に全日本の最初のアメリカ遠征が行われた。日本の国際的立場は1931年の満州事変から刻々と悪化し、特にアメリカと袂を分かつのは時間の問題になっていた。日本に留学していた日系二世の立場は微妙だった。前回書いたように全日本は日本人、安藤眉男(立教大学)を除いて全員が明治大学、早稲田大学の各7名を中核とする日系二世だった。一行は選手20名その他に、コーチが明治の武田道朗、役員は川島治雄と朝日新聞社記者で連盟の理事でもある加納克亮の計23名だった。シーズンが終った1936年12月3日に出発した。リーグ戦2年目よりシーズン制が守られ10月に始まって11月末には終了していたからである。その当時は通常であった14日間の航海ののち、アメリカ西海岸に到着した。翌年1937年1月3日、南カリフォルニア高校選抜チームと対戦、6−19の結果を残した。帰国の途はハワイを経由、その地でルーズベルト高校と対戦、0−0と引き分けた。そしておよそ50日後の1月21日に帰国した。アメリカの高校生すなわちU19なので今回のワールド・ジュニア・ワールド・チャンピオンシップのさきがけということもできるだろう。

 あとから振り返ってみればこれが遠征の最後のチャンスだった。帰国した1937年7月、盧溝橋事件が起きた。新聞、雑誌の軍国主義の色がさらに鮮明になり日本の国際社会における孤立化が加速して行った。

 NFLは普及のためのさまざまな試みをトライアル・エラーしつつ行っている。まず、やってみて良い意味での君子豹変を繰り返す。NFLのファームとしての位置づけで、1991年にワールド・リーグをアメリカ、カナダ、ヨーロッパにまたがってスタート。それを引き継ぐかたちでNFLヨーロッパになり、スーパー・ボウルMVPになったカート・ワーナーを代表とするNFLでも活躍するプレーヤーを生み出した。しかし、コスト・パフォーマンスの点から2008年廃止。ジュニア・ワールド・チャンピオンシップの以前にも同じ趣旨の大会があった。今回のアメリカチームはかなり強化され、カレッジの1部リーグ・チームに進学するプレーヤーが36人含まれているということである。ゲーム・スタッツを見れば、攻撃獲得ヤードが408ヤード対49ヤード、カナダのラッシング・ヤードはマイナス8ヤード、従って大会前にシード順位が第1位であったカナダに41−3と快勝したのも当然と言えるだろう。
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2009年07月03日

#37 日本アメリカンフットボール創始75周年の記念ゲーム

 下記の写真の人は関東学生アメリカンフットボール連盟の前川誠さんである。もう知り合って20年ほどになる。かなり以前、関西のある会社が関東大学リーグのスポンサーになっていた。日本のバブルまっただ中のころである。3年契約で、そのときの学生連盟の窓口の一人が前川さんだった。勤め人だったが、フットボール発展のためにサラリーマンをやめて、学連の事務局長の道を選んだ。

前川さんとレジェンド・ゲームのパンフレット
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 前川さんの表現を借りると、理事の人々から「また、前川は分からんことをやっている」といわれながら着実にインフラ整備や広報活動を続けてきた。関東学生のホーム・フィールドになっているアミノバイタル建設やさまざまな集客企画が考え出された。何か新しいことをするたびにそのひとなつっこい笑顔でこんなことをしたんですよ、という。今回、日本初のリーグ戦のセイル・アウト・チームによる75周年のレジェンド・ゲームも前川さんが企画した。

 全明治対全早稲田。

 6月13日、土曜日。ゲーム前、明治大学の野崎監督もにこにこされていた。昨年の12月、明治のコーチをされている秋山篤弘さんのご紹介でインタビューをさせていただいた。年齢は76歳になられているが現役監督として再び強力なチームをつくられた。今春、ファイターズも7−12と定期戦で敗れた。有名なペン・ステイツ大学のジョー・パターノのように学生に精神的感化を与えるタイプの監督になっておられる。パターノは弁護士になるかフットボールのコーチになるかの選択でコーチを選んだ。通称ジョーパーの影響力はペンシルバニア州に行けば大統領よりも大きいかも知れない。学生が相手チームを口汚くののしったり、スポーツマンらしくない振る舞いをするとパターノは容赦なく激しく叱る。そのシーンはテレビ放映されるのでよく知られている。確か今年83歳だ。野崎監督は長く勝ち負けの世界におられ星霜を経た厳格な表情だが、パターノとは反対にほとんど感情を露わにされない。試合後のハドルは気迫がこもっているが緊張感のある静謐が支配している。

 ついでながらシカゴ大学でヘッド・コーチ生活の大半を送ったエイモス・アロンゾ・スタッグは71年間現役のコーチ生活を続け、98歳で引退した。コーチのコーチとして尊敬を受け103歳で天寿を全うした。次に述べる日本で最初にフットボールを紹介した岡部平太の先生でもあった。

 実施された当時日本で最初と言われたゲームがいくつかある。
 
 1920年 おそらく秋。東京高等師範学校附属中学が学年対抗で行ったゲーム。岡部平太が米国から帰国後、付属中学で手ほどきした。その参加者であった牧野正巳氏の手記が東京高等師範学校付属中学校創立70周年の記念誌(1958年刊)に載っている。牧野氏は日本で初のTDパス・レシーブをした。
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 文中、岡部の米国からの帰国が「大正八年」と記述されているが、牧野氏の感違いで1920年(大正9年)である。

 1927年4月30日。於:成蹊学園グランド。
 東京高等師範学校ラグビー部の紅白戦
 東京高等師範学校ラグビー部は大正天皇の崩御に伴い予定されていた試合が中止になったため、喪が明けるまでの期間、ラグビー研究のため半年間と期限を区切ってアメリカンフットボールも研究することとした。それからも察せられるように、まだこの時代、両競技間に現在ほどの大きな差異が生じていなかった。

 「アメリカンフットボール」というタイトルの日本で最初のアメリカンフットボールについての本である。1927年6月に出版され、練習の仕方、ルールなどが記されている。この写真は復刻版。オリジナルのものは経年のため装丁がひどく痛んでいる。本の元の所有者は関西大学アメリカンフットボールの創部者、松葉徳三郎である。
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 その前書き。傍線部分に日本最初の試合と記されている。筆者の安川伊三はこのゲーム実施の実質的リーダーを務め、同時に先述の本「アメリカンフットボール」翻訳編集の中心的役割を果たした。高等師範学校の助教授として現在のタッチフットボールに似た旧制中学生向けの簡易ゲームを考案しフットボールの普及に努めたが30代前半を迎えたところで夭逝した。
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 基本練習の写真。右の選手に抱えられたボールは現在のものと異なりほぼ球体に近い。
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 1933年12月25日。於立教大学グランド。
 明治大学のΣNK(シグマ・ヌ・カッパ)というチームと東京在住の日系二世で編成されたチームとのゲーム。これは新聞各紙に前触れ記事が掲載され、翌日はスコアだけでなく文章を伴った記事が載った。狽mKはギリシヤ語で「団結と勝利」という意味が込められていると思われるが、現存される方がすでにおられないため未確認である。

 クラブ旗に「狽mK」という文字が見える。前列左端がこの写真の保有者であった加藤二朗氏。2列目左から2番目が松本瀧蔵教授。
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 ゲーム前日12/25付け 読売新聞 東京版
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 ゲーム翌日、12/26付け 読売新聞 東京版
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 大学対抗の最初のゲームは、1934年(昭和9年)4月に行われた。場所は当時、明治大学グランドがあった代田橋である。そののち現在の八幡山に移る。結果は0ー0の引き分けだった。

 明治大学、代田橋グランドでの記念写真。Daidabashiと1934という手書き文字が読める。
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 75年目に邂逅したレジェンド・ゲームは31−7で、全明治の勝利に終わった。

 ソーシアル・ハウスというアメリカから日本に留学していた日系二世が起居をともにする寄宿舎のような施設が戦前、東京にあった。ひとつの大学に偏らずいろいろな大学の学生たちが同じ屋根の下に暮らしていた。本願寺派のブッディストが営む互助組織だった。この組織のネットワークはハワイ、アメリカのメイン・ランドの東西海岸にもあり移民の手助けを行っていた。※ここに在住していた明治の学生たちがチームを始めた。そのまとめ役に当たったのが明治大学教授の松本瀧蔵だった。
 ※#24 科学的武士道―日本大学のフットボール4 参照

 言葉の不自由さから鬱屈していた日系人学生たちを活気づけるためアメリカ留学の中で同じ体験をした松本瀧蔵が彼らをフットボールで元気にしようとした。松本はアメリカの高校でスポーツにも秀でた文武両道の超優秀な成績を収めた。大学はハーバードを卒業した。この学生生活の中でフットボールも経験している。戦後は出身地の広島選出の衆議院議員となる。松本の寄付で日本アメリカンフットボールの殿堂のある清里にキャンピング施設が作られその名前が冠されている。1933年12月25日、クリスマスの日のゲームのレフリーは松本だった。

 松本は日本フットボールの父とされている立教大学のポール・ラッシュ博士に働きかけ、立教大学にもチームができた。ポール・ラッシュは明治大学の二世たちを愛し、Meiji Boyと親しみを込めて呼んだ。1934年、リーグ戦が行なわれた時、明治の16人のメンバーは全員が日系アメリカ人だったのでクラブでの共通言語はスラングに満ちあふれた英語だった。創部3年目、明治に入学しフットボール部に入部した数少ない日本人、竹下正晃の言によれば上品でない英語はとても上手になったとのことである。そのとき日本人は竹下を含め2名のみだった。竹下は後に明治大学のコーチになり、1964年、日本協会30周年事業として行われた全日本チームのハワイ遠征を、先輩であった日系の人たちの手助けを借りて実現し、総監督としてチームを率いた。全日本は東西リーグで優勝していた日本大学、関西学院大学、のコンバインド・チームでその他の大学からも2名が参加した。遠征は12月9日より21日まで行われた。それにともない例年は12月に行われる甲子園ボウルがこの年度のみ翌1965年の1月15日に実施という変則的な日程になった。

 全日本を迎え入れた明治ボーイたち自身も1936年、全日本選抜の主力としてアメリカ遠征に加わった。この年、同率でリーグ優勝した明治、早稲田を中心としてチームが編成された。ほぼ全員に近くが日系二世で、日本人で唯一このメンバーに加わったのが立教のガード、安藤眉男だった。安藤は大学卒業後早世し、人々は惜しんでその名を安藤杯というトロフィーに残した。安藤杯は関東大学リーグのシーズン最優秀選手に贈られる賞である。

 ポール・ラッシュは組織力と企画性にたけていたので立教大学チームを加え、明治、早稲田、立教の3大学で初のリーグが創設された。リーグ戦は先にも述べたように1934年12月に行なわれた。そのオープニング・セレモニーとして11月29日、木曜、アメリカでは感謝祭に当たる日に行われたエキジビション・ゲームが日本最初のゲームとして現在では定着し、ここを起点として周年は数えられている。全日本と対戦したのは横浜の外国人倶楽部のメンバーだった。平均年齢は30歳を越えており、アメリカン・フットボール経験の少ないヨーロッパ系のメンバーで構成されていたため、若さと経験に勝る学生選抜の日本チームは26−0と快勝した。こうしたマッチングにもポール・ラッシュがきめ細かな配慮を行った結果だった。全日本チーム25名の内、12名は明治大学から選出された。その顔ぶれの大半を狽mKのメンバーが占めたのは自然のなりゆきと言えた。なお、日本アメリカンフットボール協会が1984年に50周年の記念誌として発行した『限りなき前進 日本アメリカンフットボール50年史』中に26名という回顧譚があるが、語られた方の記憶違いで当時のメンバー表は25名が記載されている。
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2009年06月23日

#36 U19

 sky・AのKさんと相談ごとがあって上ケ原に出かけた。KさんがU19の合宿取材に行くと言う。その場所が上ケ原、つまり関西学院のフットボール・フィールドである。ちょうどU19の合宿初日の練習日に当たっていたのでそれも見せてもらうことにした。関西学院のフィールドは第3フィールドと呼ばれていて、今年は19日に関々戦が行われる。スタンドが以前よりさらに整備されていて有料ゲームが十分に開催できる。ここ最近は高校のフィールドも人工芝が貼られ、その普及は年々早まっている。日本の人工芝メーカーも確か5,6社あるはずだ。サッカーのワールド・カップ、ヨーロッパ予選も人工芝を認めるようになった。また、NFL、マイアミ・ドルフィンズの天才QBダン・マリーノが自然芝上のなんの障害も考えられない条件下でアキレス腱を切ったりしたから自然芝信仰もトーン・ダウンしてきている。特に日本ではフットボールは1日に数試合するのでメンテナンスの面から言って人工芝が合理的である。

 ワールド・カップがきっかけになって神戸にウイング・スタジアムが建設された。しかしワールド・カップ終了後自然芝が根付かず、関学・京大戦、社会人のジャパンXボウルが招聘されたが、苔の上でプレーするがごとくずるずると滑って、とても危険だった。長いクリーツ、いわばフットボール用の太いスパイクのようなものでも対応できなかった。

 爽やかな風が渡ってゆくスタンド中段でU19の練習の始まるのを待っていると、「こんにちわ、」と上の方から声をかけられた。見れば関西大学の板井ヘッドコーチだった。先日、甲子園ボウルを盛り上げる会の二次会で名刺を交換した。一緒にマスコミ志望の女子マネージャーを同行してきていた。彼女の質問に応えていたら2次会は終わってしまった。参加者のある人の奥さんが別のところで飲んでいるのでそれと合流することになった。板井HCとはそこで隣り合わせになり、いろいろなことを話して意気投合した。企業にあって日々、煩悩で磨耗している人間からは失せてしまう武道家の趣があり、「サムライ」と言う印象を受けた。板井HCとは1993年の関学・京大戦が終わったあと、ある場所で隣り合わせになった。敗軍のキャプテンであったので声をかけなかった。ぼくはその前の年から、関西テレビで始まったフットボールのプログラム「KTVタッチダウン」のプロデューサー兼制作アドバイザーをしていた。したがって関西学生リーグの全ゲームに立ち会っていたからそうした場面に行きあうことになった。

 選手たちが現れ始めたころU19の監督になった大阪産業大学付属高校の山嵜先生もやってきて挨拶を交わした。もう、20数年来の旧知である。産大高校は周りからは恵まれた環境のように思われているがそれはあらかじめ用意されていたものではなく、山嵜先生が一から手作りで営々と築き上げてきた長期間に渡る地道で孤独な事業である。生徒の指導に優れており、選手の良い部分、またそのときどきの選手の調子を見極める力は天才的である。特に昨年のクリスマス・ボウル、リードされた産大高校の最終クォーター残り1分からの連続スィープ・プレーによる逆転劇は圧巻だった。一緒に見ていた関西の高校フットボールの指導者の方々からその力強い気迫にあふれたプレー選択に感嘆の声が続いて上がった。NFL、カレッジ、国内のゲーム、すべてのフットボール観戦の中でもあのシリーズは印象度ナンバー・ワンだった。

 アメリカ遠征でも山嵜先生が素晴らしい結果をもたらされることを祈っている。開催場所がNFLのホール・オブ・フェイムがあるキャントンなので遠征に同行したかったのだが、仕事のため、いかんともしがたい。一度訪ずれたことがあるが何度でも行きたい場所のひとつだ。従軍記者になるsky・AのKさんによればJAPANが順位決定戦まで進めばESPNの素材を買い、ノーカットで放送されるというから、初戦のドイツ戦の必勝を願っている。

 第3フィールドと練習開始
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